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第9話 波紋

 帝国の西端、瀬戸内に面した軍港――呉。その巨大な第一組立ヤードに、艦首ブロックが据え付けられた朝は、曇天だった。夜明けの雨がまだ舗装の隙間に残っていたが、鋼鉄の構造体は容赦なく空を切り裂くように姿を現していた。高さ二十メートル以上。装甲厚三百ミリの舷側が、未塗装のまま剥き出しとなり、雨の粒を撥ねながら静かに横たわっていた。

 それは、一般市民にとっては「ただの鉄の塊」にすぎなかった。だが――造船所の中で働く者たち、特に、艦の“骨組み”を毎日触っている男たちにとっては、それが“ただのものではない”ことは明白だった。

 「おい、これ……なんだ。でかすぎねぇか?」

 「四百メートル……って話もあるぞ。あの大和だって二百六十ちょいだろ?」

 「砲塔の取り付け座が三重になってる。三連装で、あれか……」

 軍の発表はない。図面も伏せられ、現場で働く者にさえ、詳細は知らされていなかった。だが、鋼板の厚み、リベットの間隔、フレームの応力分散……。そうした“無言の情報”を読む眼は、現場の技術者たちが誰よりも持っていた。

 「――これ、大和より、ずっと固いぞ」

 「いや、そもそも……“動く”のか? この重さで」

 「動かす気だよ。“何か”で」

 そう囁かれる中に、いつからか奇妙な言葉が混じり始めた。

 “原子の火”

 最初に言い出したのが誰かは分からない。だがその言葉は、まるで水に落ちた一滴のインクのように、じわじわと広がりはじめた。

 それから三日後――東京。

 永田町。午後の議事堂控室。政友会幹部会の非公式会合が行われていた。

 「聞いたか? 呉で“怪物みたいな艦”が組まれてるそうだ」

 「どうやら、正式な起工報告すらなしに進んでいるらしい。誰の命令だ?」

 「軍令部でも海軍省でもない。名前が挙がっているのは……“特設第十艦隊”」

 室内がざわめいた。

 「第十艦隊? あれは予備役艦の掃き溜めだろう。今さらそんなところが――」

 「いや、今は違う。新任の艦隊司令長官……桐谷洋輔という男が就いてから、妙な動きが続いている。旧式艦の改修計画、奇妙な資材の集中発注、工廠からの非公式要請……」

 その名が出ると、一瞬、空気が変わった。

 「桐谷……あの、“沈黙の艦隊”の男か」

 「軍務局時代の記録を見たが、かなりの“思想家”だ。だが、同時に“現実主義者”でもある。──たちが悪い」

 会議の末席にいた一人が、机を指で叩いた。

 「問題は、何を積むつもりかだ。旧式艦なら目をつぶれる。しかし、あれは違う。“動力”が問題だ」

 沈黙が落ちる。

 「原子炉、だという噂がある」

 再び、空気が重くなる。

 「条約違反になる可能性は?」

 「明確な規定はない。原子力という概念自体、まだ軍縮条約の想定外だ」

 「では、“建前”は通るということだな?」

 「通るかもしれんが、“納得される”とは限らん」

 誰もが、アメリカとイギリスの顔を思い浮かべていた。

 一方、霞ヶ関の外務省。欧州局長・岡崎常務官は、机の上に二通の報告書を並べていた。

 ひとつは、ロンドン駐在武官からの報告。

「英海軍関係者が呉の造船動向に懸念。『大和型を超える艦が建造中』との未確認情報。

さらに、特殊な冷却装置が搬入されているとの情報あり」

 もうひとつは、アメリカ大使館からの非公式覚書。

「米国政府は貴国に対し、現行軍縮枠組における透明性の確保を求める。

特に“新型動力艦”に関する情報提供を希望するものである」

 岡崎は、報告書を閉じ、ただ一言、呟いた。

 「火がついたな……。問題は、誰が消すのか、だ」

 四月上旬、東京。曇天の下、国会議事堂の白壁が鈍く光っていた。

 その地下会議室では、通称「軍政非公式調整会議」が開かれていた。出席者は、政友会の幹部数名、海軍省の高級官僚、軍令部第三部の代表、そして外務省の事務次官。議事録は残されず、議長もいない――だが、こうした会合こそが実際には国家の“芯”を動かす場だった。

 「〈土佐〉の存在が、ワシントンにも筒抜けだ。機密がどこかから漏れている」

 「いや、問題は“漏れたこと”ではない。“止めていない”ことだ」

 「海軍はこの艦を、条約に抵触しないと言い張るつもりか?」

 視線が軍令部第三部の代表――井口大佐へ向けられる。だが、彼は答えなかった。

 「……動力は“重油”ではない。情報が事実なら、“原子炉”だ」

 「建造が進行しているのも事実だ。呉の工作予算は既に倍増している。どう説明するつもりかね?」

 そのとき、外務省の事務次官が低い声で口を挟んだ。

 「駐日米国大使館が、非公式に情報提供を求めてきています。“原子力軍艦”が軍縮の精神に反すると――」

 「精神、ね」

 誰かが鼻で笑った。

 「問題は、“原子力が兵器になるかどうか”だ。それとも、艦を動かすだけなら文句はないのか?」

 「いや。問題はもっと根が深い。――“思想”だよ」

 会議室に、静かな沈黙が落ちた。

 「〈土佐〉が何を動力にしていようが、全長が何メートルあろうが、真に警戒されているのは“その存在そのもの”だ。“国民国家の枠”を超えて、帝国が“次の段階”に進む可能性を示してしまった。だから、欧米は怯えている」

 「そういう艦を、どうやって制御する?」

 「誰にもできん。だからこそ、“桐谷洋輔”という男が恐れられている」

 同じ頃、横須賀鎮守府。海軍省と連合艦隊司令部の緊急会談が行われていた。

 「特設第十艦隊の動きが独立しすぎている」

 「連合艦隊への情報提供もほぼ皆無だ」

 「なぜ、我々の頭越しに〈土佐〉の建造が進んでいる?」

 海軍大臣直属の参謀が言い放った。

 「……これは、“命令不服従”に近い」

 その言葉に、海軍省の技術本部付き少将が冷ややかに応じる。

 「だが、“正式な不服従”ではない。全ては技術開発の延長で処理され、予備艦整備枠の範囲内で手続きされている。違反はない。ただ……“思想”が違うだけだ」

 「思想……?」

 「はい。“制海権”を守る艦か、“海そのものを制御する艦”か。従来の艦隊運用では、前者で十分だった。だが、〈土佐〉は後者を志向している。それが理解できないなら、話すだけ無駄です」

 沈黙が広がった。やがて、年配の提督が口を開いた。

 「昔、“無用艦”と呼ばれた艦があったな。……〈土佐〉。今、その名を継ぐ艦が、“思想”を宿して戻ってくる。時代は進んでしまった、ということか」

 新聞各社もまた、情報の断片を拾い始めていた。

 『巨大艦建造進行中、呉工廠で謎の資材集中』

 『帝国、第二の“大和”か? 新型艦艇の影』

 『動力は新型“火”――原子力か?』

 記事は憶測に満ち、明言を避けていた。だが行間からは、明らかに“何かが変わりつつある”気配が読み取れた。

 そして、ある夜のこと。銀座のバーの奥。海軍記者と外務省の若手が、グラスを片手に囁いていた。

 「……このままじゃ、〈土佐〉は戦争の種になるぞ」

 「いや、違う。〈土佐〉は“戦争を終わらせる種”かもしれない」

 その夜の街は、雨に濡れていた。だが、誰もが胸の奥に、晴れないものを抱えていた。

 呉、特設第十艦隊司令部。

 午後七時を回り、庁舎には灯が灯り始めていた。その最奥、海側に面した司令長官執務室では、桐谷洋輔中将が黙然と一枚の新聞を読んでいた。広げられた記事の見出しには、太く赤い活字でこう書かれている。

 「“亡霊艦”再臨か――呉で進む巨大艦建造の謎」

 記事の内容は憶測に満ちていたが、根底にあるのは“疑い”ではなかった。“恐れ”だった。かつての〈大和〉がそうであったように、〈土佐〉の名が人々の無意識に投げかけるもの――それは「戦争」や「国家の傲慢」などではなく、もっと曖昧で、言語化できない、巨大な何かへの畏怖だった。

 桐谷は新聞を机に伏せると、ゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。ガラス越しに見る造船所の灯りは、港湾の霧の中で滲んでいた。遠くで、鋼材を運ぶクレーンが鳴っている。

 その音に混じって、ノックがひとつ。扉が開き、白衣姿の水谷義政が入ってきた。

 「どうやら……始まりましたね」

 「……ああ。遅すぎるぐらいだ」

 二人は言葉少なに、立ったまま沈黙した。水谷がそっと、黒皮の書類バインダーを差し出す。

 「建造進捗。第一セクション、完了です。第二ブロックの基礎溶接に入りました。動力系配管も予定通り。防御隔壁は現行の対魚雷規格の三倍です」

 「……被弾することを前提にしているな」

 「ええ。原子炉を積む以上、“何があっても止まらない”艦でなければならない」

 桐谷は書類を受け取り、ざっと目を通す。数字の列は冷ややかだが、その一つひとつが――「思想」の構造体だ。

 「水谷。なぜ君は、そこまで“火”に固執する?」

 「……逆です。私は“火に焼かれた時代”が嫌いなんです」

 水谷は静かに言った。

 「これまでの艦は、“火”に突き動かされていました。重油、砲火、火薬――すべては“燃えることで進む”機械だった。だが原子力は違う。燃えない。消えもしない。ただ、“保ち続ける”……」

 彼は一拍おいて続けた。

 「〈土佐〉は、ただの戦艦じゃありません。“思想を推進する構造体”です。もしこの艦が海に浮かび、国民の目に触れたとき――それは単なる軍事的脅威ではなく、“国家がどう世界を見ているか”という声明になる。我々はそれを、胸を張って海に出さねばならない」

 桐谷は静かに頷いた。言葉は少ないが、その背にあるもの――“未来を見据えた意志”――は、水谷と共鳴していた。

 「……あの頃、まだ子供だった私は、スループ艦〈大和〉の進水式を見に行ったことがある」

 水谷が眉を上げる。

 「初代〈大和〉、ですか?」

 桐谷は遠い目をして、語り始めた。

まだ帝都が“東京市”と呼ばれていた時代。

 少年の桐谷は、父に連れられて横須賀に向かった。進水する艦の名は〈大和〉。排水量わずか三千トン余りの小艦だったが、桐谷少年の目には、それが“海を裂く怪物”のように映っていた。

 式典の音楽、艦体に落ちる酒瓶、ゆっくりと水に滑り込む鋼鉄の塊。歓声と拍手。だが、桐谷の耳に残ったのは――進水の際に艦が立てた、“一滴の水音”だった。

 その“音”は、なぜか今も耳に残っている。“何かが動き出した”と感じさせる、あの一瞬の響き。

 「だから私は、〈土佐〉の進水も“音”で覚えるだろうと思うんだ。国がどこへ向かおうとしているか、それは――きっと、艦が最初に鳴らす音に宿る」

 「それは……エンジンの爆音ではない?」

 水谷が冗談めかして返す。

 「いや。“火”じゃない。“波”だ。

 波が動き、世界が撓む――その最初の一滴。その音を、聞き届けたい」

 桐谷はそう言って、窓の外に視線を投げた。霧の向こうに、巨大なクレーンがゆっくりと回転する。

その先端に吊るされた鋼材が、まるで“艦の骨”のように、夜の闇に滑っていった。それはまさに、“思想の器”の建造が、いま本格化しつつある証だった。

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