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第8話 火と鋼のあいだ

 建造第一週目。呉工廠第三ドックは、〈土佐〉の胎動とともに喧騒を取り戻していた。

 切断、搬入、仮溶接。鋼は音を立てて組まれ、艦の輪郭がわずかずつ現れてゆく。だが、それは同時に――“重さ”を伴う日々の始まりでもあった。

 「――工数、予定より三日遅れ。内火装備品の搬入が関門だ。各班、調整を急げ」

 工区主任が低い声で叫ぶ。板金班の作業員が汗まみれの顔で頷き、走り去った。

 〈土佐〉は巨大すぎた。基準排水量二〇万トン。原子炉四基と主砲四基。しかもその全てが“時代遅れではない”最新である必要があった。図面は完成していた。理論も整っていた。だが、現実の鉄と人は理論のようには動かない。

 桐谷は工区の仮設指揮所から現場を見下ろしつつ、無言で現場の遅れに目をやっていた。後ろからやってきたのは、報告書を抱えた岡嶋だった。

 「司令、予定変更点について――」

 「いい。数字は見ればわかる」

 桐谷は言葉をさえぎった。ただ、責める口調ではなかった。むしろ、自身もまた“見えぬ壁”と格闘している表情だった。

 「艦というのはな。紙の上では計算できても、鉄の上では“思惑”と“摩擦”が起こる」

 「それは……思想と現実の違いですか?」

 「違いじゃない。そこにある“距離”だ。〈土佐〉は思想で造られた艦だ。だが、思想だけで動く艦は存在しない。人と、汗と、決意がなければ、ただの怪物になる」

 岡嶋は小さくうなずき、帳簿を抱えたまま、黙って桐谷の背に並んだ。そこへ、水谷が小走りで現れた。白衣の下に薄汚れた作業着、手には何かの試料――放射線遮蔽材の新素材の試験結果だった。

 「新しい耐熱パネル、試験段階を越えた。放射性冷却材の漏出シミュレーションでも数値は安定している」

 「良し……。あとは砲か」

 桐谷が目を細めると、水谷もまた真顔になった。

 「……載せられるか、あの砲を」

 51cm三連装砲。今や世界でも他に存在しない、文字通り“国家の象徴”ともいえる砲身だった。だが、技術的には重すぎる。反動も射界も構造も、〈土佐〉の設計にとって“臨界点”に近い。

 「構造解析の結論がまだ出ていない。が――俺の勘では、“のる”。ただし、それを本当に撃てるかは別問題だ」

 桐谷はゆっくりと口を開いた。

 「……ならば、“撃てるようにせよ”。思想が撃てねば、意味がない」

 現場では火花が再び散り、鋼がまた組まれていく。

 その音は、まだ形にならぬ未来を、少しずつこの現実へと引き寄せていた。工区南端、仮設会議室――と呼ぶにはあまりに殺風景な一室。床には鉄粉交じりの灰色の埃が薄く積もり、仮設の蛍光灯が明滅していた。窓の外では、クレーンが唸り声を上げ、初期ブロックの組立作業が進んでいる。

 その一方で、室内にはまるで別種の時間が流れていた。静寂と、書類の重みと、言葉にされない焦り。水谷義政は、机上に並べられた封筒の山を睨みながら、冷めかけた緑茶を一口含んだ。

 「五通だ……わずか一週間で、五通」

 ぼそりと呟く声に、岡嶋中尉が反応した。設計主務の若き将校は、端正な顔をややしかめて言った。

 「また、東京ですか」

 「ああ。軍令部から二通。外務省から一、内務省から一。そして……今回は、総理秘書官室名義だ」

 水谷は、いちばん上の封筒を指先で弾いた。重みのない紙の震えが、小さな音を立てて消えた。

 「名目は“機密保持の強化と情報管理”。だが中身は、要するに――“現場は勝手に動くな”だ」

 岡嶋は苦笑した。

 「呉に来た彼らの誰一人、原子炉の実態を見たこともないのに、よくもまあ口だけは……」

 「知らぬ者ほど、恐れる。そして恐れる者ほど、制御しようとする。それが権力の本性だよ、中尉」

 水谷の声は皮肉を交えつつも、どこか冷静だった。それは、もはや怒りの感情すら使い果たした者の声音だった。

 「かつて、火は火薬となって銃に収められた。銃は兵に握られた。兵は上官に従い、国に従った。……だが、今回は違う。火そのものが艦に宿り、そして“理論”がその火を操る」

 彼の視線は、壁に立てかけられた大型図面に移った。〈土佐〉の機関配置図。中央区画に並ぶ四基の加圧水型原子炉。その周囲を包む何重もの隔壁、注水系統、制御棒回路。そして、反応抑制のための緊急重水投下槽。

 「――そしてこの火は、“火でありながら、燃えぬ”という特性を持つ。だが、燃えない火は人の想像を超える。ゆえに、恐れられる」

 そのとき、鋼靴の音が一つ、廊下から近づいてきた。引き戸がわずかに軋んで開き、桐谷中将が入室した。上着は脱がれ、軍帽は手に持たれたまま。肩にはわずかに鉄粉が残っている。

 「例の通達、見せてくれ」

 水谷は無言で総理秘書官室の封筒を差し出した。桐谷は受け取り、その場で封を切らず、文面を目だけで追った。数秒の沈黙。その後、彼はゆっくりと紙を畳み、机に置いた。

 「……“広報の時期と方法は慎重に調整されるべき”……なるほど。“語ること”そのものが問題になる時代になったか」

 「『艦の存在が外交的摩擦を招く』というのが、外務省の見解です。原子炉艦など、世界がまだ持っていない。だからこそ、日本が最初に建造することに怯えている」

 岡嶋が、思わず口を挟んだ。

 「原子力の存在そのものが“軍拡”と見なされるのなら、我々はどうすれば……?」

 桐谷が静かに言う。

 「考えてみろ、岡嶋中尉。今、我々は何と戦っている?」

 問いに答えられず、岡嶋は口を閉じる。桐谷は続けた。

 「敵は敵国の艦ではない。“昨日までの日本”だ。自らを制限し続けた過去の思想と、それに従うだけの行政と、それを容認してきた我々だ」

 水谷が頷く。

 「そして、〈土佐〉はその“思想”を突き崩す存在になる」

 「だからこそ、思想が試される。“技術の力”ではなく、“技術を受け入れる覚悟”が要る」

 ふと、会議室の窓の外を、一台の黒塗り自動車が通り過ぎた。ナンバープレートに貼られた特別章――軍令部の現地監察官車両だった。

 「……来たか」

 桐谷が立ち上がる。

 「視察ではなく、牽制だ。“現場が勝手に動いていないか”を確認するための顔出しだろう。だが、こちらも見せるものはある」

 水谷が静かに笑った。

 「“完成された未完成”ですね」

 「そう。〈土佐〉はまだ起工段階に過ぎん。だが、構想はすでに“完成している”――それが連中には最も怖いんだ」

 その時、電話が鳴った。岡嶋が受話器を取り、数語のやりとりののち、表情を変える。

 「司令。第一ヤードの艦首ブロックが仮設位置まで運ばれました。今なら、視察団の到着とちょうど重なります」

 桐谷は頷いた。

 「ならば見せよう。“火を封じた器”の第一歩を」

 水谷は最後に一言だけ付け加えた。

 「――思想が言葉になる瞬間を、彼らに見せつけてやりましょう」

 第一組立ヤード。巨大なガントリークレーンが、轟音とともに艦首ブロックを仮設位置に据え付ける作業が進められていた。

 その下、視察団の数名が無言のまま佇んでいた。軍令部第二課の渋沢大佐、外務省欧州局からの随行参事官、海軍省の技術監督官――いずれも軍装の襟元を正していたが、その視線は明らかに落ち着かなかった。彼らの前に広がっているのは、まだ艦の“先端”に過ぎない。それでも、すでにその姿は明確だった。

 艦首は鋭角的に突き出し、上部構造の基礎フレームが鋼鉄の背骨のように続いている。塗装すら施されていない剥き出しの鋼面は、ただ静かに、しかし確かに――“意思”を纏っていた。

 「……でかい……」

 誰とも知れぬ一言が漏れる。艦首だけで全長の五分の一を超え、装甲厚はすでに300ミリを超えていた。しかも、まだこれは“入口”にすぎない。後方へ延びる艦体構造は、これから数ヶ月かけて建造される。水谷は無言のまま、それを見つめていた。横では岡嶋が小声で言った。

 「やはり、異様ですね。……あれは、“艦”というより、“鋼鉄の意志”です」

 「そうだ。これを見れば、誰も『ただの艦』とは言えない」

 水谷の目は視察団の表情を追っていた。言葉を探す者。眉をひそめる者。黙したまま立ち尽くす者――その反応は、想像以上に静かで、そして深かった。そこへ、新たな足音が加わった。

 「やはり間に合ったか。……風が強くて、帽子を飛ばされるところだったよ」

 声の主は、平賀譲だった。帽子を手に持ち、作業服の上から羽織った外套の襟を立てている。姿勢は崩さぬまま、鋭い視線だけを艦首へと向けた。

 「お忙しいところ、平賀さん」

 水谷が挨拶しようとする前に、平賀は手を軽く上げてそれを制した。

 「言葉は後でいい。まずは見よう」

 数秒の沈黙。

 「……この艦首形状。抵抗を極限まで減らす設計だな。舷側の傾斜も……なるほど、被雷時の波状圧力を分散させる意図か」

 「はい。あとは、冷却区画を挟み込むためのダブルフレーム構造が必要で――」

 「分かってる。素晴らしい」

 平賀の声には、どこか珍しい響きが宿っていた。いつもの技術者としての冷静さとは異なる、どこか“思想の輪郭”を見た者の言葉だった。

 「これはただの兵器ではない。“時代を変える器”だな」

 視察団の一人が、小さく言った。

 「……本当に造るのか。これを、全部」

 平賀はその声に振り向き、淡く笑った。

 「全部造る。それだけの価値がある。――なぜなら、これは“見えぬ火”を抱える船だ。“火”そのものが敵ではない。問題は、それを抱える側の覚悟だ」

 沈黙。その中で、桐谷が姿を現した。周囲に目配せすることなく、まっすぐ艦首の前へと立ち、手袋を外す。

 「……これが、我々が選んだ“姿勢”だ。思想ではなく、実体。構想ではなく、構造。これが“日本の答え”だ」

 その言葉に、視察団の一人が何かを言いかけたが、言葉は出なかった。やがて、陽光が傾き始めた工廠の空に、サイレンが一つ鳴る。午後の作業終了を告げる鐘だった。その音の中で、誰もが艦首から目を離せなかった。

 ――そこに在るのは、ただの鋼鉄ではない。そこに在るのは、“未来”だった。

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