潮風が呉の港を撫でる。薄曇りの空はどこか重く、しかし春の光を静かに内包していた。桐谷洋輔はゆっくりと造船所の敷地を歩く。足元のコンクリートは工員たちの足音や重機の振動でかすかに震え、鉄の匂いが鼻をつく。彼の目の前に、巨大な鋼板が横たわっていた。幅六十メートル、長さ四百十メートルにも及ぶ設計図でしか知らなかった〈土佐〉の一部だ。だが、その鋼の塊は、ただの金属片以上の意味を持っていた。
そのとき、ふと遠い記憶が胸をよぎる。まだ少年だった桐谷洋輔は、初めて目にする巨大な軍艦に胸を高鳴らせていた。
薄曇りの空の下、彼が立つ岸壁の向こうには、未完成ながらも威厳に満ちたスループ艦「大和」が横たわっている。銀色の船体はまるで空を切り裂くかのような鋭さを持ち、まだ水に浮かぶ前の巨体が静かにその存在感を放っていた。
人々はざわめき、あちこちで歓声や話し声が交錯する。軍服に身を包んだ士官たちが整列し、民衆はその光景を見守っていた。幼い桐谷は、父の手を強く握りしめ、緊張と期待の入り混じった表情でその場に立っていた。
彼の視線は、艦の艤装や巨大な錨、甲板上に積まれた大砲へと移る。まだ触れたことのない金属の冷たさ、鉄の匂い。幼いながらも、胸の奥に燃え上がる何かを感じ取っていた。周囲からは拍手や歓声が湧き上がり、太鼓の音がリズムを刻む。
やがて進水の号令がかかり、重厚なブザーが鳴り響いた。大和の船体に結ばれていた錦のリボンがゆっくりと解かれ、緊張感に満ちた静寂が辺りを包む。
そして、ゆっくりと巨艦はその巨大な体を水面に滑らせた。轟音と共に水しぶきが周囲を濡らし、波が岸壁を叩く。水面に映る銀色の船体は、まるで生き物のように呼吸を始めた。
桐谷は思わず息を呑み、目を見開いた。その大きさ、重厚さに圧倒されつつも、なぜか心が震えた。
「ああ……この艦のように、海に立つ者になりたい」
その言葉は声にはならず、ただ心の奥に静かに沈んだ。だが、それは確かに彼の中に芽吹いた、“最初の火”だった。
幼い心に刻まれたこの言葉は、まだ彼の口からは漏れなかったが、深く根付いていた。父が彼の肩を優しく叩き、微笑んだ。
「将来は、あの艦を操る者になるのか?」と、冗談めかして言った。
桐谷は照れくさそうにうなずき、父の手を握り直す。その日の夕暮れ、帰路に着くときも、彼の心は艦の姿で満たされていた。家路の途中で見上げた空に、青く澄んだ無限の海が広がるように感じたのだ。
それから幾年もの時が過ぎた。桐谷はその日胸に秘めた決意を忘れず、厳しい訓練と学びの日々を積み重ねてきた。戦艦はただの武器ではない。祖国を護る象徴であり、海の支配者である。あの進水式の記憶は、彼の魂の核となった。
そして今、齢四十を超えた彼は、呉の造船所で新たな戦艦〈土佐〉の鋼板を前に立っている。あの時の少年は、既に大人となり、決して揺るがぬ意志を胸に秘めている。桐谷は息を深く吸い込み、目の前の鋼板に想いを込める。
これは、ただの鋼板ではない。切断も、溶接も、ねじ止めも――そこに宿るのは技術だけではない。幾千の手が積み重ねていく意思と誇りが、やがてこの一隻を動かすのだ。〈土佐〉とは、帝国海軍が未来に賭ける“問い”そのものだ。
「……第一切断工程は十二時三十分から開始。艦首ブロック、パネルA1・A2の鋼板一体構造の焼入れ後、仮溶接へと進む予定です」
隣の海軍技術少佐が帳簿を見つつ報告した。
「承知した」
桐谷は短く答えた。言葉は少なかったが、その瞳は確かな覚悟に満ちている。
造船所の入り口には仮設の囲いが設けられ、関係者以外は立ち入ることが許されない。作業着の工員たちは帽子を脱ぎ、桐谷に一礼する。その一つ一つが、新たな艦を生み出す儀式のように静かで重かった。
工区の中央に進むと、厚さ三〇〇ミリを超える鋼板が二枚、まるで眠る巨獣のように横たわっている。艦首の一部になるその鋼板は、まだただの板でしかない。だが、鋼の塊が艦の命となり、未来を築く証となるのだ。
遠くで火花が飛び散り、工員たちはクレーンを巧みに操作していた。
「思った以上に大きい……」
桐谷は言葉少なに鋼板を見据えた。畏怖ではなく、共鳴のような感覚だった。
彼の心に浮かぶのは、単なる数字ではない。〈土佐〉に込められた“思想”と“魂”だった。この艦を動かす者、護る者、そのすべての意志が、この鋼に宿る。それを胸に、彼は静かに呟いた。
「……お前も、ここから始まるんだな」
かつて〈大和〉に憧れた少年が、今はその意思を託す者となった。桐谷の胸に宿る言葉は、もう個人の願いではなかった。
「〈土佐〉……その名に、誇りを刻め」
そして、第一切断の号令が響く。鋼板が切られる音は、雷鳴のように響き、鋼の巨体に新たな命を吹き込む音だった。
桐谷の背後で、呉工廠長が近づいてきた。
「提督、建造の準備は着々と進んでおります。技術陣も士気が高く、これほどの艦を造る機会は滅多にありません」
彼の言葉には誇りが滲んでいた。桐谷は振り返り、短く答えた。
「皆の力を結集し、帝国海軍の誇りを形にせよ」
夕刻が近づき、造船所の灯りがほのかに浮かび上がる。長い道のりの始まりを告げる静かな夜の訪れだった。
鋼の切断音が一段落し、重機の唸りが遠ざかったころ、造船所の仮設通路を二つの人影が歩いてきた。ひとりは、白衣に近い簡素な作業着を羽織り、分厚い資料鞄を抱えた細身の男――水谷義政。もうひとりは、やや大柄で精悍な面差しの若い将校――岡嶋紀行中尉だった。
ふたりの姿を見つけた工員たちは次々と道を開け、会釈する。水谷はそれに軽く手を挙げて応えながら、鋼板の列の向こう、静かに立ち尽くす桐谷洋輔の背を見つけた。
「まったく……相変わらず先に来てるとはね、提督」
水谷の声に、桐谷がゆっくりと振り返る。その目には、かすかに懐かしさがにじんでいた。
「お前たちが来る前に、一度“胎内”を見ておこうと思ったんだ。――この艦の、最初の一歩をな」
岡嶋は姿勢を正し、一礼する。
「桐谷中将、設計班より最終確認報告書を持参いたしました。今朝、第七主甲板の桁厚調整が完了、艦橋構造の支持環境も再検証済みです」
「御苦労だった」
桐谷の言葉に、岡嶋はかすかに目を細め、しかしどこか誇らしげな面持ちで胸を張る。彼にとって、この〈土佐〉は単なる任務ではなかった。未知の火を封じた鋼の城。技術者としての魂をすべて注ぎ込むに値する“本物”だった。
水谷は桐谷の隣に立ち、切断を終えた鋼板の表面にそっと手を置いた。ざらついた感触の奥に、何かが脈打つような錯覚を覚える。
「……まだただの鋼板さ。でも、不思議と“心臓の鼓動”に似たものを感じる。図面に火を通し、炉心を積んでも、俺にはずっと“機械”にすぎなかった。でもいま、こうして触れると……この鋼に、心が芽吹く瞬間を見てる気がするんだ」
「魂が入るからだ。お前の火と、こいつの鋼。それがひとつになる。……今夜から、“艦”が始まる」
そのとき、艦首ブロックに吊り上げられた鋼板が、まるで答えるようにきしみ音を立てた。
鉄が組まれ、形が与えられ、内部に火が宿る――その最初の一日が、いま、まさに始まろうとしていた。桐谷は一歩、踏み出した。まだ何もない空間に、はっきりとした重みを残して。
「よし――行こう。こいつに、“名”を与える時間だ。名は、魂だ。魂を持たせてやろう」