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第6話 承認された鋼

 春の兆しが、呉の海にまだ確かな輪郭を描くには早すぎた。工廠の埠頭には濃い朝霧が残り、潮の香りが鉄と油の気配に溶けていた。

 だがその下、地下設計区画には、もはや季節の概念すらない。蛍光灯の白い光に照らされた地下作業室――ここが、帝国海軍が“最後の戦艦”を生み出そうとしている場所だった。

 気温は人工的に調整され、壁は防音と耐爆仕様。時計の音すら耳に届かぬほど静寂な空間の中央で、三人の男が設計図を囲んでいた。

「……終わったのか?」

 低い声が静かに響く。特設第十艦隊司令長官、桐谷洋輔中将。その表情には、数日の不眠を感じさせる陰りがあったが、それでも眼差しだけは鋭い。

「ああ、今度こそ最終稿です」

 答えたのは水谷義政博士。紙の束をそっと設計台に置き、肩を軽く落とす。

「加圧水型原子炉4基、出力30万馬力。51センチ砲四基、速力35ノット、防御最大450ミリ。この構成で構造強度に破綻はありません。……理論上は、ですが」

 桐谷は老眼鏡をかけ直し、無言で最上段の図面に目を通した。主断面、中央隔壁、艦底のバルジ構造、炉心の冷却系統、弾火薬庫の隔離距離――すべてが、無言の説得力をもって彼の眼前に並んでいた。

「……なんだ、この長さは」

 傍らの岡嶋中尉がぼやくように言った。

「艦首から艦尾まで410メートル。護衛艦5隻分だ。全幅60、吃水最大14。これ……本当に浮くんですか?」

「浮かせるさ」

 水谷は苦笑した。

「設計とは、“それでも造る”という意思の表明だ。物理と思想が共存できるか――それがこの艦の真価です」

 桐谷はゆっくりと図面をめくりながら、投影台の操作パネルに手を伸ばした。瞬間、設計室の壁面に〈土佐〉の三面図が浮かび上がる。巨大な艦影が、ほの白く霧のように部屋の空間を満たした。

「艦橋は三層、上層司令塔と独立した電探室。高角砲40基、40ミリ四連装機関砲30、25ミリ機銃50。電探は三式一号に加え25号四基。――これが、“見えぬ火”を搭載する船の姿か」

 桐谷の声に、わずかな畏敬が混じった。

「この艦は、沈むことを前提にしていません」

 水谷は言った。

「火災も、爆発も、内圧崩壊も、すべて想定済み。それでも“動き続ける”艦。――それが〈土佐〉です」

 その時だった。背後の扉が静かに開き、柔らかな足音とともにもう一人が姿を現した。

「……話は聞かせてもらったぞ」

 平賀譲。海軍技術本部の首席設計官であり、艦政本部の精神そのものと称される男だった。水谷と桐谷が振り返る。平賀は、図面の束に手をかけず、ただ壁の投影に目を向けた。そこに映し出されていた〈土佐〉の艦影を、しばし無言で見つめる。

「――ずいぶんと、突き抜けたな」

「……ええ。突き抜けました」

 水谷が苦笑した。

「6万では足りず、8万でも足りず。……ならば、10万を超えましょうと」

「“超える”ことでしか見えない世界がある」

 平賀はゆっくりとうなずく。図面は順に切り替わっていく。炉心部の断面図、隔壁構造の応力分散モデル、推進軸の振動補正設計。外観だけでは到底見えぬ、艦の“内臓”とも言うべき構造が、次々に姿を現す。

「原子炉は艦中央部に縦4基配置。第一第二は通常出力用、第三第四は緊急加速または発電補助。冷却系は多層式閉回路、内冷に純水、外冷に海水。異常昇温時は自動停止遮断。……非常時でも、最低一基で艦の全機能は保たれる」

 水谷が手短に説明すると、岡嶋が補足する。

「区画隔壁は1,500以上。平均浸水許容量は100トン。1区画破損時、隣接4区画までは個別に閉鎖可能。艦内移動には四方向ルートを設け、被弾時でも指揮伝達は途切れません」

「避弾経始は?」と平賀が尋ねる。

「艦首・舷側ともに曲面配置。特に水線下装甲は湾曲を強くとり、侵徹を滑らせる構造にしています」

 岡嶋が迷いなく答える。

「主砲塔基部は積層式支持。砲塔旋回は油圧+電動の複合。51センチ砲の反動を相殺するよう、艦底肋材を放射線状に配置して応力を全艦で受け止めるようにしています」

 桐谷が腕を組んだまま、言葉を挟んだ。

「副砲配置は8基……これは重過ぎやしないか?」

「敵艦への斉射はもちろんですが、目標は航空母艦ではなく“空母艦載機”。中距離からでも迎撃力を確保するために必要と判断しました」

 水谷は迷いなく言う。

「対空火器はそのために最も重視しました。10cm高角砲はすべて連装40基。機関砲も最大限に搭載。電探による迎撃連携も構想中です」

「迎撃に“構想中”などという言葉は要らんぞ」

 平賀が短く言うと、水谷がすぐさま姿勢を正した。

「――了解。迎撃連携は完成させます」

 平賀は表情を変えぬまま、映し出された艦橋構造を見やった。

「艦橋、思い切ったな。三層の分離式。戦時には指揮系統を完全に切り離すとある。これは……誰の案だ?」

「私です」

 岡嶋が一歩前に出る。

「“誰かが死んでも艦は動く”、それを設計に織り込みました。――誇りを持って、非常さを描きました」

 しばし沈黙が流れた。

「……よくやった」

 平賀の言葉は、驚くほど柔らかかった。投影図は次に艦載機格納庫、噴進弾発射装置へと移る。艦橋基部の格納式発射機10基は、二重防御隔壁に囲まれ、火災伝播を防ぐ構造となっていた。

「彗星15、零偵10、艦載艇は複数。艦載航空機の役割は限定的だが、戦場における眼は依然として必要です」

 水谷が付け加える。

「では聞こう」

 平賀が投影を止めさせ、図面の最上段を一瞥した。

「君たちはこれを“戦艦”と呼ぶのか?」

 その問いに、水谷が即答した。

「我々はこれを、“思想の器”と呼びます」

水谷は一拍おいて言葉を続けた。

「主砲でも原子炉でもありません。この艦が持つ真の力は、“理念”を現実に繋げる構造そのものです。形を持った思想――それが〈土佐〉です」

 水谷の言葉に、室内の空気が一瞬、張りつめた。思想を推進する構造――それは単なる工学的挑戦ではない。軍艦という存在を、単なる兵器として捉えるのではなく、国家そのものの延長線上に置く、危うくも美しい発想だった。桐谷は、しばし無言で投影された図面の全景を見つめる。

 その目に映るのは、ひとつの艦の形ではなかった。

だがその視線の奥には、ためらいもあった。

設計図が示すのは未来だ。だが、その未来を鋼で縫い留めようとする行為に、どれほどの重みが伴うか。

やがて来る時代、そして帝国の未来を賭けた「問い」――それは、彼自身の覚悟を試す問いでもあった。

「……この艦に必要なのは、たった一つの承認だ」

 桐谷が静かに言った。

「国家がこれを、未来として認めるかどうか。造船予算、資材供給、指揮系統、人事すべてがこの一隻に集約される。軍艦を超えている。すでにこれは、国家機関だ」

「そのために“思想”を問う設計にしました」

 水谷がうなずいた。

「原子炉は単なる火力ではありません。思想の象徴です。“見えぬ火”を制するという意志が、この艦の心臓です」

「だが見えぬ火ほど、恐ろしいものもない」

 平賀が小さく呟く。そのとき、作業室の通信端末が静かに鳴った。岡嶋が受話器を取り、目を細めながら頷く。

「……第一工区より連絡。艦首ブロック、製鋼完了。仮組立ちに移行とのことです」

 誰も言葉を返さなかった。静寂が一瞬、部屋を満たした。だがその沈黙こそが、すべてを物語っていた。構想から、およそ五ヶ月。

 火のないところから起こされた思想は、ついに鋼へと変わりつつある。水谷が投影を止め、図面の束を閉じる。

 そして一枚、表紙をめくり、そこに記された艦名を指先でなぞった。

〈土佐〉

 その文字には、過去の記憶が封じられていた。未成に終わり、廃艦として沈められたかつての艦。だが今、同じ名前が“始まり”を意味している。

「よろしいか、平賀さん」

 桐谷が尋ねた。平賀はほんのわずかに眉を上げ、そして頷いた。

「……認めよう。この艦は、戦艦ではない。だが、国家の意思を背負う“構造体”だ。思想を守り、時代を繋ぐ器。――それが〈土佐〉ならば、異論はない」

 岡嶋が手元の端末に、正式設計図としての刻印コードを打ち込んだ。その一打ごとに、静かだった空間にほんの微かに緊張が走る。そして最後に、“艦籍番号:試案–A101”の記録が残された。

 水谷は深く椅子にもたれ、天井を仰いだ。原子炉の第一試験炉が火を入れたとき、自分はただそれを「火」としか認識していなかった。だが今、その火はひとつの艦の「心臓」として鼓動を始めている。

「これで終わりではない」

 桐谷が立ち上がった。

「だが、“始まった”ことは間違いない。あとは建造、運用、そして――」

「戦場」

 平賀が続けた。

「戦わずして、この艦の存在が抑止力となるなら、それが理想だ。だが、いつかはこの鋼が火を吹く日も来る。そのとき、この艦が人の理性を保てる構造であるよう、祈るしかないな」

「祈るのは技術者の仕事ではありません」

 水谷が目を閉じたまま、微笑んだ。

「――私たちの仕事は、火を“制御”することです。理性が及ばぬなら、構造で覆う。それが〈土佐〉です」

 平賀は微かに笑った。

「……いい名だ、“土佐”は。沈んだものが、再び浮かぶ。これは亡霊ではない。国家の意志が鋼鉄となった証明だ」

 その言葉を最後に、誰も言葉を発さなかった。設計室の灯りはそのまま、壁の白に滲むように広がっていた。そこに浮かび続けるのは、まだ完成していない〈土佐〉の艦影。

 しかしその構造体は、もはや図面ではなく、“未来”として立ち上がり始めていた。

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