石油ストーブの燃焼音が微かに聞こえる会議室の一隅で、水谷義政は図面を広げていた。
その傍らで、桐谷洋輔中将が老眼鏡をかけたまま、何度目かになるその図をじっと見つめている。
長さ二百五十メートル。最大幅三十三。排水量六万一千トン。
主砲配置は三連装四基。中央隔壁内に埋め込まれる加圧水型原子炉。
艦橋構造と通信設備は、未定。
今はまだ、未完の仮名――〈土佐〉。
「妥協なく造ったつもりだが……」
桐谷の呟きに、水谷は無言で頷く。
設計開始からすでに三ヶ月。机上の艦はようやく“浮かぶ姿”を持ちはじめていた。
だが、そこに不意の声が割って入った。
「――君たちの艦、立派だ。よくここまで詰めた」
静かに入室してきたのは、平賀譲だった。
深緑の軍服は皺ひとつなく、ただその目だけが、どこか針のように鋭い。
「六万トン。なるほど、実現可能性を考えた妥当な線だろう。財政、造船所、建艦枠。技術的にも問題はない」
水谷は思わず息をのんだ。
予想外だった――この男がまず“褒める”とは。
だが、次の瞬間にはその“前置き”がどういう意味かを悟る。
「だが、それでは――足りない」
桐谷が眼鏡越しに平賀を見た。
「……足りん、とは?」
「容積だ。思想だ。全てだよ、提督。
この艦が担う“火”は、推進機関じゃない。これは軍事思想そのものを載せる艦だ。
その重みに、六万で足りると思うか?」
平賀は机上の図面の端を持ち上げ、まるで紙が軽すぎるとでも言いたげに振る。
「原子炉は重量物だ。だが、それ以上に――これは“空間”を食う技術だ。遮蔽、排熱、冷却、全てを艦内で分散せねばならん。
艦そのものが“動く工場”になる。つまり、“場”が必要だ。君らの案には“場の力”が足りない」
水谷は図面を見下ろす。
細部まで調整を施し、構造強度まで検討したはずだった。だがその精緻さが、逆に“突き抜けたスケール”を妨げていたのかもしれない。
「どこまで……上げれば、追いつける」
「最低でも八万。理想を言えば、十万トンだ」
桐谷の指先が、僅かに震えた。
「十万か……。それは、あの“土佐”を超える。いや、“超えてしまう”」
平賀は静かに言った。
「旧“土佐”が潰されたのは、設計が過剰だったからじゃない。
“過剰だと見なされた”から潰されたんだ。だが今は違う。
必要なだけ造って、必要な形を守る。そうでなければ、思想は残らん」
桐谷はそっと湯呑を取り、少し口をつけた。
その熱は、胸の中の迷いを少しずつ溶かしていくようだった。
「……それだけの艦を造れば、次は予算ではなく“国家の意思”が問われるぞ」
「それでもやるしかない。〈土佐〉は、“火を内に宿す船”だ。
だとすれば、その火が内側から艦を焼かぬよう、十重に囲う必要がある。
容積も、思想も――火を封じ、火を進ませるための器が、要る」
水谷は、小さく息を吐いた。
「つまり、“燃えない船”ではなく、“燃えてなお沈まぬ船”が必要だと」
平賀は答えず、図面の余白に一本、線を引いた。
現状よりもさらに太く、長く――艦の背骨が、紙の上にもう一本、重なった。
それはまだ、現実のどこにも存在しない。
だが確かに、このとき、新たな〈土佐〉の影が生まれ始めた。
──数日後、呉・艦政本部地下設計工区。
灰色のコンクリート壁に囲まれた地下区画。かつて〈伊四〇〇〉級の設計がひそかに行われた場所に、今また新たな火種が灯っていた。
水谷義政が投影装置の前に立ち、旧〈土佐〉案――六万トン級の核推進戦艦設計図を前に腕を組んでいた。
その隣では、岡嶋紀行中尉が苦い顔で鉛筆を回している。
「――では、全部やり直しというわけですか」
「六万では、もう足りない。十万に引き上げろと正式に言われた。……通達は平賀中将からだ」
「それじゃ、我々が半年かけて積み上げてきた炉配置も構造も……全部、白紙ですね」
水谷は無言で頷くと、設計盤の端に置いてあった旧設計図面を丁寧に一枚ずつ剥がし、静かに折りたたんだ。
「“火に形を合わせる”。……この思想がようやく理解されたんだ。
だが同時に、“暴力を保持した火”を造るならば、それに相応しい骨格が要る。今のスケールでは足りない。ならば――作り直すしかない」
「それはそうですが、問題は“撃つもの”です。艦を大きくすれば、そのぶん主砲も重量も跳ね上がる。新しい船体に収まる砲は、そもそも存在するんですか?」
まさにそのとき。
階段から重いブーツの音が響き、伝令将校が一礼して駆け込んできた。
「報告申し上げます。呉工廠から連絡、例の主砲――“55口径51センチ三連装砲”の試作が完了とのことです!」
「……本当に?」
「はい。旋回装置、砲身安定、俯仰制御まで含めた試験を実施。すべて規格内にて動作確認。初期試射は未実施ですが、“搭載検討段階に進める”と」
岡嶋が息を呑んだ。
「五十一……。まさか、それを実用化する気だったとは」
水谷は図面を取り出し、砲塔配置の空欄をじっと見つめた。
そのまま長い沈黙が続く。やがて、低く呟いた。
「……やれるかどうか、ではない。“やるかどうか”だ。十万トン級艦で核を扱う以上、推力も耐弾も思想も、すべて桁を揃える必要がある。
ならば、この砲が“思想に耐えるか”を、これから試さねばならない」
岡嶋は苦く笑う。
「博士、あなた……最初からこの砲を当てにしていたんじゃないですか?」
「いや。当てにはしていなかった。だが……“そんなこともあろうかと思ってな”」
二人の目の前で、設計補佐が新たな区画図を投影装置に滑り込ませた。
主砲搭載部――未記入だったそのスペースに、光の線が走る。
五十一センチ三連装砲塔。三基。中央線を軸に配された重い構造。
新しい〈土佐〉が、その“牙”をようやく持ち始めた。
地下工区の灯りが、投影された設計図を青白く照らしていた。
光の中に浮かぶのは、現段階における〈土佐〉の最終設計図――いや、“最終”であるはずの図面だった。
だがそこに至るまで、既に五度、主機配置が変わり、三度、砲塔が位置を移し、艦橋構造は二度、全面再設計されている。
「現段階ではこうなっています」
岡嶋中尉がペンの先で図面をなぞる。
「全長、三百九十五メートル。全幅、四十九メートル。基準排水量、九万八千トン――満載で十万五千近くになります」
桐谷がわずかに目を見開いた。
「……既に“大和型二隻分”の艦容だな」
「ええ。そのぶん炉心区画は艦中央に縦置き二基、完全独立遮蔽。
左右それぞれに制御室を分離、冷却系を交互に組み、万一片方が破損しても出力は半減に留まります」
水谷が補足する。
「蒸気タービンは四軸式。だが核熱出力を艦内に均等に分配するため、機関部は左右対称構造。
冷却水は艦下部の二層式海水導入系から吸い上げる。排熱は艦尾から出すが、冷却塔様式は採らず、艦尾構造と一体化して“煙突を隠す”形にしてある。いわば“無煙の戦艦”だ」
「艦橋構造は?」
「初期案では一枚板の防爆装甲を考えましたが――」
岡嶋が肩をすくめる。
「視認性が壊滅的だったのでやめました。現在は、五角形の多面体式指揮所。
装甲は従来のKC鋼に加え、新型複合装甲を一部採用。重くなりますが、原子炉が推すので問題はないかと」
「主砲は五十一センチ三連装三基。前方に二基、後部に一基。旋回角度は?」
「前方二基は左右各120度。後部一基は180度。
砲塔重量は一基あたり三千七百トン超。砲弾一発あたり2,300kg、装薬含めて2.7トンです」
「その質量を艦上に三基――良く成り立つな」
「艦底構造を完全に新設したので。艦底に“第二の背骨”を設け、砲塔ごとに独立した反動吸収隔壁を設置しました。
これで全砲門斉射しても、艦体にねじれは出ません。……たぶん」
「"たぶん”で終わらせるな」
桐谷が笑う。
「艦載機の搭載予定は?」
「ありません。完全に“打撃と制圧”に徹します。
その代わり、観測機器は徹底的に強化。測的塔の高さは大和型より五メートル高く、レーダー配置も三重化。
この艦に空を求める者はいません。ただ、天を撃ち抜く拳があればよい」
図面に映る艦影が、静かに光を反射して揺れた。
「……ここまで来て、なお未完成か」
桐谷の声に、水谷が応じる。
「完成など、求めていません。これは“完成し得ない思想”です。
――だが、それでも造る。未完成であっても、それを“立ち上げる”ことで、ようやく海軍の未来が語れる」
岡嶋が図面を折り、言った。
「試作炉は既に稼働済み。砲も来た。次は――この設計を、“現場に投げる”だけですね」
「……ああ。“現場”に、夢を押しつける。それが我々の役目だ」
そう言って、三人は図面を見つめたまま、長い沈黙に包まれた。