目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第5話 燃えてなお沈まぬ艦

 石油ストーブの燃焼音が微かに聞こえる会議室の一隅で、水谷義政は図面を広げていた。

 その傍らで、桐谷洋輔中将が老眼鏡をかけたまま、何度目かになるその図をじっと見つめている。

 長さ二百五十メートル。最大幅三十三。排水量六万一千トン。

 主砲配置は三連装四基。中央隔壁内に埋め込まれる加圧水型原子炉。

 艦橋構造と通信設備は、未定。

 今はまだ、未完の仮名――〈土佐〉。

「妥協なく造ったつもりだが……」

 桐谷の呟きに、水谷は無言で頷く。

 設計開始からすでに三ヶ月。机上の艦はようやく“浮かぶ姿”を持ちはじめていた。

 だが、そこに不意の声が割って入った。

 「――君たちの艦、立派だ。よくここまで詰めた」

 静かに入室してきたのは、平賀譲だった。

 深緑の軍服は皺ひとつなく、ただその目だけが、どこか針のように鋭い。

 「六万トン。なるほど、実現可能性を考えた妥当な線だろう。財政、造船所、建艦枠。技術的にも問題はない」

 水谷は思わず息をのんだ。

 予想外だった――この男がまず“褒める”とは。

 だが、次の瞬間にはその“前置き”がどういう意味かを悟る。

 「だが、それでは――足りない」

 桐谷が眼鏡越しに平賀を見た。

 「……足りん、とは?」

 「容積だ。思想だ。全てだよ、提督。

  この艦が担う“火”は、推進機関じゃない。これは軍事思想そのものを載せる艦だ。

  その重みに、六万で足りると思うか?」

 平賀は机上の図面の端を持ち上げ、まるで紙が軽すぎるとでも言いたげに振る。

 「原子炉は重量物だ。だが、それ以上に――これは“空間”を食う技術だ。遮蔽、排熱、冷却、全てを艦内で分散せねばならん。

  艦そのものが“動く工場”になる。つまり、“場”が必要だ。君らの案には“場の力”が足りない」

 水谷は図面を見下ろす。

 細部まで調整を施し、構造強度まで検討したはずだった。だがその精緻さが、逆に“突き抜けたスケール”を妨げていたのかもしれない。

 「どこまで……上げれば、追いつける」

 「最低でも八万。理想を言えば、十万トンだ」

 桐谷の指先が、僅かに震えた。

 「十万か……。それは、あの“土佐”を超える。いや、“超えてしまう”」

 平賀は静かに言った。

 「旧“土佐”が潰されたのは、設計が過剰だったからじゃない。

  “過剰だと見なされた”から潰されたんだ。だが今は違う。

  必要なだけ造って、必要な形を守る。そうでなければ、思想は残らん」

 桐谷はそっと湯呑を取り、少し口をつけた。

 その熱は、胸の中の迷いを少しずつ溶かしていくようだった。

 「……それだけの艦を造れば、次は予算ではなく“国家の意思”が問われるぞ」

 「それでもやるしかない。〈土佐〉は、“火を内に宿す船”だ。

  だとすれば、その火が内側から艦を焼かぬよう、十重に囲う必要がある。

  容積も、思想も――火を封じ、火を進ませるための器が、要る」

 水谷は、小さく息を吐いた。

 「つまり、“燃えない船”ではなく、“燃えてなお沈まぬ船”が必要だと」

 平賀は答えず、図面の余白に一本、線を引いた。

 現状よりもさらに太く、長く――艦の背骨が、紙の上にもう一本、重なった。

 それはまだ、現実のどこにも存在しない。

 だが確かに、このとき、新たな〈土佐〉の影が生まれ始めた。

──数日後、呉・艦政本部地下設計工区。

 灰色のコンクリート壁に囲まれた地下区画。かつて〈伊四〇〇〉級の設計がひそかに行われた場所に、今また新たな火種が灯っていた。

 水谷義政が投影装置の前に立ち、旧〈土佐〉案――六万トン級の核推進戦艦設計図を前に腕を組んでいた。

 その隣では、岡嶋紀行中尉が苦い顔で鉛筆を回している。

「――では、全部やり直しというわけですか」

「六万では、もう足りない。十万に引き上げろと正式に言われた。……通達は平賀中将からだ」

「それじゃ、我々が半年かけて積み上げてきた炉配置も構造も……全部、白紙ですね」

 水谷は無言で頷くと、設計盤の端に置いてあった旧設計図面を丁寧に一枚ずつ剥がし、静かに折りたたんだ。

「“火に形を合わせる”。……この思想がようやく理解されたんだ。

 だが同時に、“暴力を保持した火”を造るならば、それに相応しい骨格が要る。今のスケールでは足りない。ならば――作り直すしかない」

「それはそうですが、問題は“撃つもの”です。艦を大きくすれば、そのぶん主砲も重量も跳ね上がる。新しい船体に収まる砲は、そもそも存在するんですか?」

 まさにそのとき。

 階段から重いブーツの音が響き、伝令将校が一礼して駆け込んできた。

「報告申し上げます。呉工廠から連絡、例の主砲――“55口径51センチ三連装砲”の試作が完了とのことです!」

「……本当に?」

「はい。旋回装置、砲身安定、俯仰制御まで含めた試験を実施。すべて規格内にて動作確認。初期試射は未実施ですが、“搭載検討段階に進める”と」

 岡嶋が息を呑んだ。

「五十一……。まさか、それを実用化する気だったとは」

 水谷は図面を取り出し、砲塔配置の空欄をじっと見つめた。

 そのまま長い沈黙が続く。やがて、低く呟いた。

「……やれるかどうか、ではない。“やるかどうか”だ。十万トン級艦で核を扱う以上、推力も耐弾も思想も、すべて桁を揃える必要がある。

 ならば、この砲が“思想に耐えるか”を、これから試さねばならない」

 岡嶋は苦く笑う。

「博士、あなた……最初からこの砲を当てにしていたんじゃないですか?」

「いや。当てにはしていなかった。だが……“そんなこともあろうかと思ってな”」

 二人の目の前で、設計補佐が新たな区画図を投影装置に滑り込ませた。

 主砲搭載部――未記入だったそのスペースに、光の線が走る。

 五十一センチ三連装砲塔。三基。中央線を軸に配された重い構造。

 新しい〈土佐〉が、その“牙”をようやく持ち始めた。

 地下工区の灯りが、投影された設計図を青白く照らしていた。

 光の中に浮かぶのは、現段階における〈土佐〉の最終設計図――いや、“最終”であるはずの図面だった。

 だがそこに至るまで、既に五度、主機配置が変わり、三度、砲塔が位置を移し、艦橋構造は二度、全面再設計されている。

「現段階ではこうなっています」

 岡嶋中尉がペンの先で図面をなぞる。

「全長、三百九十五メートル。全幅、四十九メートル。基準排水量、九万八千トン――満載で十万五千近くになります」

 桐谷がわずかに目を見開いた。

「……既に“大和型二隻分”の艦容だな」

「ええ。そのぶん炉心区画は艦中央に縦置き二基、完全独立遮蔽。

 左右それぞれに制御室を分離、冷却系を交互に組み、万一片方が破損しても出力は半減に留まります」

 水谷が補足する。

「蒸気タービンは四軸式。だが核熱出力を艦内に均等に分配するため、機関部は左右対称構造。

 冷却水は艦下部の二層式海水導入系から吸い上げる。排熱は艦尾から出すが、冷却塔様式は採らず、艦尾構造と一体化して“煙突を隠す”形にしてある。いわば“無煙の戦艦”だ」


「艦橋構造は?」


「初期案では一枚板の防爆装甲を考えましたが――」


 岡嶋が肩をすくめる。


「視認性が壊滅的だったのでやめました。現在は、五角形の多面体式指揮所。

 装甲は従来のKC鋼に加え、新型複合装甲を一部採用。重くなりますが、原子炉が推すので問題はないかと」


「主砲は五十一センチ三連装三基。前方に二基、後部に一基。旋回角度は?」


「前方二基は左右各120度。後部一基は180度。

 砲塔重量は一基あたり三千七百トン超。砲弾一発あたり2,300kg、装薬含めて2.7トンです」

「その質量を艦上に三基――良く成り立つな」

「艦底構造を完全に新設したので。艦底に“第二の背骨”を設け、砲塔ごとに独立した反動吸収隔壁を設置しました。

 これで全砲門斉射しても、艦体にねじれは出ません。……たぶん」

「"たぶん”で終わらせるな」

 桐谷が笑う。

「艦載機の搭載予定は?」

「ありません。完全に“打撃と制圧”に徹します。

 その代わり、観測機器は徹底的に強化。測的塔の高さは大和型より五メートル高く、レーダー配置も三重化。

 この艦に空を求める者はいません。ただ、天を撃ち抜く拳があればよい」

 図面に映る艦影が、静かに光を反射して揺れた。

「……ここまで来て、なお未完成か」

 桐谷の声に、水谷が応じる。

「完成など、求めていません。これは“完成し得ない思想”です。

 ――だが、それでも造る。未完成であっても、それを“立ち上げる”ことで、ようやく海軍の未来が語れる」

 岡嶋が図面を折り、言った。

「試作炉は既に稼働済み。砲も来た。次は――この設計を、“現場に投げる”だけですね」

「……ああ。“現場”に、夢を押しつける。それが我々の役目だ」

 そう言って、三人は図面を見つめたまま、長い沈黙に包まれた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?