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第4話 銀将の進路

昭和十年三月十八日/呉海軍工廠・非公開設計区画


 厚い鋼鉄の扉が閉まる音が、地下の静けさに重く響いた。ここは、呉海軍工廠のさらに地下にある“設計隔離区画”――艦政本部の中でもごく一部の技術者しか出入りを許されぬ場所である。

 白い蛍光灯の光が、図面に没頭する男の顔を淡く照らしていた。水谷義政。帝国海軍技術本部の研究者にして、非公然の“原子力班”主宰。

 その手は、すでに迷いなく動いていた。鉛筆の先が、図面の上で複雑なカーブを描く。艦首から艦尾まで、滑らかに流れる甲板構造。中央には中空区画。

 そこが、加圧水型原子炉の収まる場所――艦の“心臓”だ。

「……これは、ほんとうに“艦”なのか?」

 設計卓の反対側から漏れた声に、水谷は鉛筆を止めた。振り返ると、そこにはやや小柄な若者が立っていた。黒縁眼鏡をかけた、神経質そうな面持ちの男――。

 岡嶋紀行中尉。艦政本部第二技術課所属。この計画の中で、数少ない“知っていい者”の一人。

「どこから見ても軍艦だろう、岡嶋中尉。砲塔が四つ、舷側装甲は五〇センチ。動力は蒸気タービン……ただし、火室が無い。火は“見えぬ火”で沸かす」

「それが問題なんです。そんな艦、今まで存在しなかった。誰も検証してない構造です。原子炉の遮蔽と機関配置が艦内動線と干渉して……ここ、居住区が潰れかけてます」

 岡嶋が指差したのは、艦中央の主隔壁を挟んだ左舷側。そこには士官居住区が入るはずだったが、水谷の設計案ではその一部が冷却管路と炉室の隔壁に押し出されている。

「士官の寝る場所がない」

「戦艦は、快適な旅客船じゃない。あれは“艦”だ。必要最低限あれば良い」

「最低限もなければ乗員は死にます。熱と放射線で」

 水谷は目を細め、静かに息を吐いた。そうだ。これが“原子炉艦”の最初の壁だった。

 放射線遮蔽。

 この“見えぬ火”は、エネルギーと同時に“毒”も産む。炉をどれほど防御しても、管の一本、配線の断面から漏れる線量は、長時間の被曝で人体に深刻な影響を与える。

「……鉛と水と特殊鋼。三層遮蔽で炉室を囲む。さらに人の通る通路は片舷に限定。その代わり、炉の出力は制限しない。“火”に妥協はしない。それが艦の本質だ」

「制限しなければ、艦全体が熱に飲まれる。冷却系は……四系統?」

「六に増やす」

 岡嶋が顔をしかめた。

「冷却系だけで艦内配管が一〇〇〇メートルを超える。蒸気管の整備性が無くなる。機関士が泣きますよ。というか、たぶん辞めます」

「辞める奴は使えない。そんな連中では、この艦に火を入れる資格はない」

 吐き捨てるような水谷の言葉に、岡嶋は声を失った。それは怒りではなかった。むしろ淡々とした熱情だった。科学者ではなく、すでに戦場にいる兵士の目をしていた。

「この艦は、世界初の“火の戦艦”になる。だが、それ以上に――帝国が未来を選び取るための“形”そのものだ。戦場を走り、生き延び、帰ってくる。砲を撃ち、被弾し、なお動き続ける。だからこそ俺たちは、最初の一歩で妥協してはならん」

 岡嶋は口を噤んだまま、図面の上に視線を戻す。そこに描かれた線は、たしかに艦だった。だが、それは今まで見たどの戦艦とも違った。

 煙突がない。艦橋は塔のように屹立し、後部甲板には巨大な吸排気孔が三つ並ぶ。艦尾には飛行機用のカタパルトが斜めに配置され、副砲の一部は艦体下部に内蔵されていた。

 そのすべてが、ただの兵器設計ではなく、どこか“意思を持って動き出しそうな感覚を与えていた。

「……まるで、生きているみたいだ」

 岡嶋がぽつりと呟いた。

「生きるだろうさ。俺たちが作るのは、機械じゃない。“未来そのもの”だ」

 水谷は設計卓の横に並ぶ大型模型の骨格に目をやった。

 仮設の木枠と真鍮線で作られた全長2メートルのスケールモデル。まだ未完成だが、その姿には既に“威圧”があった。彼は小さく呟いた。

「これが、〈土佐〉だ。かつて未完のまま沈められた名を、今度こそ、誰の目にも“完成艦”として見せつけてやる」

 部屋の奥で、図面をスキャンする自動投影機が淡く光を放つ。

 プロジェクターに映し出されたのは、〈土佐〉――それは、未だ胎動の段階にある“帝国最後の戦艦”であり、“世界初の未来艦”だった。部屋の奥で、図面をスキャンする自動投影機が淡く光を放つ。

 ガラス板の下を光の線がゆっくりと滑り、図面の細部をなぞっていく。わずかに青く発光するラインが、まるでその艦に命を吹き込んでいくかのようだった。

 そして数秒後――

 壁一面に広がった白布スクリーンの上に、それは姿を現した。

〈土佐〉――。

 光の中に浮かび上がったのは、まだ理論設計段階の仮想艦である。艦首は鋭く突き出し、艦体中央には特徴的な双炉室構造。艦橋は従来の艦とは異なり、塔のように直立しており、その直下には無音の“火”を抱えた炉心が隠されている。

 第一投影層には、艦の外観構造。第二投影には内部区画配置。第三投影には冷却系統、そして最後に、炉の遮蔽構造断面図が順に表示されていく。

 岡嶋は、何も言えなかった。

 スクリーンを前にしてなお、水谷の手元では鉛筆が音もなく動いていた。映し出された完成形の“次”をすでに見ているように、彼の目にはこの艦の輪郭がすでに確定しているかのようだった。

「……この艦が、もし現実になったなら」

 岡嶋がぼそりと呟いた。

「戦争の“常識”が変わるだろうな。燃料の制約から解放された、全速巡航可能な戦艦。補給線の意味が変わる。速力、射程、稼働時間、すべてが」

「それだけじゃない」

 水谷は図面から目を離さずに言った。

「“防御”の在り方が変わる。この艦は、敵弾を“避ける”ために作られていない。当たることを前提に、なお沈まない構造。今までの艦は、避けなければ死んだ。だが〈土佐〉は、受けて、生き延びる」

 岡嶋が目を見開いた。

 「……戦術概念すら変わる、ってことか」

 水谷は頷いた。

「いずれ航空機の脅威が現れる。戦艦の役割は問い直されるだろう。だが、“何があっても前に出る”という象徴性だけは、消えない。〈土佐〉はその象徴として――最後にして、最初の艦になる」

 プロジェクターが静かに切り替わり、今度は艦底断面の3Dモデルが浮かび上がる。それは、二重三重に補強された隔壁構造と、蜂の巣状の浮力区画。艦がどの方向から被弾しても、傾斜や浸水を抑えるよう計算された“生存構造”だ。

「この構造……部分的には潜水艦に近いですね。徹底的に“生き延びる”ことが目的化されてる」

「そうだ。“撃たれる”ことを想定して作られた艦だ。それが最終的に、敵の砲火を引き受け、味方の損失を減らすことになる」

 岡嶋の目に、理解ではなく畏怖のようなものが浮かんだ。この艦は、ただの実験的な兵器ではない――思想そのものだった。

「……これを見せたら、海軍内の保守派はどう反応すると思います?」

「狂気だと笑うだろうな。新造艦? 原子炉? 既存の教範にない艦など不要だと」

「じゃあ、どうやってこの艦を守るんですか。政治的に」

「桐谷提督が守る」

 水谷の声には、一切の迷いがなかった。

「彼はもう、腹を括っている。たとえ上層部の理解が追いつかなくとも、彼が“見送る価値のある艦”と判断した以上、この艦は建造される」

 岡嶋はふと、スクリーンに映る艦名の文字を見つめた。

《艦名:特設第十艦隊・新造旗艦 “土佐”》

 “土佐”か……」

「かつて建造途中で沈んだ艦。だが、今度の“土佐”は完成する。妥協なく、構想通りに。誰にも文句を言わせない、“形”として」

 水谷はプロジェクターの電源を切った。明かりが戻ると、設計室の空気が、どこか一段、現実味を増して感じられた。

「ここからが本当の仕事だ。

  艦体設計、機関系、熱交換、装甲材、居住区画、電装系統、弾薬配置、配線・隔壁――。一つでも欠ければ、この艦は“形”にならない。夢で終わる」

 岡嶋は、小さく頷いた。彼もまた、“夢”の重さを理解し始めていた。図面の脇には、水谷がさきほど書き込んだ一文が残されていた。

《試案I――“動く城壁”構想》

〈原子力推進・多重装甲・主力艦:試作記号 A-151“土佐”〉

 帝国海軍 特設第十艦隊 配備予定

 彼らの夜は、まだ終わらなかった。次の頁には、現実が、戦いが、政治が、試験炉が――すべてが待っていた。

室内に沈む静寂は、時計の針の音さえ吸い込んでしまうような重さを孕んでいた。設計卓の上には、散乱した設計図、計算表、構造補強案、原子炉の断面図、機関配置案、そして――仮想艦〈土佐〉の全体像。

 その一枚一枚に、筆圧の跡が濃淡を刻んでいる。ここには、水谷義政の数年分の思索と、数百人の無名の手が宿っていた。だが、今この部屋には彼しかいない。

 水谷は深く背もたれに身を預け、額に手をやる。指の先から伝わるのは、疲労ではなかった。熱だ。――設計という名の戦場に全身で突っ込んだ者にだけ訪れる、脳の奥が焼けるような感覚。

 知性が限界まで引き絞られ、その結果、あるひとつの“形”が浮かび上がる瞬間。それが今、そこにある。〈土佐〉という艦の姿として。彼は静かに席を立ち、部屋の奥へと歩み寄った。

 小さな木箱を手に取る。将棋の駒が丁寧に納められている。水谷は、その中から“銀将”の駒を取り出した。

 無意識のうちに、駒の裏に親指を当てる。――あの夜。神田の座敷で桐谷と差した、あの銀将だ。

「……戻れぬ一手、か」

 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。銀将。横に逃げられず、後退できず。前へ、斜めへ、踏み込むしかない駒。だが、それゆえに一歩一歩が、重い。

 その駒を、彼はゆっくりと、机上の図面――艦橋構造部の位置に重ねて置いた。駒が紙の上に落ちる音はなかった。けれど、水谷の中には何かが“着地”する音が確かに響いた。

「前へ進め。お前はもう、戻れない場所まで来た」

 彼は模型の前に立つ。木製の骨組みはまだ仮の姿だが、艦の“脊梁”ははっきりと感じ取れる。主砲塔の配置は、かつての長門型を意識したバランス。だが、艦体の中軸には他に類を見ない“動力の核”が埋め込まれる。

 それは、燃えない火。目に見えず、風に揺れず、煙も立てない“静かな怒り”。

「お前に火を入れる者は、俺じゃない。……戦う者たちだ」

 水谷は模型に向かって語りかける。だがそれは、もはや物体への言葉ではなかった。彼の前にあるのは、単なる艦の模型ではない。これは“意志の器”であり、“未来”だった。

「……この艦が出るとき、きっと誰かが言うだろう。“なぜそこまでやる?”と、“戦艦など時代遅れだ”と、“原子炉など狂気だ”と。だがな――」

 彼は、模型の艦橋に指先を添える。

「“戦艦”がただの“兵器”だった時代はもう終わる。これからは、“思想”そのものが進むんだ。この艦は、“敵に勝つための船”じゃない。“自分たちの未来を証明する器”だ」

 部屋の隅にある古びた時計が、カチ、カチ、と刻みを重ねる。まるでその音が、建造開始のカウントダウンに聞こえてくるようだった。彼は、ふと胸ポケットから折りたたまれた一枚の便箋を取り出す。

 桐谷提督からの直筆メモだ。わずか五行。

《艦は妥協なしで行け。見送る者が恥じぬように作れ。予算など理由になるな。設計者が己の線に責任を持て。――桐谷》

 その言葉に、彼はゆっくりと頷いた。指先にわずかな震えを感じたが、それは恐れではなかった。とうに、“引き返せる道”は見えなくなっていた。

 水谷は最後に、設計室の照明をすべて落とした。天井の裸電球が、名残惜しそうに消える。残るは、模型の艦橋に届く、窓からの月明かりだけ。

 その光の下で、〈土佐〉は無言のまま立っていた。まだ炉も、舵も、砲塔もない。だが、そこに宿っている“もの”だけは確かだった。それは、桐谷の意志であり、

 水谷の思想であり、この時代における、“最後の艦”の覚悟だった。

 まだ、誰も知らない。

 この艦が後に、世界を震撼させ、十六隻の原子力艦隊の先駆けとなることを。

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