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第3話 戻れぬ道

昭和十年三月十九日/呉海軍工廠・設計室第三分館

 分厚い防火扉が閉じられると、外の騒音はぴたりと止んだ。蒸気金属の匂い、鉛の壁、換気口から鳴る低音――呉の地下設計室には、戦の前触れにも似た緊張が漂っていた。その中央に、白髪の男が座っていた。

 端正な背筋、無駄のない手の動き。資料の上を滑る鉛筆の先には、いまだ試作段階の艦影が浮かんでいた。平賀譲。帝国海軍が誇る艦艇設計の第一人者にして、艦政本部の元設計主務。

「――私は“再利用”には懐疑的です、水谷君」

 彼の言葉は柔らかく、しかし明瞭だった。水谷義政は、図面の綴じられた封筒をそっと閉じた。

「艦体の構造は確認済みです。〈土佐〉の艦材は呉にて保管され、検査の結果も良好。推進軸は交換が必要ですが、炉心配置を調整すれば――」

「その時点で、“改装”とは呼べません」

 平賀は言った。資料に視線を戻さず、まっすぐ水谷を見る。

「火を積むというのは、燃料庫を換えることではない。“艦の思想”を変えることです。あなたが今提案しているのは、亡霊に火をくべることではない。“新しい神”を既存の器に押し込めようとしている」

 水谷は一瞬、言葉に詰まった。だが、相手はただの造船官ではない。三笠の再設計から戦艦長門、大和型に至るまで、帝国海軍の根幹を築いてきた“本物”だった。

「……ならば、あなたはお認めになるのですね。原子炉を艦に載せるという行為を」

「載せること自体は、もう避けられぬと見ています。ただし、“載せ方”は間違えるな。将来、すべての艦が原子力に置き換わるとして――その第一号が、“妥協と継ぎ接ぎ”の産物であってはならない」

 静かな言葉に、図面の重みが増す。

「私は艦政本部と話をつけた。技術局も一部予算に同意した。ただし条件がある――《原子炉搭載艦は新設せよ》。これが正式な通達だ」

 水谷の背に、重いものが落ちた。

「新設……ですか」

「君の炉は、君にしか作れぬ。だが艦体は、我々に任せてもらう。君は“火”を、私は“器”を。そうすれば、これは未来の船になる。そうでなければ、ただの危険物だ」

 その瞬間、水谷の頭に浮かんだのは、桐谷の言葉だった。“亡霊のままで終わらせはしない。未来へ進める。必ずな”

「……わかりました。図面は、一から設計し直します。ただし、要求は多くなりますよ。炉心周囲の遮蔽だけで100トン超。冷却材の流路を二重に設け、蒸気管を隔離区画に通す必要がある」

 平賀はかすかに笑った。

「難しいほど、面白くなる。それが艦だよ、水谷君」

 その笑みは、まるで戦に挑む将のものだった。

 翌朝――

 薄曇りの横須賀港に、まだ春の冷気が残るなか、水谷義政は静かに歩を進めていた。視察名目で滞在中の桐谷中将が仮寓する将校館。その応接室に、彼は何も言わず入り込んだ。

「戻ったか」

 書類を捌く音も止めず、桐谷洋輔が言う。薄茶色の軍服に、眼鏡の奥の目が動いた。水谷は礼を取り、封筒を机の上に差し出した。

「……平賀技師から、正式な通達です」

 桐谷は手を止めた。封筒に目を落とす。その赤い封蝋を見ただけで、内容の重さを理解したのだろう。それでも彼は封を切らず、そっと指先で封筒を押し戻した。

「で、結論は?」

「原子炉艦は“新設”とするように。土佐型の再生案は却下です。設計も構造も、一から見直し……改装による実艦建造は正式に認められません」

 桐谷は、すっと目を閉じた。その表情には怒りも落胆もない。ただ、深く、静かに考えているだけだった。そして――口を開いた。

「……ならば」

 低く、静かな声だった。

「ならばこちらも、“最初からやる”としよう。遠慮なくな」

 水谷が目を上げた。桐谷の目は、まっすぐ前を見据えていた。書類の山も、封筒も、もはや眼中になかった。

「艦名は〈土佐〉。未完の名を、今度こそ完成させる。だが中身は、過去の土佐などではない。“大和を超える艦”を造る。抗堪性、装甲、推進――すべて、妥協を捨てた艦だ」

 水谷は反射的に息を呑んだ。“妥協を捨てた”――その意味は、造艦の世界ではときに“狂気”と同義である。

「予算は?」

「問うな」

「資材は?」

「選べ」

「造船所の空き――」

「確保させる。必要なら俺が陛下にでも直言する」

 あまりにも即答だった。だがそれが冗談でないことを、水谷は知っていた。

「……ならば、条件を伺います。どのような艦をお望みですか?」

 桐谷は席を立ち、窓の外――横須賀の海を見やった。空には雲が漂い、港には老いた艦が並ぶ。そのどれもが、過去の遺物だった。

「“沈まぬ艦”を。どれだけ被弾しても、戦場に残り続ける艦を。敵が沈んだと思っても、煙の向こうからなお姿を現す――そんな艦を」

 その背中は、何かを背負っているようだった。国家か、信念か、あるいは戦そのものか――

「火を積む艦は、怖れられねばならん。砲の口径も装甲も、すべてが“異常”でなければ意味がない。〈土佐〉という名で、帝国の“本気”を示せ。それを“見送る”者に、疑念を抱かせぬような艦にしろ」

 水谷は静かに、しかし確かに頷いた。

「では――“科学の妥協”を一切やめます。炉の遮蔽には鉛を惜しまず、冷却系は三重化、全自律。タービン出力は一万馬力単位で増強。あらゆる可能性に備えた、最終艦と呼ばれるものを造りましょう」

「それでいい。……いいや、それしかない」

 桐谷は振り返り、水谷の目を見た。

「頼むぞ、水谷。君の“見えぬ火”を、帝国の形にしてくれ」

「了解しました、提督。

 この火は、ただの動力ではない。“意思”です。我々は、もう引き返せません」

 桐谷はゆっくりと頷いた。その顔に、初めてわずかに笑みが浮かんだ。

「それでいい。“戻れぬ道”を行くなら、堂々と行こう。この艦は、未来を焼き尽くす火ではない。“照らす火”となるべきだ」

 その言葉が落ちた瞬間、応接室の空気は変わった。図面も、資材も、政治も、すべてが“後から”ついてくる。帝国にとって初めての、いや――世界で初めての“真の原子力戦艦”が、ここに胎動を始めていた。

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