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第2話 亡霊に火を

 封筒の中から取り出された図面は、二枚。どちらも鉛筆描きの手稿で、角には「試案」の字と水谷義政の署名があった。

「……加圧水型か」

 桐谷洋輔は、将棋盤の脇に図面を広げながらつぶやいた。艦隊司令官として見慣れた機関部図とは、似て非なる構造。鋼板に囲まれた炉心、蒸気発生器、冷却管、それに複雑な制御系統。まるで異国語のようだ。

「蒸気でタービンを回す原理自体は、ボイラーと変わらん。ただし、この火は――目に見えん」

 水谷の声は低かった。熱ではなく、確信の温度を孕んでいた。

「この炉は出力180メガワット。戦艦一隻の巡航機関を継続して稼働させられます。燃料は十年はもつ。……航続距離、理論上は無限です」

「小型化は?」

「……現時点では、無理です。安全弁、冷却器、遮蔽を保ったまま縮める技術は、あと十年はかかる」

 桐谷は図面をめくった。そこには艦体断面の下絵があり、船体中央に炉心区画が納められていた。主機室、防火隔壁、補機室――その寸法は、大和型に匹敵するどころか、さらに大型艦を要求するものだった。

「つまり、今の海軍にある艦では積めんというわけだ」

「はい。造るとしたら、新造艦――それも五万トン級」

「無理だな。資材も、造船枠も足りん」

 桐谷は湯呑に口をつけた。ぬるくなった番茶が、喉の奥で静かに広がる。

「……だが、“掘り出す”なら、話は別だ」

 水谷が顔を上げる。

「掘り出す?」

「未成艦の“土佐”だ。あれを再構築する」

「――!」

 反射的に老眼鏡を押し上げる水谷。茶碗の湯気が曇るほどに。

「建造中止後、横須賀沖で処分されたと聞いていますが……」

「確かに沈めた。だが、艤装直前まで進んでいた艦だ。主要構造物は多くが保管され、機関部と装甲は一部再利用されずに残っている。記録を見れば分かる」

「再建するつもりですか? あれを?」

「そうだ。火を積むための器としてな」

 桐谷は将棋盤に視線を落とした。前に進めた銀将、その後ろに並ぶ金将。そこに、もう一枚――飛車を加えて打ち込む。

「四隻。まずは、それだけでいい」

「四隻……?」

「旧式艦で編成された“特設第十艦隊”は、すでに独立行動を前提としている。主力艦は薩摩型だが、あれも今では25ノットを出せるようになった。だが限界だ。次の柱が必要になる」

 水谷が静かにうなずいた。

「……ならば、その“火”を宿す艦は、旧世代の亡霊ではない。“未来の亡霊”だ」

 桐谷は将棋盤の上にある“歩”をひとつ進めた。そして言う。

「この構想は、艦政本部の枠では通らん。だから我々が進める。“特設”の名を借りて――」

 水谷は封筒を再び畳み、盤の端に置いた。

「“見えぬ火”を軍艦に宿す日が来るとは、思ってもいなかった。だが……」

 彼は最後に残った桂馬を、変則的な一手で跳ねさせた。まるで海上に並ぶ艦隊のような形。桂馬、銀、香、歩。四隻が前に出て、背後に整然と並ぶ十二の駒。

「四隻が突き、十二が支える。お好きな形でしょう、提督?」

 桐谷はその陣形に目を細めた。将棋とは、戦である。だが盤上で血は流れない。ただ、読みがぶつかり、駒が動くだけ。だが海の上では違う。そこにあるのは鉄と炎と、人間の生死だ。

「昔からな。“火”を操るには、まず“形”が要る。……艦列は、もう整えつつある」

 桐谷の声は、盤面ではなく、もっと遠くの現場を見据えていた。その目に浮かんでいたのは、洋上を進む灰色の艦隊。白波を蹴って進む“亡霊の列”だった。

「〈薩摩〉と〈安芸〉……よくあそこまで保たせたものだ。竣工は明治四十二年、既に艦齢三十年を越えている。だが、艦体は堅牢で、火力もまだ通用する。なにより――人が乗っている」

「人、ですか」

 水谷が目を向ける。火鉢の赤が、彼の老眼鏡に映り込んだ。

「薩摩の乗組員の平均年齢は高い。予備役上がりの下士官や、古参の兵曹長たち。口数は少ないが、彼らは戦いを知っている。海の怖さと、鉄の重みを。それを“現場の魂”というなら……あの艦は、まさしく生きている」

 水谷は、初めてその艦の名に宿る重みを感じたようだった。実験炉の中で扱う“数値と燃料”とは違う、肌に感じる何かがそこにある気がした。

「それでも……新しい柱が必要なのですね」

「そうだ。薩摩型では限界がある。いずれ退く。だからその前に、次の柱を置かねばならん。支えとなる艦を――“火を宿した艦”を、な」

 水谷は封筒に目を落とす。厚紙の中には、まだ誰も知らぬ“未来”が眠っている。

「建造ですか? 四隻とも新造で?」

「いや。建造にこだわるな。時間も資材も足りん。“眠っている艦”を掘り出す。中には使える艦がある。未成艦、除籍待ちの艦、訓練艦、特務艦――あらゆる名を使い、正体を偽る」

 桐谷は将棋盤に手を伸ばし、並んだ四隻ぶんの駒に軽く触れた。その指先は、一瞬だけ震えていた。指の節のかすかな震え――それは年齢のせいではない。おそらくは、その先にある責任の重さだ。

「艦隊は、十六隻で構成する。中心となるのは、原子炉を積む四隻。その周囲に支援艦十二隻――補給艦、護衛艦、連絡艇、あるいは通信専門の艦。全体を“特設第十艦隊”の名のもとに再編する」

「四隻の中核が火を背負い、十二隻がその存在を隠す……」

 水谷は言葉を呟きながら、駒を再び整列させた。歩、銀、桂、香。前へ出すべき駒、護るべき駒。だが、それぞれに意味がある。

「提督、いや――艦隊司令」

 水谷は視線を上げた。

「この艦列、完全に整えるには数年かかります。原子炉の実用化も、一筋縄ではいかない。……それでも?」

「それでも、だ」

 桐谷は静かに言った。その声には、ためらいも、不安もなかった。

「海は変わる。戦いも、兵器も、思想も変わっていく。だが“象徴”は残る。残すべきだ。我々がそれを見せねば、誰が未来を信じる?」

 水谷は眼鏡を外し、磨いた。その奥の瞳に、わずかに光が戻っていた。

「……ならば、“亡霊の艦”に魂を入れ直す時ですね。火は用意します。見えぬ火を、確かな力に変えてみせましょう」

 桐谷は頷き、ゆっくりと立ち上がった。コートを肩にかけ、軍帽を手にする。

「……十六隻が整ったとき、それは帝国海軍の“最後”かもしれん。

 あるいは、“最初”になるかもしれん」将棋盤の上には、まだ動かしていない駒がいくつか残っていた。桂馬と香車――直進しかできず、曲がることも戻ることもできない駒たち。桐谷は香車を手に取り、盤の隅へと置いた。その動きは、どこか儀式めいていた。

「進むしかないな。戻ることはできん」

 火鉢の灰が、かすかに崩れる音がした。その向こうで、水谷がふっと微笑む。

「“亡霊の艦隊”――いい名ですね。名もなき艦、使われざる火、報われぬ努力。……それらが一つになって海を渡る。誰よりもしぶとく、誰よりも遠くへ」

 桐谷はその言葉に頷いた。

「……動かすぞ、第十艦隊を。亡霊のままで終わらせはしない。“未来”へ進める。必ずな」

 外には、春先の夜風が静かに吹いていた。神田の裏路地は、雨の香りを残したまま、音もなく眠っている。居酒屋「つるや」ののれんが、ひとつ、静かに揺れた。

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