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第4話 緋牡丹とシザー

「金? そんなモノ、持っていない」

「えっ? えっ?」

 気になって訊いてみた所、あっさりと断言する姿に眩暈がした。


「ど、どうしよう、わ、私、お、お金、お金」

 衣服のポケットを探してみるが、何も出てこず、ジャンプして

みても、当然だが『チャリン』とも言わない。


「ど、ど、どうしようー、お金、無いよお!」

「落ち着け。仮にあったとしも、オマエの時代とは通貨が違う」

 ニルが妙に落ち着いているのは何故なのだろうと

心配した矢先、カウンターにカードを投げていた。


「カードで」

「毎度ありぃー」

 カード? と、唖然としている傍で相手は「金は

持ち歩くのに不便だ。それに、重い」と言っているが、

そもそも、その資金はドコからなのか?

「施設から脱出する時にレザボアの個人資産から、

ちょっと、な」

「えっ? ソレ、ドロボウ、だよね?」


 うっかりツッコミを入れてしまい、慌てて口を押さえた。

 見る見る不機嫌な表情になる少年に言い訳をするだけの

言葉が思いつかない。

 ニルは「泥棒じゃない。今までのオレの

労働に対する正当な報酬だ。どんな低スペックな

ニンゲンであろうと働けば給金を支払われるのに、このオレが

無賃労働を強いられているのは以前から理不尽だと

判断していた」と、こぼしている。


「それに、レザボア如きのモノはオレの固有資産で充分だ」

「そ、そう、なの……?」

 まさに『アイツのモノはオレのもの』状態である。

 だが、言われてみれば、これだけ有能でありながら、

無給というのも理不尽な気がしないでもない。

 詭弁のような気もするが。


「それより、オマエも迅速に装甲を変えろ」

「う、うん。ごめんなさ、あ、で、でも私、自分のお金……」

「いいから、とりあえず行け」

「う、うぅううん!」

 マレーナから手渡された紙袋を持って試着室に向かう。

 店内のランプの色に染まったカーテンを開けると、中には先客がいた。


「ん?」

「きゃっ!」

 後ずさって見上げると、煙草を咥えた背の高い男(?)が

いた。身長180cmはあるだろうか。


 無数の傷と漆黒のタトゥーが刻み付けられた背中は筋肉の

張りが見え、白に近い金髪……象牙色の髪が揺れている。

 HEDDは角型の小さなもので、外見は30代ぐらいだろうか。

 鷲のような鼻と顎に無精髭を生やし、無造作に伸びた前髪から

灰色の垂れ目を覗かせていた。


「ナンだ? イキナリ~」

「ご、ご、ごめんなさい。 あの、その、ま、間違え、ました」

「いや、構わんが、こんなオッサンの生着替えなんざ見ても

面白くないってなモンだろう?」

 つい持っていた紙袋で顔を隠す。

「ん? どした? お嬢ちゃん、ハラでも痛いのか?」

 隠しているのは顔なのに何故、腹痛を疑うのか。


 人見知りをするので初対面の人間は怖かった。

「ご、ごめ、ごめんなさい、私、こ、怖くて……」

「あ~、そりゃそうだろ~な。こんなおっさんに

絡まれりゃ怖かろうってなモンだ」


 相手を恐る恐る見ると、男は別の方向を見ている。

 表情を全く読み取れない。投げやり、というのが一番

適切なのかも知れない。

 気まずい沈黙の中、男は咥えていた煙草を上下させながら

口を開いた。


「悪いが、試着室なら直ぐに空くかもしれん事も無いから、

そこらで待っててくれないか?」

 男が顎で示したのはブーツ試着用の椅子だった。

「は、はい、ごめんなさい。あ、でも、あの、その……

私、他の試着室探します! ごめんなさい!」

「あぁ、アンタさん、もしかしなくても何かヤバイ事してないか?」

「え?」

 どきり として顔を上げるが、男は飄々とした空気を崩さない。


「あ~、その、何だ、やたらと周囲を気にしてる。

目が泳いでる。いつでも逃げれるように及び腰、やましい事が

あるとでも言わんばかりに目を合わせない。トラブルを

避けるように謝り倒す……」

「!」


「と、指摘されると警戒する。心配しなさんな、

些事にこだわる程、おっさんは若かぁ無い。それよりなあ、

おっさんはマフィアやギャングよりも、迫り来る締め切りのが

おっかないってなモンだ」

「締め切り?」

「あ~、見てわからんかね?」

「わ、わかりません。えっと、締め切りって

新聞記者のヒト、かな?」

「おぉ~!」

 当たったのかと思ったが、男は「惜しいな、おっさんは

小説家なんだな、コレが」と言う。全然惜しくない。


「少年少女に愛とか希望とか人生のツラさや

不況の波とか、そこらへんについて教える夢のある職業だな」

「それ、夢も希望も無いと思います……」

 そこで、突然頭を掴まれた! と、思ったら犬に

触るように頭部を撫でられた。眩暈がする程、激しい。


「はっはは、そりゃあそうだろうな。ナンだ、アンタさん、

引っ込み思案な子かと思ったら、なかなかイイツッコミ

してるってなモンだ! ソレは大事にしとけよ~?

ああ、それとな人生の先達からのアドバイスだ。

何に怯えてるかは知らんし、首を突っ込む気は毛頭無いが~」

「はい?」


「信念があるなら胸を張れ。周囲に振り回されると

己を忘れかねん。己を忘れると、生きてるだけの屍だ」

「生きてるだけの、しかばね……?」

「ああ。後は笑顔だな。笑ってると、それだけで

相手の警戒心を解く。お嬢さんみたいな美人は

憂い顔もいいが、笑うと更にいい。ほれ、笑ってみろ」

「え……?」

「ほれ、笑顔笑顔!」

「う……エ、ヘヘヘェ……」

 引き攣ってしまった。


 ダークグレイの瞳と目が合う。何を考えているのか

わからない人間だと思ったが、心配してくれたのだろうか。

 本心は分からないが悪い人間では無いような気がした。

 そう言えば、どう見ても男にしか見えないが、バイオロイド

なのか? それともレムナントなのだろうか?

 HEDDがある為、アンドロイドでは無いだろうが。


 この人物は男寄りなのか女寄りなのかを見定めようと

凝視してしまっていた。

 そこで男の頭部にスリッパが激突する。


「ちょっと! シザー! 店内は禁煙よ! アンタまた

煙草吸ったでしょ? ちょっとアンドロイドのギミックが

混ざってるからって、煙草吸ったら内臓やられんのよ?」

「あ~すまんすまん。ウッカリ忘れてたようだ」

 マレーナを追い払うように掌を振るが、彼女には効いていない。


「アンッタねぇえ!そう言って68回目じゃないの!」

「すまんすまん。おっさんだから記憶力がハンパなくヤバイんだ。

そー言うワケで年寄りには優しくしてくれんもんかね」

「何シルバー世代ぶってんのよ! アンタの体力も精力も

思春期の子供並に衰えを知らないじゃない! ってゆーか、

フォォオオ! 煙草クサイ!クサイわ! いやぁあ! 

アタシの(店の)中がシザーの

吐き出した(煙草の)欲望に汚されたァア!」


 嘘泣きを始めるマレーナ。何だか仲が良いように見える。

「あ~スマンな、オマエを見ていると、外に出すのが

ナンかダルくなっちまった気がせんでもないようなってなモンだ」

「フンガー! ちょっと! それでも小説家? そんな投げやりな

セリフじゃ、熟練度の高い乙女は堕ちないわよ!」


 マレーナの言葉に、思わず赤くなってしまい、顔を

紙袋で隠す。頭に血が昇りすぎて目を回しながらも

ふと、マレーナの言葉を思い出して顔を上げた。

「あんどろいど?」

 シザーの頭部を見ると、やはりHEDDがついているが、

相手は取り立てて気にしていないらしく、あっさりと答える。


「あ~、おっさんは元はバイオロイドだったんだがなあ~戦争で

カラダがブッ壊れちまったから、アンドロイドのパーツで

補ってるってワケだ。生身の部分もあるから、HEDDは

手放せんが、コレはコレでラクでもあるがなあ」

 だから体中に傷があるのか。だが、どこからどこまでが

アンドロイドと生身なのか区別がつかなかった。


「まあ、金持ちならアンドロイドのギミックなんざカラダに

入れたがらんだろうが、おっさんのような庶民は

懐がサムイからな。老後の貯えもせにゃあならんってなモンでな」

「よく言うわよ! 売れっ子の軍人だったクセにぃー。

あ、そうそう、シザー、そのコはウチのお客さんだから、

手は出さないで頂戴よ!」

「そりゃあ残念だ。こんな美女に酒でも注いで貰えたなら、

20年は若返れそうなモンだったんだがなあ~」


 どうやらマレーナの知り合いらしく、ボケたり

ツッコんだりが始まっている。取り込み中のようなので、会釈して

立ち去り、その間に他の試着室を借りようと、歩き出し、

カーテンを開けた。


「誰です?」


 また、うっかり大当たりだったらしく、鋭い声と共に、

振り返った相手は美しい青年の姿をしていた。

 頭部に黒のHEDDを装着し、髪はワインレッドの長髪。

 端整な顔立ちでありながら、背丈はシザーよりも高い。

 耳には所狭しと開けられたピアスが店内のランプを

受け、晩餐のテーブルに並べられたナイフの如く光り輝く。

 鮮やかな赤毛と紫の瞳という稀有な容貌から

バイオロイドなのだと直感した。


「小姐(シャオジェ)、何か御用ですか?」


 先程の敵意のこもった声とは裏腹に、青年は眠る猫のように

目を細めて問いかける。上半身は裸であったが、

白い手袋を装着しており、長い指は足元に置いてある上着を

素早く掴んで裸体を隠した。


 物腰も台詞も優雅でありながら、他人を寄せ付けない拒絶の

空気を滲ませている。

 試着室の前に靴が無かったので、てっきり中は無人なのだと

思い込んでいたのだ。その敵意に満ちた姿に口篭る。

「ご、ごめんにゃさい。わ、わた、わたし、

にゃかに、ひと、いるひょ思わひゃくて……!」

 手を振り、首を振り、危害を加えるつもりは無いと

全身で示す。言葉を紡ごうにも、不器用口は

意味を成さない言語を羅列するばかりだった。


 鋭い敵意への怯えと、己の迂闊さに何度も謝ると、

相手は溜息交じりに上着から片手を出す。

 その手にはナイフが握られていた。

 もし妙な態度や回答をしていたら、どうするつもりだったのか?


 それを肯定するように青年はナイフを折り畳み、微笑んだ。

「ならば結構。そちらの理由は理解しました。では、

とっとと消えて頂けますか? ……かっさばかれたいなら、別ですが」

 慇懃無礼な口調だった。

 危険な男だと感じて踵を返そうとした時、試着室の床に

散らばる包帯が視界に入り、心臓が跳ねる。

 靴が無いと思っていたのは、それを履く必要が無いからだった。


 青年の足元の包帯は黒ずんでいる。それが

覆い隠していたであろう足首周辺は蜥蜴に似た鱗に

包み込まれ、鋭く伸びた足の爪は、くすんだ色をしていた。


 鏡に映った背にはタトゥーじみた翡翠色の鱗も見える。

 巻きかけの包帯が腕からほどけて店内の空調によって

白旗のように舞う間中、沈黙が続いていた。



「……失敬」

 見られたくなかったらしく、隠そうとする姿にソウを思い出した。


 異形への生理的な恐怖で傷つけてしまう後悔を

知っている為、散乱する包帯を拾い上げて差し出す。

 ソウへの罪滅ぼしを彼に対して行うようであったが、

そうしなければ気持ちが収まらなかった。


 白い包帯には所々に墨のような染みがあった。

 まるで肌から黒い血でも滲んでいるかのようだと思った時、

引っ手繰るように包帯を奪い取った青年が試着室の衣装掛けに

手の甲を傷つけてしまっていた。

 舌打ちしているが、傷口から滲み出した血液は見る見る黒色に

変化し、流れ落ちる。

 なのに血の匂いだけは人間そのものだった。


「……」

 ますます気まずい。顔をそらして身体を隠す青年の姿に、

引っ込み思案な自分が、ありえない行動をとっていた。

「だ、大丈夫ですか? あ、あの、私で良かったら、

包帯、その、巻いても……?」

 たどたどしく問いかけると、相手は微笑を消し去り、眉を寄せた。

「あ、あのその、イヤなら、無理にとは……その……」

 身体の黒い血と鱗を見ては、こちらを見る。


「……怖くないのですか?」

「え?」

「気持ち悪いでしょう。こんな身体は」

「……」

「普通ではないし、第一、醜い」


 俯き、暗い顔で呟く姿に、父母を思い出した。

 IDへの差別によって迫害され、気味悪がられながらも

生き抜いた二人に味方は居たのだろうか。

 他者との身体の差に怯える姿に胸が締め付けられる。

 どう言えばいいのかも分からない感情を持て余したまま、

首を振ると、相手は眼を眇めた。


「何故です?」

「あなたのお父さんとお母さんが与えてくれた身体だから……。

生きて欲しいと、くれたものを誰も否定なんて出来ないと思うの…」

 ヒトは生きて居るだけで誰かの繋がりを証明する存在

なのだと、両親を思うたびに感じていた事だった。


「……」

 その時、青年の眉間の皺が深くなる。

 怒らせたのかと慌てて何度も謝った。だが、青年は首を振る。

「……失礼。少しばかり思う所があった次第で」

「そ、そうなんですか……」

 とりあえず試着室から離れようとすると、腕を掴まれた。

「!」

 その勢いに、警戒してしまったが、必死に言葉を

口にしようとする青年の姿があった。


「……小姐、名前を」

「え? え?」

「名前を頂戴したいと言ったんですが?」

「ええぇっ?」

 手を離し、青年が目を逸らす。


「別に嫌なら無理にとは言いませんが、不都合無ければ、

お聞かせ願いたいと思った次第ですが何か?」

「な、何で、私なんかの名前がいるんですか……?」

 警戒してしまった。

 腕を組み、長身故に見下ろすような目線であったが、

何かに気づいたように青年は舌打ちし、膝を曲げる。


「失礼。女性に物を問う態度ではありませんでしたね。自分は

緋牡丹……緋色の牡丹、と書いて緋牡丹 です」

 発音からアジア系(中国?)の人種かと見つめたが、

緋牡丹は目を逸らした。

 仏頂面のまま目線を合わせようとした姿に、ただ

人付き合いが不器用なだけなのではないかと思い始める。


「わ、私は、ユ、ユレカって言います」

「……ユレカ、とは……」

 青年が指を額にあて、考え込むような姿を見せる。


「えっと、あのその、す、すみません。ごめんなさい」

 先程から、ずっと眉間を寄せたままの表情が恐ろしくて

平謝りをしてしまう。その姿に相手が、また舌打ちをしていた。

「……失敬、小姐。僭越ながら当方、このツラが

素の状態ですので不快な思いをさせたなら、真に申し訳ない」

「つ、ツラ、ですか?」

「ええ、ツラですが、何か?」

 言葉遣いがキレイなのかキタナイのか、よく分からない。

 笑っていると警戒しており、怒ったような不機嫌な

顔が通常だと言うのだろうか。


「どうも当方は傲慢に見えるようで……そのようなつもりは、

さらさら無いのですが」

「う、腕組みをしているから、じゃないですか?」

 思わずツッコミを入れてしまうと、相手が瞳を瞬かせた。


「裏社会のルールをご存じない小姐だ。

両手を自由にしている状態の相手と会話するなど、

危険極まりないと思われますが?」

 ああ、腕組みをしているのは危害を加える気は無いという

意思表示だったのか。

 しかし、ニルよりも扱いが難解そうな男である。会釈して

その場から離れようとすると、また呼び止められた。


「な、何ですか?」

 恐る恐る振り返ると、緋牡丹が再度目を逸らす。

「何度も失敬。気になったもので。……それだけ怯えながらも

警戒心が皆無の状態で、よくこの街を歩けるものですね、と」

「ご、ごめん、なさい」

「いや、嫌味を言いたいわけではなく……その……ただ……」

 そこで緋牡丹がズボンのポケットから何かを取り出し差し出してきた。

 赤いボタンのような小さな丸い機器が何なのか、よく

わからなかったが、掌の上で見ていると緋牡丹は背を向ける。


「ちょうど、不要の部品がありましたから、

お好きに使われればいい」

「あ、ありがとうございます……でも、何ですか? コレ?」


 一般常識を知らない為、これが何なのかわからない。

 だが、問い返すと相手の白磁の頬が薄っすらと赤くなっている。

 血は黒いのに肌が朱に染まるのが不思議だった。


「お好きに使われればいいと言ったでしょう? 不要ならば

とっとと捨てて頂いて結構」

「でも、私、お金持ってな……」

「わかりますよ。その身なりで金品を持っているとは思えない。

貴女に物を売りつける馬鹿はいないでしょう」

「そ、そうですよね……。私、お金持ってなさそうですよね……」

「……いや、その……」

 いちいち挑発的な物言いであったが、よくよく考えると

『金は取らない。タダでやる』と言いたいのか。

 よくわからないが、後でニルに訊いてみようと

思っていると、先程のシザーの声が店内に響いた。


「お~い、相棒、ナニ怒鳴ってんだ? 着替えまだか~?

人生の終幕が近いおっさんをあまり待たせんでくれよ~」

 シザーの言葉に緋牡丹が何度目か分からない舌打ちをした。

 不機嫌そうだ。という事は、二人と親しい間柄なのか。


「ご冗談を。とっとと死んで頂きたいのに、なかなか息の根が

止まらない御老害が、よく言う」

「まあなあ。おっさんの人生の終幕は美女の上だと

決めてるってなモンだからな。そうだ、このヤマが終わったら

ラブドールでも買いに行かないか~?」

 その言葉に緋牡丹が満面の笑みを浮かべる。怒ったらしい。


「お盛んな事だ。その節操の無い×××を

切り落として豚の餌にでもして差し上げようか?」

 天使のように微笑みながら、放送禁止用語まで華麗に織り交ぜている。

 その後、緋牡丹は終始笑顔だった。キレたらしい。


「大体、このクソ忙しい最中に、こうして服を

買わねばならなくなったのは、貴方が自分の私服を

勝手に洗濯機の強設定で洗浄したからでしょう? ベルベットを

水洗するなど……ちっ。切り落とした×××を脳漿代わりに

詰め替えて差し上げたいくらいだ」

「でもなあ、アンタさん、ズボラだからなあ。放っておくと同じ服

着てるってなモンだろう? いくら美形でも身なりに

気を使わんと、モテんぞ? 大体、アンタさんは気性が激しい

と見せかけて不器用さんの恥ずかしがり屋さんってなモンで……」

 その時、緋牡丹が笑顔で試着室の壁を蹴った。


「結構。四の五の言わずにとっとと死んで頂きたい。

悦んで人生の幕引きのお手伝いをさせて頂きますよ」

 そこで緋牡丹がこちらを見た。『聞くな。それ以上、この

会話を聞いたら殺す』と言わんばかりの視線で。


 バイオロイドという事は雌雄同体であるし、二人は同棲しているようだし、

そういう関係なのかと思い、そそくさと立ち去った。


 今度は試着室で人の気配を入念に確かめてから、

カーテンをひいて紙袋を開けて見ると、中には白の

短い丈のワンピースと、ブルーのハイソックスとブーツ、そして……

「ねこみみ?」

 ネコミミフードがついたコートが入っていた。


「うう……どうしてネコミミなのかな? カワイイけど。でも、

こんなカワイイ服着るのって、何だか恥ずかしいな……」

 試着してみると、寸分の狂いもなくピッタリと身体に合う。

「これ、ニルが選んでくれたのかな?」

 ニルは黒紺色やら灰色の服ばかり購入していたのに、

こちらには真っ白の服を選ぶのは、似合う色を

AIの知能で探したのだろうか。


 着替えてから、待っているニルの元に戻る。

 黒のカーゴハーフパンツとジャケットへ着替え終わりながらも、

まだ、靴紐を結んでいた。それも、真っ直ぐであった紐は

折れたり玉結びになっていたり、余計に酷くなっている。

「ニル……」

 知識もあるし機転も効くのに、絶望的なまでに

不器用なのだと思った時、相手は不機嫌そうに呟いた。


「何だ、そのカワイソウなモノを見る目は! ……ただ、

このバディに慣れていないだけだ! 別にオレの技巧スキルが

並外れて低いワケじゃないんだからな!」

 並外れて低いのだろう……と思ったが、あえて言わないでおく。

「そ、そっか、そうなんだ……」

「ああ」

 ニルは仏頂面のまま頷いた。


「大変なんだね……」

「ああ」

 そう言えばニルの服をよく見ると、ジッパーは付いて

いてもボタンや紐の類が一切無い。まさかボタンも

自分ではムリなのかと考えた時、完璧に見えた少年が急に

身近に感じられた。そして、世話になり続けている事に

対して、何か行動で返したいとも思う。


「あ、あのね、その、もし、迷惑じゃなかったら、

私で良かったら結ぼうか? あの、あやとりとかは、

得意だから、少しは役に立てると思うの……」

「必要無い」

「ごめんね……そ、そうだよね……」

「……」

 少し離れた位置に腰かけて見守っていると、しばらく

悪戦苦闘していた相手が横を向いて呟く。


「……指のギミックが疲労してきた。仕方ないから、任せる」

「う、うん!」

 うっかり微笑んでしまいそうだった。

 だが、プライドの高い相手は笑われたなら、靴紐が

ほどけた状態で店から飛び出していくかもしれない。


 何故か玉結びが二つも出来ている靴紐を解いて

結びなおす。紐を結ぶのが苦手なら

何故この靴を選んだのかと違和感を感じた。


 視線を感じて顔を上げると、咄嗟にニルがそっぽを向く。

 蝶々結びを見て学習しようとしていたのだろうか。

 ニルの視線の先を追うと、今度は慌てて「見るな!」と言いだし、

頭を掴まれ、反対側に向けられた。


 右を向いていた頭が左に向けられ、首筋から不吉な音がする。

「痛!」

「あ、す、すまな……うぐッ!」

 視界に飛び込んで来たのは、紐製品ばかりの

厚底ブーツのコーナーだった。AIでも、コンプレックスはあるのか。




 だが、首を押さえて床で悶絶している目の前にニルが倒れこむ。

 音をたてて頭部から伏した少年の身体は動かなくなった。


「ニル? ニル? どうしたの?」

「……」

 見開いた青い瞳は急速に光を失い、曇った灰色に変化する。

「ニル? ニル!」

 名前を呼んでも揺すっても起きない姿に不安にかられて

いると、騒ぎを聞きつけたマレーナが飛んできた。


「どうしたの?」

「ニルが動かなくなって……」

「ああ、強制停止しちゃったのね。どれどれ……うん、再起動

すれば大丈夫よお!」

 マレーナがしゃがみこんでニルの首筋の

皮膚を強く押すと、停止していた目蓋が瞬きを始める。


「う……」

「よ、良かった! ニル! ニルー!」

 涙目になりながらしがみつくも、直ぐに押しのけられた。

「く、くっつくな! バカ!」

「あ、あ、ご、ごめんね……。でも、ニルが起きなかったら

どうしようって、私、不安でたまらなくて……」

 顔を赤くしていたニルは、その言葉で目を逸らした。


「別に、オマエがイヤなんじゃなくて……その、オレは

ぬっ、ぬいぐるみじゃないんだ! しがみつくな!」

「ご、ごめんねごめんね。くっついたりしてごめんね。

抱きついたりして……ホントのホントに……ごめんね……。

そ、そうだよね。私なんかがニルに抱きついたりしたら……

迷惑、だよね……ごめんね……」

「おい! こら! 店の隅っこで屈んで泣くな!」


 だが、子供大好きな身としては、こちらよりも背が少し

小さい(ブーツで割増していて、ようやく目線が上がっている)

ニルは年下のようで、思わず和んでしまう。

 ニルに慰められ、その頬を見ると、思わず胸がときめいた。


「ニル……ほっぺが赤ちゃんみたいにプルプルで

かわゆい……赤ちゃんみたいで……赤ちゃん~はふう~」

「! な、何だ、その目は! や、やめろ! オレは

幼児じゃない! 外見年齢18歳のアンドロイドだ!」

「あーん、赤んぼかわゆいのー! ニル育てたいのー!」

「やめろ! バカ! 腰にくっつくな! 話を聞けー!」

 顔面を真っ赤に染め上げて叫ぶニルの姿にマレーナが

「あらあら、ほほほ」と、軽やかに笑っている。


「仲がいいじゃない。でもね、アンドロイドのボク、

主人には従順にしてないとダメよおー?」

 マレーナがニルの額を指で弾いていた。


「さっきはボクちゃんがAI三原則に反した行動でもとって

強制停止しちゃったんでしょう? キミは、この娘を

主と思ってないみたいに偉そうだもんねえ~そんなんじゃ、

ボウヤよりイケメンで優しいアンドロイドが現れたら、

あっさり廃棄されちゃうわよ?」

「!」

 マレーナは冗談のつもりだったらしいが、その言葉に

ニルは瞳を見開いていた。ニルの姿に興奮していた精神がおさまる。


「あ、い、いいの。ニルは、ホントのホントは優しいから。

それより、強制停止って……あんな事ぐらいで

止まっちゃうものなの?」

「……ああ。AIはニンゲンには絶対服従なんだ。

ニンゲンの役に立ち、ニンゲンの為に壊れるまで尽くす……

それが、AIの存在理由……」


 そう言われると不安になる。

 ニルが優しいのは、尽くしてくれるのは、絆ではなく

AIの『本能』とも言えるプログラムに従った行動なのでは

ないかと……。


 自信、いや、誇り無き人間は他者から愛されようとも

己を卑下するが故に、誰かを信じる事が出来なくなる。

『私などが必要とされるわけがない』と、弱い心は

誰かを愛する強さから退くのだ。




-------------------------------------


 アンドロイドのメンテナンスを請け負う業者は

既に営業時間を越えていた為、翌朝ニルが

一人で行くと言い、取り合えず予約を入れていた

宿に行く事になった。

 ちなみに、服代も宿代もカードで払うと言って譲らなかった。


 『別にオマエに無償奉仕している

ワケじゃない。貸しているだけだ。……返せよ』と、言われた。


「ご、ごめんね。でも、それなら私、野宿……」

「ふざけるな! 生活支援AIのプライドにかけて、対象に

そんな見っとも無い真似をさせられるか! 大体、オマエ

自分が病人だって忘れてないか? このバカ」

「ご、ごめんねごめんね。なら、いつか働いて返すから。頑張るから」

「当然だ。さっさと健康体になって働けるようになれ。このバカ」

 どっちにしろ怒られるのか。


 宿と言われて付いて来てみたが、その大きさに

のけぞってしまいそうだった。

 街でも有数の摩天楼で、宿というよりホテルである。



 磨き抜かれたガラスの回転ドアを越えると、

スーツを着たバイオロイドらしき男が現れ、慣れた仕草で案内される。


「私、こんな所に来るの初めて……」

「だろうな。こういう世界とは無縁の庶民だったんだろう」

「う、うん。よく思い出してみると、貧乏だったかも……。

でも、パパがコンビニの残ったパンを貰って来てくれたのは

嬉しかった気がする。公園のベンチで食べて寝て……

ちょっと寒かったかな。懐かしい……」

「……」


 何故か、その時ニルが優しくなった。

『摂取したい食品があるなら何を頼んでもいい

……コレは、オマエの出所祝いでオゴってやる』と、

フォワグラやキャビアをフロントで頼んでくれていた。

(『出所祝い』の使い所は間違っているのだが)


 周囲を見回しながらも大勢いるアンドロイドやバイオロイドに

人見知りし、ニルの背中に隠れて歩いてしまった。

 ニルがフロントで手続きを済ませた後、

エレベーターを登ると、様々なネオンを散りばめた

夜景が眼下に遠ざかってゆく。

 それを見ていると、この世界の資源は今も電気や

石油なのだろうかと不思議に思う。


 派手な看板に記されている文字はアルファベットであったが、

英語とは違うようだった。

 最上階に到着してみると、赤い絨毯を

敷きこんだ廊下が広がり、周囲に人の気配は無い。


 とても値が張りそうであったが、こんなに贅沢をして

いていいのだろうか? 資金は計画的に使わなければと

思ったが、ニルいわく『セキュリティが万全な場所で

なければスリープ状態にもなれない』と言っていた。


「すりーぷ?」

「ああ。そろそろ、眠い……」

 ニルは眼を瞬かせる回数が増えている。


 通された部屋は夜景が一望出来るVIPルームであり、

街では見かけなかった生花が、ふんだんに飾られていた。

 大きなベッドと、テレビのようなスクリーンらしきものは

あるが、ホテルにあるハズの冷蔵庫が無い。


「冷蔵庫なら、DADポケット化して、そこらにあるハズ……だ。

フロントで注文した料理も……直ぐに届くだろう……」

 ベッドに腰掛けたまま、何度も目蓋を閉じかけているニルが

示す場所に、アンティークオルゴールのようなものが

置いてある。開くと蓋にディスプレイがあった。

 その画面を選択すると、中からゆっくりと飲み物が出てきた。

 見た事も無いような食品もあり、空腹であったのを思い出す。


 物珍しいが、色々と見て回る前に心配な事があった。

 ニルの妙な眠気(アンドロイドなのに眠くなるのだろうか)

と、施設からの追っ手なのだが、ニルは目元を

こすりながらボソボソと呟き続けている。


「……都市部の情報データバンクは既にハックしている。

施設は、マザーコンピューターのオレがいない為、外部に

連絡も取り辛くなっているだろう。距離を計算しても

56時間は稼げる。それに、このホテルの看視カメラも

外部からのハッキングがあれば、直ぐにわかるように……

して……いる」


「ニル、凄く眠そう……」

「……問題ない。少し、回路が疲労しているだけだ」

 そう言えば、施設から飛び出してからずっと、一人で

セキュリティシステムを解除したり、アンドロイドの身体を

奪ったり、買い物の予約に戦闘にバイクの運転まで

している。生身の人間ならば倒れているだろう。


「ごめんね、ニル……」

「謝罪なんか要らない。コレがオレの存在意義だ」

「でも」

 それに、パソコン等は長時間稼動させていると

動きが悪くなると聞いた覚えがある。


 スリープとは、電源を切って休ませるのとは違う気がするが、

無機物とは言え、人間そのものに見える相手であるから

『スリープ=休息』と捉えてもいいかもしれない。

 しかし眠そうにしていながら、それでも寝ようとしていない。


「ニル、あのね、そのね、少し、寝よ? ね?」

 もう目が閉じかけているのに、睡魔を

抑えている姿は人間そのものだった。

 眠気を抑えて夜更かししている子供のように……。


「……あ、あのね、もし眠れないなら、迷惑じゃなかったら

私、添い寝とか出来ると思うの!(横に転がるだけだし)

……こ、子守唄とかも、歌えると思うの!(『ねんねんおころり』の

ワンフレーズだけ)」

 ニルの皮膚は非常に美しく、生まれたての子供のように

染みひとつ無かった。

「う、うん、歌えると思うの……はふう~赤ちゃんみたい……」

「やめろー! 少しづつ布団に入ってくるなー! オレは

子供じゃないって言ってるだろ! アッチ行け! このバカ!」


 布団から追い出された。しかも更に意固地になって

眠らないように唇まで噛んでいる。

 だが痛覚の無い身体は加減がわからないらしく、唇を切っていた。

 血は出なかったが、切れた部分を猫のように舐めていた。


「オレが眠ってしまえば……ムニャ……

何かが起こった時……誰が、オマエを……」

「へ、平気! 私、ガンバって此処にいるもの!」

「……」

「……だから、ゆっくり寝て欲しいの」

「……」

「ホントのホントに何処にも行かないから! 

私、ニルがいないと、外の事が何もわからないし、

そ、それに、知らないヒトがいっぱいいる場所は、怖いもの」

「それも……そう、だな」

ようやく納得したらしい相手はベッドに横になった。


 銀の睫毛が頬に影を落としたが、呼吸をしていないので

眠っていると、まるで屍のようだった。

 完全にスリープ状態に入ったのかと思い、

ふと、その額に触れようと手を伸ばすと、不意に「ユレカ」と呼ばれる。


「な、なぁに?」

「何かがあったら必ずオレの名前を呼んでくれ。

それで起動、するようにしている……から……」

「う、うん……」

「オレの、名前を……」

 もう半分、眠っているのに呟いていた。

 施設にいた時から世話焼きなAIだったが、ぶっきらぼうに

見えて面倒見がいい。


 目を覚まさないかとドキドキしながら、眠る少年の

頬にかかった髪を避けてやると、指に触れた肌は、やはり冷たい。

 ニルが己の目的の為とは言え、親切にしてくれるのは

本当に嬉しかった。


「ごめんね。ニ……キミが休んでいる間に、少しでも迷惑を

かけないように、何かガンバらないと……」

 名前を呼びかけて口を噤み、言い直す。

 二日くらいは大丈夫だと言っていたが、足手纏いで

い続けるのは心苦しい(実際、お荷物なので)


 何とかカッコよく役に立ってニルに

『ユレカ、素敵だ!』と誉められたいのだが、

ニルが喜ぶ事とは何だろうか?

 誰かの為に何かをする事など無かった。ただ、迷惑をかけて

嫌われたくないという思いで行動していたのだから。

 いざ他者の為に動こうと思うと、ニルの欲しいものが

まるで分からない。何を食べるのかも分からない。


「……オイルとか、電気とか、なのかな?」

 もしくは核エネルギーだろうか等、考え込む。

 とりあえず食材は無いのかとオルゴール冷蔵庫を開けてみたが、

これは有料なのか部屋代に含まれているのかが、よく分からない。


 そんな些事で寝ているニルを起こすのも申し訳ないので、

持ち物のDADポケットの食料の項目を探すと、

『FOOD』のパンの項目があったのだが…。


・カレーパン 99個

・ドライカレー 99個

・カレードリア(以下略)


「わあ! カレー、いっぱい」

 イッパイすぎる気もするが、素直に嬉しい。

「嬉しい! ありがと、ニ……に、煮込みカレールウ」

 名前を呼ぶと起きてしまうと気づき、口を押さえて誤魔化す。

 ちなみに『DRINK』の項目は…


・カレーラムネ 99個

・カレーラム(以下略)


「えぇええ~飲み物のカレーは、ちょっとツライかも……

でも、ニ……煮込みカレールウが用意してくれたんだし……」

 もうニルが『煮込みカレールウ』になってしまっているが、

何だか胸焼けがしてきた。


 そうして、一人で騒いでいると、肌に汗が滲む。

 施設から全力疾走し続け、汚れた身体を

思い出すと、無性にシャワーを浴びたくなった。

 バスルームを探すと、部屋の奥に備え付けられた風呂は、

それだけで一部屋はあろうかという大きさで、白い大理石の

タイルと蛇口は金色で西洋風のデザインをしていた。


 蛇口をひねって湯をためる。

 施設には風呂釜が無かったので、久々に足を伸ばして

ゆっくり浸かれる…と、思ってから、気づいた。

「あ、下着の替え、無かったような……」


 さすがに女性物の下着まで買っていないだろうし、

持ち出していないだろうしと、寝室に戻って

DADポケットを開けると、『CLOTHES』の項目に、あった。


「何で用意してあるの? しかも、全部、

にゃんこパンツに、ストライプのパンツにフリフリパン、ツ……?」

 尻の部分に愛らしい絵のある下着か、白のフリルの

お姫様のようなパンツに、黒のヒモパン、青と白のストライプ……

しかも白いミニスカートで、こんな下着を着用すれば

透けて見えたりしないのだろうか。

 用意周到すぎるAIというのも、ちょっとどうなのだろうか。


「は、恥ずかしいよ……。でも、このミニスカートで

パンツを穿かないワケにもいかないし……。うぅ……でもパンツ……

へ、ヘンタイさんだと思われない、かな……」

 伸びないと知りながらも、スカートの裾を両手で掴んで

太腿を隠そうとしてみるも、これから脱ぐのに

ガードを固めてどうするのかと気づき、衣服を脱いだ。




 熱い湯に打たれていると、ぼんやり思い出す事がある。

 過去の途切れ途切れの記憶と、現在が、どうしても繋がらない。

 目を覚ました時、既に世界は様変わりしていて、家族も

友人も傍にいなかった。


 人間が絶滅危惧種『レムナント』となり、

その創造物であるアンドロイドや強化人間のバイオロイドが

世界の大半を占めているなど、映画の中だけだと信じていた。

 両親を葬ったとしても、この未知に溢れた世界で

手探りのまま生きていかねばならない。

 しかも施設の人間に見つかれば、また連れ戻されるだろう。

 ニルはEシティに辿り着いて進化を得られたなら、

無駄嫌い故に、一人で生きていくような気がした

 だが、ニルも言っていた。


『お前は死ぬ為ではないと言いながら、過去を選んでいる』と。


「私、死にたくないよ……。今も、凄く生きたい。

いつまで、生きていられるかは分からないけど、でも、

そんなの、皆、一緒だと思うの……」

 誰も己の死期など悟れない。

 だから、終の棲家は自分自身で決める。

 それが強固な運命への唯一の抵抗だと思えた。


「……」


 ふと、水面を見ていると、何故か、奇妙な感覚に囚われる。

 ゆらゆらと揺れる美しい水は、両手を差し伸べるようで、水面を

覗き込むと、そこに映った女の顔は恍惚とした表情で

誘うように微笑んでいた。



「……」


 酷く惹かれて、湯に顔をつけた時、インターフォンの

音が鳴り響き、サイレンじみた音に全身が反応する。

 湯船で眠りかけていたのだと思い、慌てて立ち上がり、

バスタオルを身体に巻きつける間も、呼び出し音は

続いている。ニルは、まだ寝ているらしい。


 あまりに長く続く音に、ホテルで何かあったのかと、外を

見ようとしても、ドアには覗き穴が無い。

 部屋の何処かから確認するのかと、それらしきものを

探すが、わからない。ドアの外から、若い女性らしき声が聞こえた。


「お待たせいたしました。お料理をお持ちしました」

「あ、は、はい! ごめんなさい!」

 料理が届く事を失念していた。

 服を着てドアを開けた時、外にいたのは色白で背が高い、『女性』だった。


 女だと思ったのは、細い体躯に化粧を施し、長く伸ばした

赤毛が綺麗な巻き髪を作っていたからである。衣服も女物だった。


 人見知り体質の所為で、ドアから半分だけ顔を出して

「お、お待たせして、すみません」と、小声で話しかける。

「ありがと、開けてくれて」

 だが、その女は素早い動きで近づくと、取り出した香水の

瓶から、いきなり何かを噴き出した。

 催涙ガスのようなものが噴きつけられ、ムセてよろめくと

腕を掴まれる。


「ハッ! これだから、警戒心の薄いガキはチョロいね!

まったく、この街を歩くのに、ひ弱いアンドロイド

一匹だけのお供なんて、売り飛ばしてくれって言ってるような

モノじゃないのさ! ほら、アンタ達、さっさと連れていきな!」


 女が後方にいたバイオロイドに指示を出していたが、それは

先程、ここまで案内を務めていたホテルの者だった。

 咳き込むばかりで声が出ず、涙で視界も覆われた。

 部屋の中に逃げ込もうとした時、赤毛の女に思い切り腹部を

蹴り上げられて倒れこむ。咳は酷くなり、ベッドの上のニルの方を見るが、

僅かに見える両脚は微動だにしていなかった。


 名前を呼ぶ事を起動条件にしているのだから、

インターフォンの音にも反応しないのか。

「ニ……」

 だが、腹を蹴り飛ばされて声が出なかった。

 必死にニルを呼ぶが、かすれた音声が途切れ途切れに

放たれるだけだったのだ。


「あうっ!」

「おっと! 危ない危ない。天然モノのレムナントのメスは

高く売れるからね。しかも、コイツ良いカラダしてやがるよ」

 恐怖を感じて必死にもがき、何度も相手を蹴ったが、

布で口と目を塞がれ、手足を縛られてカートの

中に投げ込まれた。


「怖がらなくてもいいんだよ。ま、死にはしないさね。

金持ちのオヤジの愛玩用かガキを孕むだけの生産機扱いか……。

まあ、アタシらみたいなドブねずみの生活より、マシだろうさ」

 下水道を走り回る溝鼠と、白い檻の中のマウスは、

どちらが幸せなのかなど、比べられないような気がした。


「うぅ! うぅぅー!」

「五月蝿いよ! ほら、あんた達とっとと運びな!」

 ガスの影響なのか、意識が遠ざかっていく。

 ここで眠り込んでしまえば取り返しがつかなくなると

分かっているのに、女が取り出した金属の筒を首に

あてられると、打ち込まれた薬物によって強烈な睡魔が

精神を侵していった。


「(……ニル……)」

 泥の底なし沼に沈む込むような感覚の中、

水中から地上の声を聞くように、物音や会話が届く。

 ホテルから連れ出されたのか、頬に外気を感じた。


 意識が完全に闇に閉ざされてから、どれだけの

時間が経過したのだろうか。意識の混濁の中、ふと懐かしい匂いを感じた。



 平和だった遥か昔、何処を見ても溢れていた人間達は

ほとんど残っていないのに、そんな感覚を覚える。


 その想いから連想したのは、悪夢から助けてくれた『エス』の存在だった。

 ぼんやりとした姿形しか見せなかった相手であったが、

長い髪と指を思い出す。


 うっすらと開いた目に映ったのは、無数に垂れ下がる黒い糸だった。



 思わず顔を上げると、後頭部に何かが激突した。

「いたッ!」

 床に転がったまま視線を上げると、どうやら

衝突したのは人間の顔だったらしい。その衝撃で

胸ポケットに入れていたボタンが転がってゆく。


「ッ……」

 顔を押さえた者が片膝をついていた。

 こちらを覗き込んでいたらしいが、突然

起き上がった為に、顔面を打ったらしい。


「あ、ごめんなさ……」

 謝罪を口にした時、ゆっくりと手をどけた相手の

神がかった造形に思わず息を飲む。


 漆黒の髪は長く床の上にまで流れ垂れており、

シャギーに切られた側面の髪は頬に陰影をつけている。

 金の両目には猫のように細い瞳孔が在った。

 頭部を見ると、狐の耳に似たHEDDが装着されている。

 何処となくエスに似ている気がした時、男が口を開いた。


「レムナント……?」

「え?」

「お前も、レムナントか?」

「お前、も?」

「おれも、レムナントだ」

 だが、バイオロイドでも人間の形が残っている者も

いるのを街で見てきた。

 それに、今の状況がまるで分からない。


「あ、あの、あなたは?」

「……」

 相手は立ち上がると、少し離れた位置に座り込んだ。

 鋭い瞳を長い睫毛が覆うようで、男は詰襟の衣服を緩めて呟く。


「しばらく、待っているといい」

「え?」

「軍警の制圧が始まるだろう」

「え? え?」

「だから、案じなくともいい」

「……」

 心配させまいとしているのかもしれないが、どうにも

会話をかい摘み過ぎていて、よくわからない上に、

こちらの質問に答えていない。


 それに、この男の存在自体の説明が

全く成されていないのだ。

「あ、あの、あなたは? ここは? 今、

何がどうなっているのか…」

「……」


 相手は猫の目を瞬かせる。無言の間の取り方が、

更にエスとの接点に見えてきた。

 夢で逢った人間が現実にいるなど馬鹿馬鹿しいと

思いながらも、面影も声も仕草も、

漏れる呼吸すら彼に似ていると感じる。


「……エスに、似てる」

「エス? お前の名前か?」

「う、ち、違うの。そのう……うぅ、にゃんて言えばイイにょか

わからひゃいけろ……」

 焦るあまり盛大に噛んだ。慌てて口元を押さえるも、

「そうか」と何故か頷いていた。


 クールで大人びて見えるが、どこか独特のテンポを

持っている相手に、どう対応すべきかと思っていると、

男は「ああ、それでいい」と言い出した。


「それでいい?」

「おれの名前だ。エスでいい」

「……」

 『~でいい』という事は本名が別にあるのだろう。何か

実名を名乗れない事情があるのかと思考が糸のように

絡み合うが、エスと名乗った男は眉を寄せる。


「自己紹介のつもりだったのだが、何か、おかしかったか。

すまん。おれは、戦う事しか知らない。レムナントの若い女の

扱いも、書籍でしか見た事が無い」

 落ち込んでいたらしい。こんなに洗練された容貌から

見せた不器用さに親近感を覚えた。

 普段は人見知りで、知らない人間と

会話をするなど考えられもしなかったが、笑ってしまった。


「えっと、あの、だ、大丈夫です……。その、私はユレカって言います」

「ユレカか。いい名前だな」

 微笑を浮かべてそう言われ、顔が赤くなった。

 このような美形に誉められれば、どんな娘でも

一目で恋に落ちるだろう。だが、目を逸らした時、

飛び込んで来た光景に、追い詰められている現状を思い出す。


 辺りを見回すと、トラックの中らしき場所には、

他に数人の者が囚われている。

「お前もマンイーターの人狩りに捕まったようだな」

「まんいーた?」

「知らないのか?」

「ご、ごめんなさい」

「いや……」

 そこでエスは薄く微笑んだ。


「未知のものを既知とするのは愚かな事だが、知らぬ事を

素直に言えるのは善き事だ。マンイーターとは

レムナントを売買する犯罪者の事だ。人間を食い物にする

という蔑称から『マンイーター』と呼ばれている。

今は、奴らのアジトに送られる最中なのだろう」

「ええッ?」

 妙に落ち着いて淡々としているのが気になるが、それなら

売り飛ばされてしまうという事なのか?


 誰もが幼い子供や女性ばかりで成人した男は

エスしかいない。何故男なのに捕らわれて

いるのかと思ったが、この美貌の持ち主なら男でも『売れる』のだろう。

 彼が言うには『もうしばらくしたなら救助が来る』との

話であったが、皆泣いていた。その中でも年長の女性が

暗い表情で呟く。


「ムリよ! 軍が動いてくれるワケないわ。

軍警なんて、レムナントでも金持ちしか助けないじゃない。

あたし達みたいな身寄りのないレムナントは、泣き寝入り

するしか無いのよ!」

 傍らの幼い少女が「ママ」と近づいていたが、女性は

子供を睨み、突き飛ばす。

「きゃっ!」

 その行動に声を上げたが、女は呪詛のように

哀しみを口にし続けている。


「バイオロイドもアンドロイドも、全部消えてしまえば

いいのよ! あんな汚らわしいヤツらが消えて…

旧世界のように、レムナントだけの世界に戻して欲しいわ!」

「……ママ」

 その時、子供が声を殺して泣き出し、

エスが見ていられないかのように目を逸らす。

 この子供はバイオロイドとレムナントのハーフなのだろうか?


 だとすれば、実の母親から『消えてしまえ』と言われた

子供の心境は考えるに忍びない。

 誰であろうと己の存在を否定されれば深い絶望を

感じるものである。それが、自分をこの世に産み落とした

存在であるならば、尚更だろう。


 そこまで追い詰められるに到った母親は、

こちらの想像も及ばぬような酷い目に遭い、望まぬ子供を

宿してしまったからなのだろうか。

 そうであるならば、母子共に被害者であるように見えた。

 その推測を肯定するようにエスが低い声で呟く。


「純粋な遺伝子を尊ぶ思想故に、バイオロイドは

レムナントと血統統合をしたがる」

「ケットートウゴー?」

「性交渉だ」

「……え、えぇえー?」


 ニルといい、この男といい、未来の世界とは、

女性に言いづらい単語をサラリと言ってしまえるものなのだろうか。

 だが、女の扱いを知らないと言い切るだけあり、相手は

「どうかしたのか?」と、まるで気づいていない。

「う、う、に、にゃんれもないれす……」

「……オマエは、変わった方言を扱うな」

「こ、これは、あの、噛んでるだけなんです……ごめんなさい」

 両手の人差し指を突き合わせてモジモジしながらも

エスの話に耳を傾けると、相手は「そうなのか」と

無表情に受け流していた。


「バイオロイドはレムナントが生き残る為に残した血筋と

言われている。だが、遺伝子に混ざり物があるという

コンプレックスから、レムナントと統合したがる傾向がある。

レムナントはバイオロイドを異形と

見下し拒絶する為、生まれたハーフのほとんどは

あの親子のようになるのだろう」

「……」


 自分がソウにしたように、異質な存在への生理的な

嫌悪から相手を拒む。それが無意識であろうとなかろうと、

傷を受けた者にとって痛みに変わりは無いだろう。


「過去、レムナントだけが存在した時代には、

そんな差別は存在しなかったと聞いているが……」

 エスの言葉に母親は反応し、涙に濡れた目を向ける。

 それは無言ながらも、その世界を望む姿だった。

 だが……。


「でも、人間だけでも差別は……やっぱり、消えない、と思います」

「消えないのか?」

 病室でニルから聞いた話を思い出してみると、

ID感染者への例があげられるだろう。


 昨日までの同胞が死病に侵された時、人間としてではなく、

病原体保持者として見られ、迫害は過熱したと言う。

 マスコミは興味本位で被害者の情報を晒し、周辺の住民は

嫌悪と拒絶を隠さなかった。


 街を歩けば石を投げられ、醜い言葉を吐きかけられた。

 出て行け、消えろ、失せろ、と、母の胎内に居た時に

聞いた事を思い出す。身重の女性相手ですら、迫害だけは

『平等』に降りかかっていたのだ。


「私の、パパとママも差別で……」

「母上? 母上がどうかされたのか?」

 エスが顔を上げた。黙って頷くと、

相手は察したのか、目を伏せ首を振った。


 ただ我が子を産みたいと願った優しい母は、我が子と

対面する前に血塗れで息絶えた。

 父は遺された娘を一人で育てていたような記憶が甦る。

 病で仕事を失った父と、公園で寝泊りしていたのは、母を亡くした後。

 繋がり出す記憶はパズルのようだった。


 しかも両親は人間らしく葬られず、その遺骸を標本のように

晒され続けているのは人類の悪徳を形にしたに等しい。

 人は同種族であろうと『異質』と認識すれば

情け容赦なく弾き出すのだ。


 やがてIDへの恐れは肥大化し、感染者への迫害が

虐殺となり、憎悪と悲哀に駆られた人間達は

互いに滅ぼしあった。それが第三次世界大戦だと言う。


 そうでなくとも、人種、宗教、価値観で、

お互いの境界線を主張し続け、それに沿わなければ、

攻撃し、排除されていくのが人類の歴史に無数の

血の彩りを添えていたのも知っている。


「人間は同種であっても、誰もが同じじゃ無いから。

心は違うと思うの……。それを拒絶する限りは楽園なんて……」

 彼等が言うような『楽園』など人類の歴史の何処にも存在しなかった。


 だが、それを言えずに黙ってしまう。

 過去を話せば理由を訊かれる。そうすればID感染者で

ある事も話さねばならなくなる。

 この時代にIDは撲滅していると言うし、HEDDがあるからと

聞いていても、やはり言い出せなかった。

 差別される事を恐れていた。


 黙り込んでいると、エスは首に下げていたペンダントから

本を取り出していた。ドッグタグに似た薄い形状で、

超小型のDADポケットらしい。

 マンイーターらから奪われなかった所を見ると、

彼等はこのような形のDADポケットがある事を

知らなかったのだろうか?

 本は聖書だった。




「旧約聖書に記されている人類誕生は、今の世界の

予言であったとする説もあるな」


 唐突な話題に驚いたものの、とりあえず会話を聞き入れる。

「予言? そう言えば、そんな話を聞いた気がします」


 聖書に歴史的な出来事の予言があると聞いたが、

どうにもコジツケのように感じて、まともに覚えていなかった。

 だが、周囲の子供達は男の静かな声音に顔を

上げて、話に聞き入り始めている。


「神が己の姿に似せて創った人間と、心の無い天使。それは

今の世を暗示していると主張する学者がいる」

「え? どこがですか?」

「レムナントが己に似せて作ったバイオロイドを神の模倣品

である人間、それらをサポートするアンドロイドを天使に

見立てられる、と。元々、人類の始祖であるアダムは

対となるエバが誕生するまで、雌雄が無かったという説もある。

ならば、アダムの位置づけは雌雄同体のバイオロイドの事

ではないか、と」


 神はレムナントであり、その神が姿を消してゆく

この地はバイオロイドにとって『神に見放されていく楽園』と

受け取れるのだろうか。


「だが、聖書を預言書として見るのならば、

禁断の実を食した人間……バイオロイドは楽園を追われる、とある」

「追われる? えっと、『禁断の果実』を得た

バイオロイドを危険視して、ニンゲ……レムナントが

バイオロイドを排除する、というコト、でいいんでしょうか?」

 そこで、エスが驚いたようだった。


「お前は、頭の回転が速いな」

「ち、違います! あ、あの、その、ま、マグレで、私……

ごめんなさい! 余計な事を言ってしまって!」

 出過ぎた真似をしたと赤面して手を振る。

 あの狭い病室ではニルとの会話か、思考しかする事が

無かっただけで、特別に思考力があるワケではない。


「禁断の実……」

 それはレムナントにとって都合の悪いものであり、

危険なもの? だが、バイオロイドにとっては実害が

無いもの、だろうか?

 そこで、連想されたのが『ID』だった。


 もしレムナントに牙を剥くバイオロイドがいた場合、

この感染症はレムナントにとって非常に厄介かもしれない。

 だが、HEDDがあれば感染しないと言うし、

治癒方法もあるかもしれないらしいとの事であったから、

IDは『禁断の木の実』に該当しない気もしたが……。


「……」

 混乱してきた。

 子供らは更に話を理解しておらず、ぐずつき始めている。

 だが、現状を何とかしなければ、売り飛ばされてしまう。

 聖書を閉じたエスは少し困っているようだった。


「すまない。その、おれが落ち着く方法を試してみたが

どうやら、余計に混乱させてしまったようだな」

「え?」

「……皆、不安そうな表情をしている」


 リラックスさせようとしていたのか。

 だが、こんな暗い話で誰が心安らかになるのかと、

場の空気は絶望的なままであったが、エスの姿に吹き出した。


「あはは」

 その声に男が不思議そうな顔をしており、その様子にも

笑ってしまった。

「何か、可笑しかったのか?」

「だって、そのお話じゃ、リラックスしないと思います」

「そうだったのか。おれは、聖書を読んでいると

落ち着くものだったが。ならば、一般人は何を読む?」

「い、一般人は、この状況じゃ本は読まないと思います……」

 一瞬、エスがこちらを凝視した。


 何かマズイ事でも言ってしまったのだろうかと思った時、

「読まないものなのか」と、真顔で呟く姿に、

また可笑しくなってしまった。

「読むとしても童話とか、かな?」

「童話? 何だそれは?」

 エスが不思議そうに尋ねた。まさか、童話を知らないのか。

 黒い髪と白い肌を見ていると、連想される御伽噺があった。


「えっと、白雪姫とか……」

「シラユキヒメ?」

 まさか知らないのか。上手く話そうとするものの、

どもってしまって筋道をたてて話せなかった。

「あの、その、毒りんごを食べて死んでしまったお姫様が、

王子様に助けられて幸せになるハナシで……」

「死んだ人間が王子と結ばれるのか?」

「えっと、そうじゃにゃくて……実は死んでなくて生きて……

たのかな? お姫様の死体を見た王子様が……」

「死人が、蘇生したのか?

シラユキヒメの名前の由来が出てこないな」

「それは子供が出来なかった王妃様が、雪のように白くて、

黒檀のように黒くて、血のように赤い子供が欲しいと、

お祈りして……」

 そう言いかけて、口をつぐんだ。


 白雪姫とは、己よりも美しく優れてゆく娘に

嫉妬し、殺そうとする話だった。

 望みのままにカスタマイズした子供が気に入らず

殺す……そんなバイオロイドの縮図のようだった。

 あの母娘の前で話せるわけもなく、押し黙ると、

察したらしいエスが「どうやら、長い話のようだな」と、

上手く会話を断ち切った。


 やがて、嗚咽をもらす子供の声に

顔を上げると、他に大人がいない状況で不安らしく、

近づいて来る。


 あの幼子の母親は気が立っているし、エスでは

小難しい話をするので、一番マトモそうだと

判断されたらしい。怖がって泣き出す子供に、

引っ込み思案な己に少しづつ使命感のようなものが

芽生える感覚がした。


 いつでも強い誰かの影に隠れているだけであったが、

もし、誰もがいなければ己一人で立たねばならない。

 頼られる事など絶対に無いと思っていたが、

己より弱く非力な存在を前にすると、どんな人間でも

奮い立つものである。


 エスが足の拘束具に手を伸ばし、パスワードを打ち込んで

解除してくれた。

「ナンバー、知ってるんですか?」

「いや。記憶しただけだ」

「?」

「レムナントには視覚記憶能力がある。一度見たものを

忘れたりはしない」

「そ、そう、かな……?」

 またワケのわからない事を言っているが、とりあえず

泣きわめく子供を抱きしめようとする。

 そこで思わず手を止めてしまった。


 こんな時でも、ID感染を気にしてしまう自分がいた。

 体液による感染経路なのだと言い聞かせ、恐る恐る

背中を撫でてやると、子供の扱いを

あまり知らない身でも、相手を安堵させられたようだった。


「……子供が、好きなのか」

 ふと、顔を上げると、エスが目を細めていた。

 懐かしむようでいて、何処か哀しげな表情を浮かべている。

 何かを思い出しているのかもしれない。


「あ、はい。やっぱり赤ちゃんや

小さな子は可愛いし、守ってあげなきゃって思うし……

だから、つまり、えっと、でも、私、不器用だから、

どうすればいいかわからないけど……あの、その……」

 口下手さが爆発し、まとまりのない言葉になっていたが、

相手は「そうか」と、頷いている。


「それでいいのだろう。わからないならば、触れて知り、

経験して己に記憶させていく。だから、生物は

生まれながらに未熟なのかもしれないな」

 男は己のペンダントを見つめていたが、その時、

子供に抱きつかれた


「怖いよぅ、おねえちゃあん」

「だ、大丈夫よ。きっと、ニルが助けに来てくれるもの」

「にる?」

 子供に問われ、出来る限り力強く頷いた。

「う、うん。ニルっていう、凄く強くて何でも知ってて、

バイクの運転も出来る人が、直ぐに……えっと、その、

爆破とかして、助けてくれるもの」

「爆破?」

 爆破と銃撃シーンしか見た事が無いのだ。


 だが、ニルならば、もしスリープが完了して(完了後に自動的に

目が覚めるかどうかは分からないが)傍にいるハズの者が

いなければ、直ぐに何とかしてくれる気がした。

 そんな中、あの少女が曇りの無い目で見つめながら呟く。


「でも、ココから助かっても、マリエンとママは、ドコに

行けばいいの?」

「……?」

「また、アイツに連れ戻されるかも

しれないのに、ドコで暮らせばいいの?」

「あいつ?」

 うっかり問い返してしまってから、失言だと気づいた。

 母親の眼差しに暗い憎悪が滲み、少女の目に絶望が宿る。


「みんなが、マリエンの『パパ』っていうの。でも、アイツ、

パパなんかじゃないよ。だって、いつもママにヒドイ事するし、

アイツ、豚さんのカオしてるんだもん。……気持ち悪い」

「う……」

 マリエンの母親は、虚ろな瞳で己の腕を抱いていた。


「ねえ、どうすればいいの? アイツがいなければいいの?」

「そ、それ、は……」

「どうして、オズ様は万能なのに、この世界には、こんなに

哀しい事が、いっぱいなの?」


 マリエンの言葉に何の慰めも返せなかった。

 この母子の幸せな環境を用意するだけの力も無く、

現状を打破する知恵も無く、ただただ同情の想いだけで

言葉を吐くならば、何も口にしない方がマシだとすら思える。


 だが、マリエンは答えを求めながら、それを誰からも

与えられないのを既に知っているようだった。

 幾人もの人間に同じ問いかけをしたのかもしれない。


「マリエンの『パパ』がレムナントだったら、ママも、

マリエンも『しあわせ』になれたのに……」


 幼い少女は、自らの存在の否定を口にし、その姿に

涙腺が熱くなってきた。

「でも、パパがいなかったら、あなたは……」

 生まれてすらいなかったのだと思ったが、口を閉ざす。この

母親を一途に慕う少女に教えれば『なら自分はいらない』と

言い出しそうな気がしたのだ。


「なんで泣くの? おねえちゃんには、カンケイないのに」

「うん。ごめんね。何かをしたいのに、何かが出来ると

信じているのに、何も出来ないと思うと、

泣いちゃうものだから……」

 考えれば考える程、抗えない現実を知り、

その無力さが心を曇らせ、涙という雨を降らせる。

 こらえても流れる涙が頬を濡らした。


 黙っていたマリエンが歩み寄り、スカートを持ち上げて

涙を拭こうとしていたので、それを拒む。

「どうして?」

 恐らく、『目の前で困っている人に出来る事』が、涙を

拭く事なのだと思ったらしいが、こんな優しい子供には

尚更近づいて欲しくなかった。


「だ、大丈夫。それに、私、ちょっと

病気だから、涙には一応触れない方が……」

 その時、マリエンの母親とエスが顔を上げる。


「病気? 病気って何?」

 青ざめる母親の目が責めるようで、口を噤んでしまう。

 だが二人は気づいたようだった。

「涙が感染経路って、まさか……ID?」

 母親がマリエンを引き寄せ、怒鳴り出した。


「ID感染者なの? ウソでしょ? 絶滅したんじゃなかったの?

でも、涙が感染経路なんてIDだけよね?

あ、あの、発症すれば100%死ぬっていう……」

 致死率が高いとは聞いていたが、撲滅したのでは

なかったのか?


「で、でも、IDは、もう、世界に無いって……感染者が全て……」

「確かに医療技術によって根絶させたわけではないが……」

 エスの言葉に混乱していると傍にいた子供達も離れていった。

 その姿に傷ついている間にも甲高い悲鳴は続く。


「冗談じゃないわ! こんな場所に感染者と一緒に

監禁されていたら、あたし達まで、頭がおかしくなって

殺し合いをしてしまうじゃない!」

「こっ、殺し合いなんて、そんな……!」

 それはIDの末期感染者症状であり、この身は投薬に

よって進行を抑えている。だが、それを知らない人間に

とってはキャリア全てが末期患者に見えるようだった。


「寄らないで! 寄らないでって言ってるでしょう!

どこかに行ってよ! 近寄らないで!」

 騒ぐ母親の姿にエスが「落ち着け、IDは過去の産物だ。

感染者も死亡している。彼女が感染していると考えるのは早計だろう」と、

なだめようとしているも、聞いていない。

「感染してるって、あの娘が言ったようなものじゃない!

いやよ! 死ぬのは!」

「騒ぐな。落ち着け」

 だが、エスの言葉も虚しく、唐突にシャッターが開いた。

 その先にはホテルで遭った赤毛の女が立っていた。


「何だい? さっきからゴチャゴチャとやかましいね!」


 母親は、あれほど嫌っていたバイオロイドに助けを

求めるように声を荒げ続けている。

「ID感染者がいるのよ! 早く何処かにやって!」

「何だって? IDなんか過去の病気だろ?」

「いたのよ!」

 その時、エスがさり気なく庇うようにして立ってくれた。


「ID感染者の人類が生存していたという記録は無いと

聞いている。……その女は極度の緊張状態で

疲労しているのだろう」

「な、何よ! あたしの頭がおかしいって言いたいの?

あなた、感染して死にたいわけ?」

「ああ、もう、五月蝿いね! 感染してるかどうかなんざ

調べりゃ分かるんだよ!」

 近づいてきたマンイーターの女に襟首を

掴まれ、呼吸が止まる。だが、女は首筋を見て頷いていた。


「ああ、首に研究体ナンバーがあるね。なんだ、コイツ

実験体かい。ったく、アタシらバイオロイドは病気には

強いけどね、レムナントの死因は病死が多いんだ!」

 それで皆が異常に警戒したのだと合点は、いったが、

引きずりだされ、トラックから地面に叩きつけられる。


「うッ!」

 流血などしていないかと身体を見たが、擦り剥いた腕から

僅かに出血していた。


「このメスガキに近づいたヤツは?」

 誰も何も言わず、気まずい沈黙だけが満ちていたが、

女は溜息交じりに言い放つ。


「正直に言わないと、発病しても助けてやらないよ?」

「……」

「……」

 その言葉に数人の子供とマリエンも手を挙げたが、

それらもトラックからおろし、女が銃を取り出した。

 そこでマリエンの母親が駆け出して来る。


「な、何するつもりなのよ!」

「何するつもりって、処分するに決まってんだろ?」

「助けるって……」

 愕然とする表情を嘲笑いながら、赤毛の女は銃を取り出す。

「バカだねアンタ、IDの治癒方法なんか、人さらいの

アタシが知ってるワケないだろ? 大体、感染者が

死に絶えて、ようやく世界から消えた病気を研究したって、

誰も何も得やしないだろうさ!」


「そんな! でも、娘は、マリエンバードは

関係ないでしょ? 感染者は、その娘だけなんだから!」

「でもさあ、この商売って信用第一なワケでね。病気持ちの

レムナントなんか売れないし、逃がせば足が

つく。正規の研究所じゃ拉致ったレムナントには金を

出してくれやしない。大体、このガキはバイオロイドじゃないか」


 IDへの偏見は根強く残っているらしく、空気感染すると

信じられているようだった。降ろされた子供達は泣き叫ぶか、

恨めしそうにこちらを見ている。

 それは、最も辛い反応であった。


 疎ましがられるならば、空気のような存在でいたいと

願った、『あの日』。

 ふと、何かを思い出しかけたが、それは水底へ向かって

沈むように、片鱗さえ見せる事は無くなった。


 空気でいい。皆が幸せそうに笑っている姿を見て、

それだけでこちらも微笑んでしまえる。

 人の傍が好きだから、嫌われるのが怖かった。

『いらない』と拒絶されるのが怖かった。

 受け入れてもらいたくて、自分の為には

何も出来ないのに、他人の為なら身体が動く。


 己の為には祈ることも出来ないアンドロイドのように。


「あ、あの……」


 銃口を眼前にして話す恐怖に、本能は

逃げ出してしまいたいと叫び続けている。

 だが、背後に巻き込んだ命がある以上、

逃げて生き延びても罪悪感で生きては

いられないという、理性の想いからだった。


「あの、IDは涙とか体液が感染経路だから、だから、

誰にも感染は、してなくて、私だけで、この子は、関係無くて」

「何言ってんだい? 喋るんなら、きちんとまとめてから

口にしな! この、グズ!」

 怒声に怯えたが、それでも聞こえる子供の

泣き叫ぶ声に後押しされる。


「ほ、本当なの! 私だけが感染者だから!

後は誰も関係なくって、伝染ってもいないから!」

「どっちにしろ、アンタは売れないね。ったく、感染者なら

大人しく牢にでも居ろって話さ! ノコノコと世間を

歩きやがって、迷惑極まりないね! このクソアマが!」

 その時、マリエンが大声で泣き出した。

 『居なければいい』と言われ続けた己の姿と、こちらを

重ねて見てしまったのか。


 火がついたように泣き出し、止みそうにない。

 それは女を苛立たせているのが誰から見ても明らかで、

やがて、こちらに向けられていた銃口は

幼い娘に標的を変更する。


「うるさいガキだね! アンタから頭ブチ抜いてやろうか!」

「いやぁあ! マリエンバート! やめてー!」

 悲鳴を上げて止めようとした母親を女は足蹴にしている。

 泣きじゃくる子供の姿に、無力を嘆いた自分の心は、

肝心の場面で恐怖に竦んでいた。


 銃を持つ相手に勝てる気などしないし、この至近距離で

狙撃されれば確実に生命を脅かされると、混乱しながらも

脳内のどこかでは冷静に現実を見つめていた。


「(こ、怖い。怖い。ニル、ニル助けて……! 助けて!)」


 IDで死ぬ末路があったとしても、今死にたくない。

 でも、子供を死なせたくない。なのに動けない。怖い。

 還りたい場所がある。逢いたい人達がいる。

 その希望を『死』というモノで潰されてしまいたくない。

 どうすれば、どうすれば?


 そこで、頭の中で白く点滅する何かが聞こえた。


『この子は、この子だけは!』


 渦巻く悪意の中、それでも命を守り続けてくれた、母の言葉。


「(お母さん、お父さん……)」

 挫けそうな時、生き抜く辛さに心が折れかけた時、支えと

なったのは最後まで強く生き抜いた両親の存在だった。


 そんな彼等に、もう逢えないくとも、

せめて二人が誇ってくれるような人間でありたい。


 それが、彼等の生きた『証』になるのだと。

 その瞬間、土に張り付き、動かなかった足は

大地を蹴って駆け出していた。


「やめて!」

 マリエンを庇って女に背を向ける。


「この子を、殺さないで!」



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