ノノと葵のクラスは、洋館風建築物を改装して作られた校舎の二階にあった。もともと幽霊屋敷として立てられたその校舎には今もなお当時の名残があり、西洋の化け物を模して作られた半壊のオブジェが至るところにごろごろと転がり放置されていた。しかしそれらがどういったものなのか理解していない学生たちにしてみればただの石ころでしかなく、中にはそれらのオブジェに落書きをしたり石蹴りの石として使用する者も多かった。かくいうノノもそういった生徒の一人で、暇があれば校内を練り歩き妙なものを見つけては教室まで持ち運び、嬉しそうに葵に見せたりしている。
二人は教室に入るとそれぞれ自分の席に向かい、左右のフックに荷物をかけた。机も椅子も木製で随分と痛んでおり、それがかなりの年代ものであることを物語っていた。実際それらはもう十年以上も使いまわされている代物で、足が折れても新しいものと取り替えるのではなく、直せそうならば直して今日まで使い続けられてきたものだった。
だがそれは何も机や椅子に限ったことではない。家も自動車も衣服も、壊れれば全て修理して使用する。かつて使い捨ての時代と呼ばれていた頃の人間達の浪費により地球の資源は減り続け、そのことに漸く気づいた頃にはもう取り返しのつかないところまで来ていたのである。そこへ自らの首を絞めるように世界大戦が勃発。残った資源をも投入せざるを得なくなった人類には戦後、使い捨てられたものを再利用するよりほかに生活していく術はなかった。そしてそれは、戦後五十年を経た今も変わらず、現在に至る。
葵は継ぎ接ぎだらけの椅子に腰掛けると、ふう、と小さく一息吐いた。それから自分のリストに目を向け、現在の時刻を確かめる。午後八時五十五分。先生が来るまで、まだあと五分ある。五分あれば少しは眠れるかなぁと思った、その時だった。
「あ~おいちゃん!」
「うぐ!」
ノノが突然、横から抱きついてきたのである。
その腕は葵の首にぐるりと巻かれ、ぎゅっと締め上げられて。
「ぐ、うぐぐぐぐうう!?」
「ねぇ、聞いて聞いて! あのね、あのね!」
「ええ~いい! 放せ、この馬鹿娘!」
ノノの腕を掴んで、自分の体からノノを引き剥がした。葵はぜえぜえと息を整えながら喉もとに手をやり、怒りで吊りあがった眼に炎を燃やしながらノノに顔を向ける。
「ヌォ~~ヌォ~~!?」
「ひぃ! な、なになに!? なんで怒ってんのぉ~!?」
ノノは訳が判らないとあたふたしながら怯えた眼を葵に向けた。
葵はそんなノノの頬に手を伸ばし、思いっきり左右に引っ張りながら顔を近づけて叫ぶ。
「あんた、アタシを殺す気かあぁぁぁあぁぁ!?」
「ご、ごごご、ごめんなしゃ~い!」
眼に涙を浮かべながら、ノノは謝るのだった。
葵はノノの頬から手を放すと腕を組み、眉間に皺を寄せる。
「――まったく。で? なによ? なんかあった?」
「う、うん、えっとねぇ~」
とノノは眼に涙を浮かべたまま痛そうに両頬を撫で、かと思えばパッと笑顔になって葵の目の前に自分の左腕を差し出した。そこには誰もがそうしているようにリストが装着されており、縦四センチ横五センチほどの液晶画面にはデジタル時計が表示されていた。
液晶画面……?
そこで漸く、葵は驚きの目をノノに向けた。
「あ、あんた、どうしたのよ、これ!?」
「えへへへ~! パパがね~、ちょっと遅れたけど、お誕生日のプレゼントにってノノにくれたんだよ~!」
「くれたって、だってこれ、まだ発売されたばかりの最新版だし、それにフルカラーの液晶画面ってったらいくらすると思ってんのよ!?」
葵が驚いて叫ぶのも無理はなかった。リストの画面は普通白黒の表示で、出来るだけ低コストで作れるものが主流だった。政府から無料で配布されているリストになるとさらに粗雑で、個人識別機能しかない。民間の三企業がこのリストに様々な機能を付与して販売する許可が下りたのもここ数年の出来事で、ノノが腕につけているリストは製作コストが著しく高く、市場に出回る数も少ない。一般の農家やサラリーマンの平均月収が約五万のこの時代において、その価値はおよそ四か月分、約二十万もする高価な代物だった。
「いくらだろう」とノノはとぼけたように小首を傾げる。「千円くらいかなぁ~?」
「――んな訳ないでしょ?」
葵はノノの金銭感覚の無さに呆れてしまう。
「それじゃぁ高校生の平均的こづかいでしかないじゃない。数か月分の給料と同じ値段よ」
「じゃぁ、五千円?」
「んなわけあるか!」
ぱしんっと葵はノノの頭を叩いた。
「い、痛いよ~、葵ちゃ~ん」
「――やれやれ」
葵は溜息を吐きつつも、ノノの腕を掴んでしげしげとリストを観察する。
「にしても、始めて見たわ、フルカラーなんて」
彩り鮮やかな液晶画面の周囲はピンクのフレームに覆われており、左右のボタンを押すたびに画面が入れ替わった。電話機能、テンプレートメール機能、ラジオ機能、自己健康管理機能、そして個人証明。うちラジオ機能とテンプレートメール機能が付いているだけでも高額になるというのに、ノノのそれは加えてフルカラーだ。いち高校生であるノノには不相応としか思えない。
そうとは知らず、ノノは不思議そうに聞き返す。
「あれぇ? でもバスにもついてるよ?」
「あれは色なんてついてない白黒じゃない。 ノノ、そもそも液晶って何か解ってるの?」
「ぜ~んぜん!」
「満面の笑みで言うことじゃないでしょうが。まぁ、ノノはあまり物事気にしないから。でも、取られないように気をつけなね?」
「!? 泥棒さん!?」
「そうそう。個人登録は業者にしか出来ないから他人に使われることはないだろうけど、分解してバラバラにされて、その部品、売り飛ばされちゃうんだからね?」
葵は言って、ノノの頭を撫でた。
「あんた、ただでさえぼうっとしてんだから」
リストに登録されている個人識別情報は契約時に行われ、ユーザーにそれを変更することはできないようになっている。もし変更できたとしても、『偽証罪』で重い懲役を科されるよう法律には記されていた。個人識別票を政府の承諾無く変更することは万一個人の命に関わることもあり、最悪の場合無期懲役となった例も過去に二三件ほどあった。そのためそのリストが本人のものかどうか、公共の施設では必ず個人照合を行うのが義務となっている。
ノノは葵の忠告にうんうん頷き、
「う~ん、わかっちゃ! 気ぃつける!」
笑顔で元気よく返事するのだった。
そこへ、がらがらと教室の扉が開き、担任の須山ミショウが入ってきた。須山は数年前に教員になったばかりの女性教員で、ノノのお気に入りの教師の一人だった。
「あ、ミショーせんせ~い!」
ノノは須山に気づくと、笑顔で両手を広げて須山の方へ駆けていく。
「あらあら、おはよう、桂木さん」
「ねぇ、聞いて聞いて~!」
とノノがたった今、葵にそうしたようにリストを見せびらかす姿を見つめながら、葵は口元に笑みを浮かべつつ、
「やれやれ、ほんっと、子供なんだから」
小さく、呟いた。