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第3話

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 やれやれ、と溜息を吐きながら、葵は薄暗くなった帰路を一人、歩いていた。


 周囲には薄明るい街灯が自分の足元を照らし出していたがどれも頼りなく、向かいから歩いてくる人物の顔はおろか、男女の性別まで判別不能だった。空には星が瞬き始め冷たい風が吹き始める。葵はそんな風に髪とピアスをなびかせながら、遠くに見える住宅地へ足を急がせた。


 あのあと、ミユウは一言も喋ろうとはしなかった。無言のまま分かれて、おろおろするノノと何が何だか解らないというような顔の飛鳥をバスに押し込め、葵はそれを見送った。


 普段のミユウなら、あんなふうに怒ったりなどしなかっただろう。彼女は温厚な性格で、からかってもいじってもそれをうまくかわしてしまう要領の良い娘だ。それなのにも関わらず、あの藤村という警備局の人間が「第二世代か」としかめっ面で言い放った瞬間、ミユウの態度は一変してしまった。第二世代を嫌う第一世代がよほど気に入らないのだろう。自身の存在の根幹を否定されたようなものなのだから、仕方がないことかもしれないと葵は思った。


 実は、葵の父方の祖父母も第二世代を嫌う第一世代で、葵が第二世代であるミユウたちと遊んでいることを快く思っていない。事ある毎に良くないことだと諌められ、そればかりか交合以外の方法で作られた人間は人間などではないと言い張る祖父母を、葵はあまり好きではなかった。


 確かに、普段はとても優しいし、葵のことを大事に思ってくれていることは嫌というほど伝わってくる。しかし、友達のことを悪く言われて平気で居られるほど、葵は祖父母を慕うことが出来るような娘ではなかった。


 葵はもう一度溜息を吐くと、空を仰いだ。


 第一世代も第二世代も、同じ人間だというのに、どうしてそれを認められない人が居るんだろう。葵は第二世代を悪く言う第一世代を見るたび、いつもそう思う。人の考え方は人それぞれだ。だけど、だからと言って差別をしていい理由にはならないはずだ。


 そんなことを考えながら歩き、気づくと葵は自分の家の前を通り過ぎそうになっていた。


「あ、っと」

 葵は慌てて足を止め、玄関前まで引き返す。


 淡い橙色の光を放つ玄関灯下の扉をゆっくりと開いた葵は、いつものように「ただいま」と言って帰宅した。


「あら、今日は早いのね?」


 そう出迎えてくれたのは、いつもにこやかな笑みを湛えた母親――雅だった。


 今年で四十歳を迎える母はしかしどこか幼く、軽くウェーブがかった長い髪を揺らしながら、とことこと葵のもとまで駆け寄ってくる。


 葵は荷物を玄関脇に降ろしつつ、

「うん、なんか、殺人事件があったから、早く帰れって」

 母親と一緒にダイニングへ向かいながらそう説明した。


「あらあら。あの事件のことよね?」

 母親は困ったような顔で、

「怖いわねぇ。パパに頼んで、学校の送り迎えしてもらう?」


「いいよお母さん、そこまでしてくれなくても。大丈夫だって……」


「ううん、そんなことないわ! パパもママも、葵に何かあったら悲しくて死んじゃうかもしれないのよ!?」


「そんな、大げさな。警備局の人も、夜になると起きてる事件だって言ってたし、明るいうちに帰れば大丈夫だってば」


「おかえり、葵」


 葵と雅がダイニングに入るなり、テーブルに着いて新聞を読んでいた父親――海人がにっこりと笑った。雅より十近く年上の海人の顔にはうっすらと皺が浮かんでおり、それなりの貫禄があった。


 海人も雅も共に第一世代の大和人で、父方の祖父母とは違い第二世代について寛容だった。それは祖父母らと違い、生まれたときから周りに第二世代の友人が居り、それが当たり前となっていたからである。


「ただいま、お父さん」


 葵が微笑みながら答えて、雅は海人に心配そうな顔で問いかける。


「ねぇ、パパもそう思わない?」


「何がだい?」


 惚けたように、海人は新聞を畳んでテーブルの上に置いた。


「聞いてなかったの、パパ。葵の送り迎えよ」


「あぁ」

 海人は頷き、葵に顔を向ける。

「お父さんは構わないけど、葵はどうしたいんだい?」


「ううん、いいよお父さん、大丈夫」

 葵は首を振りながら答えた。

「明日からはちゃんと明るいうちに帰るからさ」


「ふぅん、そうかい? 葵がそれでいいなら父さんはいいけど。もし危ないようなら、すぐに父さんに電話するんだぞ?」


「うん、ありがとね、お父さん」


 葵が席に着きながら礼を言うと、雅が思い出したように口を開いた。


「あ、そうそう。あさっての日曜日、秋坂のおばあちゃんのところにいくことになったから、覚えておいてね、葵ちゃん」


 その途端、葵は思わず嫌な顔をする。


「えぇ、なんで!?」


「おばあちゃん、少し調子が悪いみたいなのよ。ちょっと様子を見に行かなくちゃならないから、葵ちゃんも行かなくちゃ。おじいちゃんも会いたがっていたわよ?」


「……はぁい」


 祖父母と会うのが、憂鬱でならなかった。


 秋坂のおばあちゃんとは、大和秋坂地区の病院に入院している父方の祖母のことだ。祖父母はともに戦中の大量破壊兵器使用による放射能によって被曝。死には至らなかったものの、今も軽い後遺症に悩まされ、数年前からは体調を崩してずっと病院で暮らしている。特に祖母の体調がここ数年にわたり思わしくないらしく、そろそろ危ないかもしれないと葵は聞かされていた。


「おばあちゃんはいいんだけど、おじいちゃんがなぁ――」


 愚痴るようにこぼす葵に、海人は「まぁまぁ」と苦笑した。


「おじいちゃんは頑固な人だから、仕方がないよ」


「とてもパパのお父さんとは思えないほどにね」


 雅もくすくすと笑う。


 けれど、葵はそんな二人とは対照的だった。


 祖父に会うたびに「第二世代の奴らと付き合うんじゃない」と言われるそのことが、葵には苦痛でならなかったのである。


 第二世代の大和人が社会に浸透し、そればかりかそんな第二世代の子供である第三世代まで生まれ始めている現代において、いまだにそんな保守的なことを頑固に言い続けている祖父のことを、葵はあまりよく思ってはいなかった。自分の友達、例えばミユウたちのことを悪く言われているのだからそれは仕方のないことで文句の一つ二つ言ってやりたいとは思うのだけれど、しかし孫である自分が祖父を傷つけるようなことを言えるはずもなかった。


 だから葵は、いつも「うん、まぁ、そうだよね」と曖昧な返事しかしてこなかった。たぶん、それは祖父が亡くなるまで続くのだろう。


「はぁ……憂鬱だなぁ」


 両親に聞こえないように、小さく呟いたその時。


 ピピピピピッ ピピピピピッ


 葵のリストから、電話の着信音が鳴り始めたのである。誰からだろうと思い画面表示を見てみれば、そこには『ノノ』という文字が表示されていた。


「あ、ノノだ」

 葵は呟き、

「ちょっと電話してくる」


「あぁ、うん」


 間の抜けた声で海人は返事し、配膳に取り掛かる雅は眉間に皺を寄せる。


「葵ちゃん? もうすぐ夕食よ?」


「大丈夫、すぐ済ませるから」


 そう母親に声をかけてから、葵は自室に向かった。


 電話の内容を聞かれるのが何となく嫌なのは、別にそういう年頃って言うわけじゃない。人の気持ちとしての問題なのだ、たぶん。


 葵の部屋は玄関脇の梯子を上った二階の屋根裏部屋だった。広くもなく、かと言って狭くもない六畳弱の部屋には勉強机の他に衣類ダンスやぬいぐるみの飾られた棚が置かれており、その片隅には薄桃色のベッドがあった。葵はそのベッドに腰掛けながら、飽きもせず何度も繰り返し鳴り響くリストの通話ボタンを押す。それからマイクに向かって口を開いた。


「もしもし? ノノ?」

 と言う間もなく。


『葵ちゃん葵ちゃん葵ちゃん!』

 ノノの元気で明るい、能天気な大きな声がスピーカーから聞こえてくる。


 葵は肩を落として呆れつつ溜息混じりに、

「……なによ? そんなに呼ばなくても、聞こえてるって」


『ねぇねぇ、明日ね、放課後にね、一緒にお買い物しようね!』


「……はぁ? ごめん、ノノ。いきなりで言ってる事がよくわかんないんだけど――」


『だからね、お買い物するの!』


 目的しか口にしないノノに、

「――ちょーっと落ち着いてお話しようかぁ、ノノさん?」


 ちょっとした嫌味な口調で言う葵だったが、けれどノノは相変わらずの能天気な声で、


『うん! 葵ちゃんもね、何が良いか一緒に考えてね!』


 嬉しそうにするだけだった。


 まるで幼稚園児だ、と葵はいつも思う。ノノは言葉が足らず、いったい何のことを話しているのかまるでわからないことがあるからだ。親戚の五歳児と似たような話し方をするノノを葵は当初かわいこぶっているのだろうかと思っていたけれど、二年も付き合っているとこれが素なのであることを理解していた。ノノの精神が普通の女子高生よりもひどく幼いのだろうと思われるが、けれど高校に入れるほどの学力はあることは確かなようだった。もっとも、高校入学の試験もまたマークシート方式なので、ただ正解率だけで入学しただけなのかもしれないのだけれど。


「え? 誕生日プレゼントのお返し?」


『うん、そうだよ! パパにお返しするの!』


 元気な返事に、葵は一瞬呆気に取られる。


 そんな葵に、ノノは続けた。


『パパがね、新しいペンが欲しいって言ってたの、もう書けないからって、昨日パパに何が欲しいってきいたらね、パパさっきようやく答えてくれたんだよ、だからね、明日商店街で新しいペンを買ってあげようと思うだけどね、それをね、一緒にね、選んでほしいの!』


「あぁ、はいはい。解ったから、ちょっと落ち着いてよ、ノノ」


 そうか、と葵は納得する。私が誕生日にプレゼントしたピアスと一緒なのだ。自分が一週間ほど前のノノの誕生日にプレゼントした、紅いピアス。ノノはそれを受け取ったとき、文字通り飛び上がって喜びを表現し、その翌日、ノノは商店街のアクセサリーショップで、誕生日のお返しだと言って、ノノにプレゼントしたピアスと同じ形の、青いピアスを葵に買ってくれた。


 ノノにとって、たぶん、嬉しい気持ちは皆で共有するものなのだ。自分が嬉しかったから、相手にも嬉しい気持ちになって欲しい。だから、してもらったことと同じことをして、相手に喜んでもらおうとする。ギブ&テイク、と言うと何だか違う気がする。これは、なんていえばいいのだろう、よく解らない。


「解った、ノノ。明日の放課後、一緒に選んであげる」


『本当!? やったぁ! 葵ちゃん大スキ!』


 じゃあね、と言って一方的に電話を切るノノに、葵は微笑みながら、


「アタシも、そんなあんたが大好きだよ」


 誰にともなく、呟くのだった。

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