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第7話

   5


 息も切れ切れになりながら、必死で商店街を駆け抜ける。


 バス停どころか帰り道も真逆の方向だったけれど、なるべく人の多いところを選んで、人だかりに紛れて見つからないようにするのが一番だと葵は判断したのだ。


 案の定、追いかけてきた警備局の職員は葵とノノを見失ってしまったらしい。


 適当に入ったビルの三階。飛び込んだジャンクショップの窓からこっそり下の道路を覗き見れば、渋々といった様子で引き返していく職員たちの姿が目に入って、葵はほっと胸を撫で下ろした。


 それと同時に、ずっと強く掴んでいたノノの腕をやっと離す。


「ごめんね、ノノ。急に引っ張っちゃって」


 声をかけたのだけれど、しかし、ノノは葵のすぐ後ろに立ち尽くしたまま、小さく首を横に振るだけだった。


「……ううん、大丈夫」


 そんなノノの姿に、葵は言い知れぬ不安を抱いてしまう。


 ――違う。まるでノノじゃないみたいだ。


 先ほどまであんなに元気だったノノが、あの惨たらしい殺され方をした人間の遺体や赤黒く染まった河原を目にしてからというもの、何かに憑りつかれてしまったかのようにおかしかった。


 いつもの能天気な言葉づかいとも違う、その喋り方。


 葵はそんなノノに、精いっぱいのカラ元気を出しながら。


「――しっかし、びっくりしたよね! まさか、こんな町中であんな事件が起こっただなんて信じられない! わたしたちも気を付けなきゃね、ノノ!」


「……そうだね。気を付けなきゃね……」


 何か、重たいものが葵の胸にのしかかってくる、そんな空気。


 いったいノノに、何が起こってしまったのか。


 やはり、あの死体を目にしたのが良くなかったのだろう。


 あの血に染まった事件現場を見てしまったのが悪かったのだ。


 もしかして、あれを目にしたショックのあまり、ノノの心は壊れてしまったんじゃないだろうか。


 死という恐怖を目の前にして、ガラスのようにノノの精神は砕けてしまったのではないのか。


 もちろん、葵もあの光景を目にしてショックだった。


 心臓は激しく脈打ち、息をするのを忘れてしまうくらいだった。


 けれど、今は違う。


 ノノのこの異様な様子の方が、葵にとっては衝撃的だったのだ。


「そ、そろそろ帰ろうか、ノノ。あ、ひとりで帰るの、危なそうだし、わたし、ノノの家まで送ってってあげるよ! っていうか、今、手持ちのお金ゼロなんだよね。ノノのおじさんに、お金貸してもらわないとね!」


 我ながら動揺して、変な喋り方をしているとは葵も自覚していた。けど、普通に話せない。今までどんなふうにノノと接していたのか、思い出せない。


 そんな葵に、ノノはこくりと小さく頷いて、

「……そうだね。ひとりじゃ、危ないよね。一緒に帰らないと」


 そう言って顔をあげたノノの眼には、うっすらと涙が浮かんでいる。


 その涙は、あの事件現場を目にした恐怖からだろうか?


 葵はそんなノノの眼を、じっと見つめる。


「――ノノ?」


「大丈夫だよ、葵ちゃん。私は、大丈夫」


「……ほんとに? でも、ノノ――」


 その喋り方は、いつもと全然違うんだけど。


 そこまで口にすることができなくて。


 ノノはにっこりと微笑んで、眼に浮かんだ涙を指で拭う。


「ごめんね、ちょっとびっくりしちゃったんだ。だから、本当に大丈夫だよ」


「そ、そう? なら、良いんだけど……」


 全然、良くなかった。


 今目の前にいるノノは、絶対にいつものノノじゃない。


 私の知ってるノノはどこに行ったの?


 あなたは本当に、あのノノなの?


 いつの間にか、知らない人と入れ替わってしまったとか、そういうんじゃないの?


 あなたはいったい――誰なの?


 葵は膨れ上がっていく不安を胸の奥に必死にひっこめながら、

「じゃ、じゃぁ、帰ろうか」


「……うん、行こう、葵ちゃん」


 ノノが、そっと葵の手を握ってくる。


 その感触と温度に、葵の一瞬、ぞっとする。


 ――冷たい。


 ――痛い。


 あまりにも強く手を握られて、葵は一瞬、顔をしかめる。


「の、ノノ、ちょっと、痛い、かも」


「――ご、ごめんなさい!」


 ばっと葵の手を離すノノは、ひどく慌てた様子だった。


「だ、大丈夫? 怪我、しなかった?」


「そ、そんな、大げさだよ」

 葵は無理に笑顔を作りながら、

「たぶん、ノノも怖くてついつい力が入っちゃったんだよ、うん」


 それから改めて、葵はノノの手を握ろうと手を伸ばす。


「う、うん……」


 ノノは恐る恐るといったふうに、葵の手を握り締めた。


 先ほどとは違う、優しい感触。


 けれど、やはりその手は冷たくて。


「――行こう、ノノ」


「……うん」


 ノノは小さく、頷いた。

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