「着きました」
騎士がガラスの入口を開けると、カランとベルが鳴った。大きな嵌殺しの窓には新刊が飾られ、万年筆や便箋も美しく置かれている。
「わあ、素敵……!」
「いいわよ、見てきて」
「はい、すぐ戻ります!」
店に入った途端目を輝かせたアナにそう言うと、頬を上気させ興奮を抑えきれない様子で店の奥へと入って行った。
奥行きのあるこの店は一階が書店、二階に文具を置いている。入口付近には最近の売れ筋や人気の本が置かれていた。
(まあ、これは見たことがない本だわ。この本、続巻も出てるのね!)
流石に新刊となると領地に流通するのはまだ先のこと。好きで読んでいた本の続きもあり、夢中で手に取っていく。
(買いすぎかしら。ああでも、あっちの刺繍の図版も素敵だわ)
腕の中に何冊も抱え店内を歩いていると、ふと、台に置かれた本の中に深い緑色をした本を見つけた。表紙には金色の文字が箔押しされているだけで、これだけでは内容がわからない。
(人気なのね、ここにこんなに並べられているわ)
積み上げられた山から一冊を手に取り表紙をめくってみる。
本は、どうやら恋愛小説のようだった。主人公の女性と騎士が恋に落ちる話。パラパラとめくり、素敵な文章や言い回しにじっくり読み進めてみると、突然目に飛び込んできたのは、二人が情熱的に愛し合う場面。その赤裸々な表現にぎょっとして、慌てて本を閉じた。
「……っ!?」
かあっと顔が熱くなる。
ただの恋愛小説かと思ったが違う。所謂、官能小説というものだろう。
慌てて周囲を見渡すと、護衛騎士は私の手元が見えない離れた位置に立ち、他の客も各々目当ての本を探し手元に集中していてこちらを見る者はいない。
誰にも見られていなかったとわかり、ほっと胸を撫で下ろす。
(こういうものが王都で流行っていると聞いたことがあるけれど……、こんなに赤裸々なの!?)
具体的な描写に心臓が飛び出しそうなほど跳ね、いまだにドキドキとうるさく鳴っている。
男女の睦み合う姿なんて、閨事を学んだ時だって具体的には聞かされていない。閨事の書物だって、かなり読むのに苦労したというのに!
(こんな本を侯爵家のお屋敷に持ち込んでは何を言われるか……!)
慌てて本を戻そうとすると、突然ふわりと懐かしい香りが鼻先を掠めた。
「? え、なん……」
懐かしい、これは……冬の香り。
冬? これは……雪?
『――センセ、こういうの読むの?』
突然囁くように響いた心地のいい声に、ぐらりと視界が歪んだ。
『いいじゃん、恥ずかしがらなくても』
『ねえ、――って本名なの? かーわい』
頭がクラクラする。地面がぐにゃりと柔らかくなり、身体が揺れて立っていられない。ガンガンと頭痛がして、視界がどんどん青黒く閉じていく。
声はどこからしている? 頭の中で響いてるの?
これは、――記憶?
ぐるぐる、グルグル。視界が歪み上も下もわからない。
『――ね、ゆふセンセって呼んでいい?』
――ああ、あなたは
『ねえ、俺さ……』
「――お嬢様!」
遠くで、アナの悲鳴が聞こえた。
*
重たい瞼を開けると、天蓋の見慣れない模様。
カーテンが引かれていて辺りは薄暗くもう夕方、いや、夜だろうか。
「……アナ?」
身体を起こしカーテンの外に声を掛けると、アナがバタバタと駆け寄り天蓋のカーテンを勢いよく開けた。
「お嬢様! よかった!」
青い顔をしたアナに差し出されたコップを受け取り喉を潤すと、じんわりと身体に染み込む。
小さく息を吐きだしコップをアナに返せば「横になってください」とアナに促され、言われるままに身体を横にする。ベッドへ沈み込むように感じるほど身体が重い。
「お医者様は貧血だろうと。長旅でお疲れのようだから、ゆっくりお休みになるように、とのことです」
「貧血なんて……」
普段の私は身体が丈夫なのが取り柄だ。いくら疲れているとはいえ、こんなふうに気を失ったことなどない。
『――センセ』
「――!」
「お嬢様? どこか痛みますか?」
「い、いいえ大丈夫よ」
「何か召し上がれるなら、お食事をお待ちします」
「……いいえ、今は少し眠りたいわ」
「わかりました。晩餐も、体調が良くなってから改めようと侯爵閣下からお言付けをいただいています」
「ありがとう……後でお詫びを伝えないと」
「そのためにも、まずはゆっくり眠ってください」
「そうね……アナも休んで。何かあったら呼ぶから」
「わかりました。お隣りにいますから、すぐに呼んでくださいね」
アナは水差しとコップを枕元のチェストに置くと、天蓋のカーテンを閉め隣の侍女の部屋へと戻っていった。
「……はあ……」
静かになった室内でため息を吐く。
なんとか身体を起こしてベッドから降り、室内にある鏡台の前に腰掛けた。薄暗い室内のほのかな明かりに照らし出された、栗色のゆるくウェーブがかった髪を下ろした女が一人、こちらを見ている。
そっと頰に手を添えると、よく手入れされすべすべとした肌が指先に触れる。
これは私。
ユフィール・マクローリー、二十五歳。
婚約者よりも七つも年上で、彼に会うために王都にやってきた冴えない田舎の子爵令嬢。
『――ゆふセンセ』
ゆふ。白橋ゆふ。
『本名なの? 変わってるね』
変わった名前で、よく人にそう言われた。
「……ああ」
顔を両手で覆うと思わず声が漏れる。意味もなく涙がこみ上げ、ぐっと唇を強く噛み締めた。
――私の前世は、白橋ゆふ。
この世界とは異なる世界で生まれ、育ち、生きていた。妄想でもなんでもない、私の中にある溢れそうな私の人生、たくさんの出会い。
「……教師になりたかった」
教育実習で訪れた母校。そしてそこで出会った一人の男の子。
「あの子の名前は……」
思い出そうとすると頭がキリキリと締め付けられるように痛む。鏡の中の私が眉間に皺を寄せた。
転生……前世?
私はどうやって一生を終えたのだろう。教師になりたかった。では、なれたの?
「覚えてないわ……」
いろんな人の顔や景色が次々と浮かんでは消え、一つひとつが夢のよう。でも夢ではない。たしかに私が生きた、もうひとつの人生。
『ねえこれ、本名なの? かーわい』
そう言って笑う彼の明るい表情だけが、脳裏から離れない。