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第7話

 カタン、と小さな音が聞こえて目を覚ました。

 朝なのだろう、室内はカーテンの隙間から差し込む明かりに照らされて、うっすらと明るい。天蓋のカーテンを手で退けると、いつの間にか室内に運び込まれたワゴンの上で紅茶がいい香りを放っていた。


 身体を起こしたけれど、まだ鉛のように全身が重い。どうにもすぐに動けなくて、ベッドの上で背中にクッションを当て上体だけ起こした。


(夢……)


 ただの夢ではない。

 あれは、私の前世の夢だ。昨日突然思い出した、私の違う世界での前世。

 何の違和感もなくすべて受け入れられるのは、あれが私の別の人生だったから。


『ゆふセンセ』


 彼の明るく人懐っこい笑顔が鮮やかに脳裏に蘇る。

 冷たい風も夜の空気も、あの肉まんの味も。


『たかつき! 高槻レン!』


 知らない街並みに明るく輝く街灯、車の行き交う音、コンビニの看板に家々の窓から漏れる明かり。そしてあの、懐かしい年老いた雑種犬。


(なぜ、今になって思い出したのかしら)


 私はしばらく、朝日の差し込む部屋で動くことができなかった。


 *


「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」


 身支度を整えて侯爵夫妻のもとへ謝罪に訪れた。

 イリス夫人がやや眉間に皺を寄せて私を見つめるのを居心地悪く思いながら、侯爵閣下がテーブルに置かれた紅茶を勧めてくださるのを有難く頂戴する。すっきりとした香りが朝にぴったりだ。


「まだ顔色がよくない。長旅で疲れたところを無理したのだろう」

「申し訳ありません、そんなつもりはなかったのですが……」

「自己管理も侯爵家の人間として大切なことよ。自分の体調くらいちゃんと把握なさい」

「申し訳ありません」


 ぴしゃりと響く夫人の声に、その通りだと益々俯く。


「気を付ければいいだけよ」

「はい」

「貴女は少し……」

「イリス、今は少し休ませてあげよう」


 閣下が何かを言おうとした夫人の肩を優しく撫でると、夫人はそのまま口を噤んだ。細められた瞳が私を観察するように見つめるのを落ち着かない気持ちでじっと耐える。


「食事は摂れたか?」

「はい。料理長にご配慮いただきました」

「ふむ、料理長に言ってしばらくは君の部屋に運ばせよう。自分のペースで気にせずゆっくり休息をとることも必要だ」

「いえ、大丈夫です」

「我々は貴族社会に身を置いているが、ここは家庭でもある。無理をする必要はない。それに今の貴女の優先事項は、アレクに会うことだと思うが」


 それは、そのために体調を整えておけということなのだろう。なんだか想定外に優しい言葉に、俯いていた顔をそっと上げる。閣下は自身も紅茶をひと口飲み、私と目が合うとふっと優しく瞳を細めた。


「……お心遣い痛み入ります」

「そんなに固くならずともいい。貴女は家族になるんだから」


 よく休みなさい、と閣下に言われ、改めて頭を下げると私は応接室を後にした。夫人は最後まで何も言うことなく、ただ私をじっと見つめていた。

 扉の外で待っていたあの護衛騎士が、私の前を先導して部屋へと連れて行ってくれる。


(ここはお屋敷なのだから、護衛は必要ないと思うのだけれど)


 それともまた倒れるのを警戒されているのだろうか。そう思うとなんだか申し訳ない。彼にも家庭があるのだと聞いているから、四六時中、私のそばを離れないというのも無理な話だ。


「あの」


 騎士の背中に声を掛けると、白金の頭がこちらに少しだけ頭を傾けた。


「昨日は、迷惑をかけてしまってごめんなさい」

「……いえ。私こそお疲れだというのに気が付きもせず、ご無理をさせて申し訳ありませんでした」

「そんなことはないわ。屋敷まで運んでくださったのでしょう? ありがとう」

「仕事ですから」


 ぶっきらぼうにそう言う騎士に、ふふっと笑みがこぼれた。


「それでもよ。ありがとう、ハンス」


 騎士の、ハンスの広い背中から、小さな声で「いえ」と声が聞こえた。


 *


「お嬢様、こちら昨日の本屋で買おうと思っていものが届きました」


 部屋へ戻るとアナが嬉しそうに荷物を荷解きしていた。そこには昨日買おうと腕の中に抱えていた本がチェストの上に積み上げられている。私が倒れた混乱の中で、持ち帰ることができなかった品々を店の人が届けてくれたらしい。アナも置いてきてしまった商品を嬉しそうに箱から取り出している。


「よかったわ。また改めて伺いたいわね」


 嬉しくて山から一冊手に取ると、その下からあの深緑の本が現れた。


(……!!)


 声にならない悲鳴を上げて、思わず隠すようにその上に本を重ねる。

 ちらりとアナを見ると、彼女は自分の買ったものを嬉しそうに隣の部屋へ運ぶところだった。


(ど、どうしてこれが……)


 あの官能小説だ。

 この本が置かれている場所で倒れたのだ、おそらく手にしていた本と混ざってしまったのだろう。


(よ、読みたい、かも)


 そう、前世では好んで恋愛小説を読んでいた。だからなのか、確かに今も恋愛小説が好きだ。けれど官能小説は読んだことがない。


(でも、以前は……前世では読んでいたわ。そう、TL小説とかも)


 前世のことはぼんやりとしか思い出せないことばかりだけれど、こうして何かきっかけがあると思い出せるようだ。


(これを見て前世の記憶が蘇ったのね)


 アナがいないことを確認して、深緑の表紙を手に取り、そっと撫でる。箔押しの文字がシンプルで美しい。

 前世では好んでよく読んでいた異世界転生や転移モノ。まさか自分がこうして前世の記憶を持つ転生した人間だなんて、転生するなんて思わなかった。当然だけれど。


(でも、わかったところで生活が変わるわけではないわね)


 ただ少し、前世の記憶が今の私を変えるような気がする。

 それが何なのか、今はまだわからないけれど。

 私は深緑の本を、ベッド脇にある鍵付きのチェストにそっとしまった。


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