控室にノックの音が響き、びくりと身体が揺れた。けれど、アレク様は私を抱き締めたまま腕の力を緩めない。
「お時間です」
扉の向こうから声がかかり、「わかった、今行く」とアレク様が返事をする。
その声が耳元で響き、ドキドキと心臓の音がうるさい。顔が熱くて、きっと真っ赤だと思う。あ、いいのかもしれない、顔色が悪いと言われていたから。
「ユフィール、残念ですが参りましょうか」
(残念って!)
恥ずかしくて顔を上げられず小さな声で「はい」と答えると、アレク様が私の顔をそっと撫でた。
「少し水でも飲みましょう。その顔を外で見せてほしくないから」
(え、そんなにひどいかしら!?)
恥ずかしくて両手で頬を押さえると、アレク様が蕩けるような瞳で私を見つめ微笑んだ。
「そんなに赤くては、他の男があなたに注目してしまうから」
(ひいっ)
声に出さなくてよかった。そこは淑女教育の賜物だろう。
でもさっきから、感覚がどんどん白橋ゆふになっている。それもこれも、アレク様が本当に物語の主人公のような、とても素敵で美しい方だから。
(どうしよう、記憶の中の少年と全然違うんだもの!)
もちろんあの頃のアレク様とは違うだろうと予想はしていた。けれど、違いすぎるのだ。
紳士的な振る舞いも、声も姿も、私の知るアレク様ではない。世のご令嬢方に人気の、まるで舞台俳優のような美丈夫だ。
(それに、私をとても大切に……まるで恋人のように扱ってくれる)
水差しから水を注いだコップをアレク様から受け取り一口飲むと、ジワリと水が身体に沁み込み、ほおっと息を吐く。
(でも、当然なのかもしれないわ。婚約者同士なのだし、これから私たちはきちんと向き合って二人で生きていかねばならないのだもの)
差し出された手にコップを返し、よし、と気合を入れるようにぐっと握りこぶしを胸の前で作った。
「大丈夫です、行きましょう!」
そう言うと、アレク様は少しだけ目を丸くして、あはは! と声を出して笑った。
「なんだか戦闘に行くような気合の入れ方ですね」
「そ、そうでしょうか。……侍女にもそんなことを言われたことがあります」
そういえば前にもそんなことを言われたわ。恥ずかしくなり顔を俯けると、アレク様の手がさっと私の手を取り自分の腕に絡めた。顔を上げると、アレク様はふわりと微笑みそっと私に顔を寄せて囁く。
「――貴女と共に行けるのなら、どんな戦いの場でも共に参ります、ユフィール」
(う、うわわ……!)
美しいご尊顔が眩しい。だめ、もう完全に恋愛小説のヒーローにしか見えない。
でもだめよ、しっかりして。私はモブ、モブ令嬢……
「ユフィール?」
「な、何でもありません、行きましょう!」
「はい」
嬉しそうに微笑むアレク様の眩しさから視線を逸らし、私たちは会場へと向かった。
*
会場へ向かうと案内係に誘導され、列の一番最後に並んだ。
前にはアレク様と同じように騎士の隊服を着て家族や婚約者と思しきお相手と腕を組み並ぶ今夜の主役たちが列をなし、チラチラとこちらを振り返る。
(やっぱり、アレク様はとても目立っているわね)
多くの卒業生たちが着ているのは黒や紺色の王都騎士団の隊服だ。それぞれが配属される隊の正装姿で、その顔にはまだ幼さが残る。
(近衛騎士隊に配属されるのはとても少ないのね)
白い近衛の正装姿はどうやら少数らしく、中でもアレク様は今夜の主役と言っていいほど高位貴族であり卒業生代表。人々の注目を集めて当たり前だ。
(その上、初めて人前に婚約者と現れるんだもの……)
その事実に直面し、なんだか胃が痛くなってくる。
「……ユフィール」
そっとアレク様が屈んで私の耳元に顔を寄せた。その距離の近さに別な意味で胸がドキドキしてしまう。
「は、はい」
「今夜はどうしても注目を浴びてしまうと思います。本意ではないでしょうが、どうか今夜だけと思いお付き合いください」
「そんな」
そんなふうに気を使わせてしまうなんて。申し訳ないし、とても情けなくて恥ずかしくなってしまう。私は彼の婚約者、しかも年上なのだ。こんなことで気を遣わせてしまってはいけないわ。
「ごめんなさい、慣れていないものだから緊張してしまって……。でも大丈夫です、どんな場所であってもアレク様と一緒なら平気ですから」
「……ユフィール」
「え?」
「いや、あの」
何やらゴニョゴニョと口籠るアレク様を見上げると、口元を手で覆い視線を私から逸らした。目許が赤い。
(私、今何か変なこと言った?)
今の自分の言葉を反芻してみると。
思い至り、顔が熱くなった。
(……な、なんだか意味深だったかしら)
先程言われた言葉へのお返しのつもりだったのだけれど、なんだか恥ずかしくなってきて私も前を向く。
「ありがとうございます、ユフィール」
「い、いえ……」
アレク様の小さな声に、同じように小さな声で答えると突然明るい声が響いた。
「ははっ、なに二人で赤くなってんだよ!」
顔を上げると、赤い髪に新緑の瞳をした男性がニコニコと笑顔で目の前に立っていた。
他には見ない、赤い隊服を身に纏っている。これは、辺境の守備を担う騎士団の正装だ。
「ライアン」
「なんか可愛らしいなあと思ってさ、黙ってられなくて」
アレク様の声が心做しか低い。
ライアンと呼ばれたその人はそんな彼を気にすることなく、胸に手を当てると私に向かって騎士の礼を取った。
「はじめましてレディ・マクローリー、アレクの友人、ライアン・ギルモアです。お見知りおきを」
「はじめまして、ギルモア卿。お会いできて光栄ですわ。ユフィール・マクローリーです」
「アレクからお話は聞いていました。お会いできて光栄です」
「私も、アレク様のご友人にお会いできて光栄ですわ」
「ライアン、もういいだろう」
アレク様が遮るように言うと、ライアン様は両手を上げて肩を竦めた。
「だから、心狭過ぎ」
「そんなことはない」
「話に聞いていた婚約者殿にやっと会えたんだ、挨拶くらいいいだろう」
「ならもう用は済んだはずだ」
「まだ入場できないんだし、いいだろ別に!」
ライアン様が「ひでえ!」と声を上げても、アレク様はつんと横を向くだけ。なんだかその様子がサーシャ様と同じで、ついクスクスと笑ってしまった。
そんな私を見て、ライアン様が笑顔で私に話を振ってくる。
「どう思います? 親友だっていうのに酷い扱いだと思いませんか?」
「いつ親友になったんだ」
「仲がよろしいんですね」
「ええ、とっても!」
「いいえ、全く」
二人同時に正反対の返事をして、またクスクスと笑ってしまう。アレク様がむうっと小さく口をとがらせ、それがまた可愛らしい。
「おっと、これ以上レディを独占してはアレクが本当に暴れそうだ。ではまた、後ほどお会いしましょう」
「ええ。ありがとう、ギルモア卿」
「ぜひライアンと」
「ふふ、ありがとう、ライアン様」
ライアン様は腰を曲げると私の手を取り口付けを落とすふりをして、さっとその場から立ち去った。スマートな動作に、軽い口ぶりとは異なり出自の上品さを感じる。高位貴族なのだろう。
「楽しい方ですわね」
「……ええ」
なんだか不機嫌そうな声音に顔を見上げると、まだ少しだけ口を引き結んだまま前を向いている。
(やはりサーシャ様とご兄妹なのね)
先程までの完璧なヒーローの姿とは違い、なんだか可愛らしい姿が見られて嬉しくなり、ふふ、と笑うとアレク様が私を見下ろした。
「……あなたの笑顔をライアンが引き出したのかと思うと、悔しいんです」
「まあ」
不本意だとでも言いたげな、そういう彼の言葉や姿がくすぐったくて……なんだか嬉しい。心がふわふわしてくる。
「私はアレク様の自然な姿を引き出したのがライアン様なのが悔しいですわ」
「!」
(あ、また意味深だったかしら……)
見上げる彼の顔がふわりと綻んだ。
この笑顔は私が、私だけが引き出せるのだろうか。そう思うとまた、ふわふわ、ゆるゆると心の強張りが解けていく気がする。
「あなたは本当に、いつだって僕を本当の僕にしてくれますよ、ユフィール」
アレク様の腕にかけていた私の手が、そっと上から包みこまれ、白い手袋越しにアレク様の熱が私に伝わってくる。
私たちはこれから、たくさん話しをして互いを知り合う。それでいいのだ。例えゆっくりでも交流を深めて、心通い合う夫婦になれたら。
アレク様の姿を見て、不安に思っていたこの先が幸せな未来になるような、そんな気がした。