ドオン! と大きく太鼓の音が響き、目の前の扉が開かれた。遠くに聞こえていた音楽が大きな音になり私たちを呑み込む。
「フューリッヒ侯爵家嫡男アレク・フォン・フューリッヒ卿、ご婚約者ユフィール・マクローリー子爵令嬢」
名を呼ばれ、アレク様と共に一歩前に出ると目に飛び込む眩い光、多くの人々の顔、顔、顔。視線がすべてこちらを向いている。
(結婚式の入場みたいだわ……)
なんだか自分の場違いさに眩暈がする。
今までの人生で、これほど人々に注目されたことなどない。今更だけれど自分の履いている踵の高い靴が不安になるし、ドレスの裾を踏んでしまわないか心配になる。
「ユフィール、大丈夫です」
アレク様がそっと私の手に掌を重ねた。無意識に力が入っていたのか、ぎゅうっと強く彼の隊服を握り締めるように掴んでいた。
「あ、ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫です。緊張するでしょうから、あまり周囲を見ないようにするといいですよ」
「アレク様も緊張するのですか?」
「僕も社交はまだ不慣れで」
言われてみればそうだ。十八歳を迎えたばかりの彼が成人男性として社交界にデビューしたのは今年の話なのだ。
貴族の子息たちには、令嬢たちと違いデビュタントがない。誕生日を迎え十八歳になると、その家のタイミングで晩餐会や夜会に出席し社交界にデビューする。騎士学園に通う彼らの多くが普段は鍛錬や学業に努め、実際に本格的な社交の場に出るのはこの卒業を祝う祝賀会が初めての場合が多い。
(あのご令嬢がダンスを踊ったと言っていたわ)
ガゼボで会った金髪の令嬢はアレク様とダンスを踊ったと言っていた。おそらく高位貴族の彼は、招待を受けた晩餐会や舞踏会にはすでに参加したことがあるのだろう。
(この堂々とした姿はそれだけじゃなく……持って生まれた資質、なのかしら)
私の方が先にデビュタントを終えているし、少ないとはいえ晩餐会や舞踏会に参加しているというのに、彼に気を遣われるなんて情けない。本来なら私が彼に助言をしなければいけないのではないだろうか。……いや、その必要はなさそう。
アレク様は常に学園でも頂点にいた人だ、人々の耳目を集めることに慣れているだろう。
侯爵家の嫡男なのだし、私よりも遥かに肝が据わっている。ここは素直に私が彼の言葉に耳を傾けるほうが良い気がした。だってやっぱり、不慣れなのだ。
「……周囲を見ないって、どこを見たらいいのでしょう」
足元を見下ろしながら小さな声で尋ねると、ふふ、とアレク様が優しく笑った。
「僕は焦点を合わせません」
「まあ、それでは転んでしまうわ」
「大丈夫。僕が抱き上げて階段を降りますから」
「アレク様ったら!」
「ははっ」
アレク様は私のペースに合わせゆっくりと進んでくれた。しっかりと安定した体躯が私を支える安心感と程よい会話に、緊張が解けていく。
こそこそと二人で話していると、いつの間にか階段を降りホールに立っていた。転げ落ちなくてよかった。
第一段階を突破したような気持ちで小さく息を吐き出すと、彼は背中をかがめそっと耳元で囁いた。
「残念、抱き上げる機会を失ってしまいました」
「アレク様!」
いたずらっ子のように口元に笑みを浮かべるアレク様を少しだけ窘めるように見上げると、また嬉しそうに笑う。周囲でさわさわと人々の囁く声がしたけれど、それほど気にならなかった。
ホールで侯爵夫妻と合流し、共にグラスを給仕から受け取る。
談笑していると会場にファンファーレが鳴り響き、いよいよ彼らの卒業と成人を祝う祝賀会が始まった。壇上には学園長を務める王弟殿下、そして次々と高貴な身分の方たちが上がり祝辞を述べていく。
昼間とは違い開放感のある雰囲気、冗談を交えながら機嫌よく話す人々、笑い合う彼ら。場の雰囲気はとても和やかで、皆が同じこの日を祝い喜んでいる。
(みんな、とても幸せそうだわ)
そして壇上の挨拶が終わると全員がグラスを掲げ、彼らの門出を祝った。
「おめでとうございます、アレク様」
「ありがとうございます、ユフィール」
歓声や拍手が巻き起こる中、私たちは視線を交わし、私はアレク様に心からのお祝いを伝えた。
*
乾杯が済むと、その場にゆったりとした音楽が流れ始める。私たちも二人でアレク様のお世話になった教師や同期の方に挨拶をして回った。にこやかに挨拶をし私を紹介してくれるアレク様を、やや離れた場所から頬を染めて見つめるご令嬢方の姿の多さに驚いた。彼女たちの隣にもお相手がいるというのに。
「アレク様と踊りたいご令嬢が大勢いますね」
挨拶が一通り済み、乾いたのどを潤している時に、思わずそんな感想が口をついて出た。
「そんなの」
アレク様は彼女たちの視線などには目もくれず、私を見下ろしふっとその笑顔を曇らせた。
「……僕はあなたと一番に踊りたかった」
あのご令嬢と踊ったことを言っているのだろうか。
「私は今まで離れた場所にいましたから。そうもいきませんわ」
「それでも、です」
その、とんでもなく眉間に皺を寄せて思い出すのも嫌だと言わんばかりの顔に、クスクスと笑いが込み上げてきてしまう。そんな私を見て、アレク様はむうっと唇を尖らせた。
「笑わないでください」
「だって」
(かわいいんですもの)
そっとアレク様の腕を労わるように撫でる。
「たとえ本意ではなくとも、貴族として、紳士として振る舞われたのでしょう? それは大切なことです」
「……本意ではないとわかってくださいますか?」
「……あ」
これではまるで、彼の本意は別に……私にあると、言っているようなものだ。自分で言っておきながらその言葉の意味に恥ずかしくなる。自意識過剰ではないだろうか。
「僕の願いを叶えてくださいますか、ユフィール」
アレク様はそう言うと美しい所作で私の前に跪き、蕩けるような笑顔で私を見上げた。白い近衛のマントがふわりと床に広がり、腰にある宝剣がカチリと音を立てた。
「あ、アレク様!?」
周囲からヒュウッと冷やかすような口笛が上がる。慌てて立ち上がらせようとすると、アレク様は一切気にすることなく私の手を取った。
「ユフィール・マクローリー嬢、美しいあなたと踊る栄誉を、私、アレク・フォン・フューリッヒにお与えいただけますか?」
顔が熱い。
胸の奥がくすぐったいこの気持ちは、恥ずかしいせいだけではない。私に向ける彼の熱を持った視線が、恥ずかしく嬉しいのだ。
いいのだろうか、本当に。
「……ええ、喜んで」
アレク様は立ち上がり私の手を取ってホールの中央へと進み出た。他の卒業生たちも同じようにホールに立ち、そして音楽が始まる。
向かい合い手を取り合って見上げるアレク様の顔は、とても優しくて美しくて、そして幸せそうな顔をしていた。