「うわ、さっむ!」
「積もってきたねえ」
暗くなった帰り道、高槻レンが自転車を押しながらぶるりと身体を震わせた。積もった雪が街灯の明かりを跳ね返し、道は昨日から一変し明るく輝いている。
「マジ失敗した、手がめっちゃ冷たい」
「なに、自転車なのに手袋ないの?」
「探し出せなかったんだよー」
「何それ! ほら、貸してあげるからつけなさい」
「え、いいの? センセは?」
「私はいいよ、ダウンの袖の中に収納する」
「収納て」
あはは、と笑うと彼は「ありがとう」と素直に手袋をはめた。やっぱり寒かったのだろう。
「本当に、明日から自転車やめなさいね」
「でもさ、これ乗れないと朝マジで時間ないんだよ」
「早く起きなさいよ」
「いや、俺が受験生って忘れてない? 受験生の夜は長いのよ、寝れないの」
「だったら小説書く時間を睡眠に回しなさい」
「やだよ! 超乗ってきてんだから!」
「なんなのもう」
ダウンのフードに少しずつ雪が降り積もるのを、彼は時々まるで大型犬のように頭を振って払い落とす。
寒いとはいえまだ十一月の雪は少し大きくて水分が多い。ダウンを濡らし、道を濡らしてそれでも少しずつ積もっていく。
「ねえあの商店さ、俺たちが毎日肉まん買ってくのわかってて、ちゃんと蒸してくれてるよね」
「まあ、これだけ毎日通えばね」
「てことで今日も行こうよ」
「一刻も早く帰りたいとは思わないの?」
「一刻も早く肉まんが食べたい」
商店につくと自転車を止め店内に入る。
今日は、いつもはそこにいるコタローの姿が見えない。彼も気が付いたようで、店内をうろうろと歩き探している。
店先に立つ人も、いつもの店主ではなくバイトだろうか、不愛想な女の子だ。レジ横にある、いつも肉まんが温まっているはずのスチーマーも空。
「あれ、肉まんがない」
店内を歩きレジへ戻ってきた彼は、スチーマーを見て残念そうに声を上げた。
「あ、すみませぇん、今日はもう売り切れたんですよー」
それまで無表情だった女の子が彼の顔を見て頬を染めた。それはそう、一軍の顔だ。
「えー残念」
「仕方ない、ホットドリンク買おう。コーヒーでいい?」
「あ、俺ココアがいい」
缶コーヒーとココアをカウンターに置きお会計をしている間に、彼が店員の女の子にコタローのことを訪ねた。
すると彼女はけろりとした顔で答えた。
「ああ、あの犬、今朝死んじゃったんですよ」
まっすぐ切りそろえた黒髪を揺らし、焦点が合っていないような真っ黒な瞳で彼女は彼を見た。
「――え?」
「なんか、老衰? だかで、朝店に来たら死んでたって店長がぁ」
「ウソ、え? まじで?」
「あっ、店内で死んでたとか嫌ですよねぇ! すみません、余計なこと言っちゃった」
「いや……」
「私も嫌で! なんか気持ち悪いじゃないですかぁ」
私たちはけらけらと笑う彼女の顔を唖然と見つめ、それ以上何も言えず店を出た。背後から「ありがとうございましたぁ!」と元気に声をかけられる。
いつの間にか雪は止んでいて、街頭の明かりを跳ね返した雪が夜道を明るく照らしている。しばらく二人で並んだまま店の前に立ち尽くし、私は彼の前に黙ってココアを差し出した。
「行こう」
「……うん」
ココアを受け取った彼の手は、少し、震えていた。
*
意識が先に戻った。
目を開けたいのに重くていうことを聞かない。
身体を動かすと、そばに人の気配を感じた。
「――ユフィール」
焦ったような、けれど優しい囁き声。
何とか目を開けると、すぐそばでアレク様が私を見下ろしていた。薄暗い室内で、緑の瞳が心配そうに翳っている。
「……アレク様」
「よかった、気分はどうですか」
アレク様の手が私の前髪を撫でる。その手は少し震えている。
「大丈夫、です……、あの、私……」
「ホールで倒れたんです。僕の責任です。具合が悪いのに無理をさせてしまって……」
「そんなことありません。楽しかったのに、ごめんなさい、ご迷惑を……」
「いいえ。……目を覚ましてよかった」
あまり覚えていない。
アレク様を見ると、隊服は脱ぎシャツ姿だ。もう夜も遅い時間なのだろうか。
「……ご友人とお別れする最後の日だったのに、申し訳ありません」
「彼らにはまた会えます。気にしないでください」
「でも」
大事な日だったのに。私のせいで台無しにしてしまった。
「ユフィール」
アレク様はそっと私の頬に掌を当てた。その温かさに小さく息を吐く。アレク様のもう片方の手が、私の手を握っていることに気が付いた。
ずっとついていてくれたのだろうか。そっと握り返すと、アレク様の手に力が入る。
「今はゆっくり休んでください。侍女を呼びますか? 彼女もずっと心配しています」
「大丈夫です。アレク様、あの……」
「ユフィール」
アレク様は私の言葉を遮るように私の名を呼んだ。
「大丈夫です、今夜はもう眠ってください。どうか……いい夢を見て」
「夢……」
アレク様の大きな手が頬を撫で優しく髪を撫で。私はまたうとうとと瞼が重くなり、やがて眠りに落ちていった。
夢で、彼に。
高槻レンに会いたかった。