『前世で果たせなかった約束を今世で果たしましょう 親愛なる、ゆふ先生へ』
白い何の特徴もないカードに書かれた文字を指でなぞる。
そんなことをして何かがわかるわけでもないのだが、何か少しでも手掛かりが欲しいと思った。
彼女がホールでソファから崩れ落ちるように倒れ、急ぎ屋敷へ戻る馬車の中で落としてしまった銀色のクラッチバッグ。中身が床に散らばり、共に乗り込んだ侍女が慌てて中身を拾う中にあった白い封筒になんだか嫌な予感がして、彼女の身体を支えながらその封筒を確認し、僕は全身の血の気が引いた。
――彼女を知っている者がいる
彼女のクラッチバッグに入っていたそのカードは、僕の心を揺さぶるのに十分な威力を持っていた。心臓を鈍器で殴られたような衝撃。
だが、今にも崩れ落ちそうな精神をぐっと支えたのは、もう一通の手紙だった。
女性へ送るにはやや幼いデザインの四葉の柄。その封筒に収められた、拙いながらも一生懸命丁寧に、何度も清書しなおして書き上げた初めての手紙。
僕が初めて彼女へ送ったその手紙を、小さな文庫本にしおりのように挟み持っていてくれた。そのことが、地の底に落ちそうだった僕を救った。
屋敷に戻りすぐに医師の診察を受け、貧血と、何か精神的な衝撃を受けたのだろうという診断で、しばらくは屋敷でゆっくり過ごさせることにした。
気を失ったまま目を覚まさない彼女が気がかりで、それからずっとベッドの傍らで彼女の手を握っている。
やっと触れることのできた、手袋越しではない彼女の手は冷え切り、まるで氷のように冷たい。
『――アレク様』
やっと聞けた声、触れた肌。
会いたくて堪らなかったユフィールと話をしなければと、そう思っていたというのに。
(邪魔が入った)
恐らく彼女の心を揺さぶったのは、この手紙だろう。
彼女に思い出させるきっかけを与えたのだ。
(思い出す必要なんてない)
せっかく穏やかに、楽しい思い出だけで過ごしてほしいと尽くしてきたというのに。
血の気の引いた顔で眠り続ける彼女を見下ろし、僕はその手紙の文字をいつまでも睨み続けた。
*
――初めてユフィールを見たのは、僕が九歳の頃。
当時、学園に通わず家庭教師に勉強を教わっていた僕は、王都の本屋で歴史が書かれた本を探していた。
その本屋は本だけではなく文具も取り揃えており、僕は毎週そこへ通うのを楽しみにしていた。屋敷に商人が来るのもいいが、与えられるものだけを見るのではなく、こうして自分の目で見て探すことが好きだったのだ。
(歴史の本に、これもいいな)
気になる本を手に取り、パラパラとめくっているとカラン、と入口のベルが鳴った。
秋の柔らかな日差しを受けて、つばの広い帽子をかぶった女性が両親らしき人と店を訪れた。
帽子からこぼれる栗色の緩くウェーブがかった髪が、秋の日差しをきらきらと跳ね返し、きれいだな、と思った。
彼女はきょろきょろと店内を見渡し、頬を上気させ両親に何事か話すと一人で店内を見て歩いた。
この頃、デビュタントに参加するために多くの貴族が王都を訪れており、そのうちの一人なのだろうと、ぼんやりと彼女を見て思った。
ただそれだけだったのに、なぜか僕は彼女から目を離せなかった。なぜだろう。それについては今でも説明できない。
特別目立つ容姿でもなければ、珍しい服装や何かを身に着けていたわけではない。
ただ、どうしても気になったのだ。彼女の顔を見たい、話したいと、僕の心が強く求めていた。
僕は本を腕に抱えたまま、そっと彼女の近くへ移動した。
僕よりも背の高い彼女をちらりと見上げ、けれどその帽子で顔はよく見えない。
(知り合いだろうか。……いや、違う。でも僕はこの人を知ってる……どうして?)
近くにいるだけでドキドキと胸が高鳴った。そんなことは初めてだった。
彼女はそんな僕に気がつくことなく、楽しそうに本を手に取ってはパラパラと中を見て何を買おうか選んでいる。
小説や伝記、画集や料理、園芸までとにかくすべてを楽しそうに眺め気に入ったものを手に歩き回っていた。
その時、あまりに近づきすぎたせいで踵を返した彼女と身体がぶつかった。
「あっ!」
バサバサッと本が床に落ちる。
(あ、しまっ……)
「ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
彼女はすぐにしゃがみ込むと僕の本を拾い上げた。慌てて僕もしゃがみ、本を拾う。
「いえ、僕のほうこそぼんやりしていて、申し訳ありません」
「私こそ、気が付かず申し訳ありません……、あっ」
彼女は一冊の本を拾い上げるとピタリと動きを止めた。それは、僕が最初に手にした鷹の絵が描かれた画集だ。
「素敵……! これ、どちらの棚に置いてありますか?」
彼女はその画集を持ち、パッと顔を上げ僕を見た。
至近距離で見る琥珀色の瞳がとろりと溶けて、頬は赤く染まっている。
『――だと思う……』
――あれは、初雪が降った日だ
『――今の君がとても素敵だと思う』
そんなセリフをよく恥ずかしげもなく言えるなって、からかおうと思ったんだけど。
『――そんな目にあっても卑屈にならず、優しく在れるなんて素晴らしいよ』
その言葉に、
――センセの、なんでもないことのように言うその言葉に、今の自分が救われたかったんだって、気がついたんだ。
――ゆふ、センセ
「アレク様!」
護衛の声にハッと意識が引き戻された。
目の前の彼女はその声に驚いて身を引いた。護衛は彼女から僕を引き離そうと彼女の腕を掴む。
「やめろ!」
思わずそう叫んだ。
護衛が怪訝そうな顔で僕を見る。
心臓がものすごく早く打っている。手のひらに汗が滲み、思わずゴシゴシと上着で拭った。
「……落とした本を拾ってくれたんだ、手荒なことはしないで。……あの、ありがとうございます」
「い、いいえ! こちらこそ失礼しました」
彼女は先程までの輝くような笑顔を引っ込めて、圧の強い護衛騎士の前で萎縮したように俯いた。
(――違う、違うんだ)
まだ話したい、けれどうまく言葉が出てこない。心臓の音が耳元で大きく響き、視界もなんだかグラグラと揺れる。こっちを見て、もう一度、またさっきの笑顔を見せて。そう思っても、どうしたらいいのかわからない。
「……この本は、奥の風景画の棚に置いてありました」
掠れた声でそう伝えると、彼女はそっと顔を上げて僕を見た。その瞳の奥に懐かしいものを感じて、鼻の奥がツンとした。
「ご親切に、ありがとうございます。見てみますわ」
そう言って花が綻ぶようにふわりと笑った彼女。
互いに立ち上がり、では、と礼を取ると彼女も嬉しそうに膝を曲げてカーテシーを取った。年下の、僕なんかに。
そうして立ち去る彼女のその後ろ姿を見て、溢れるように蘇る過去の記憶。
いや、過去ではない、これは前世だ。別の世界、別の人生。あの世界を生きた、僕の記憶。
――高槻レン。
僕は、あの世界を生きた高槻レンだ。
(――そして彼女は)
――ゆふセンセ
僕の心残り、僕の支え、ぼくの、すきなひと。
「……ゆふセンセ……」
秋の日差しが差し込む店内で、僕はしばらく動けないまま、呆然とその場に立ち尽くした。