「白橋先生、ちょっと」
冷え込んだ朝、昨日の夜に降り積もった雪が残り、辺りは白く輝いていた。
学校へ到着して職員室へ向かうとすぐに名前を呼ばれる。
「おはようございます」
「会議室に来て」
三年生の学年主任はいつもしかめっ面をしていて不機嫌だ。圧が強くてちょっと苦手。
呼ばれた理由がわからず黙ってついていくと、田中先生も一緒にやってきた。
「おはようございます」
「おはよう、寒いね」
田中先生との挨拶で少しだけ緊張が解れる。
会議室へ入ると、そこには教頭と私を担当する一年生の担任、そして三年の担任が既に座っていた。学年主任がその横にどっかりと腰を下ろすと、向かいの席に座るように促される。田中先生は少し離れた場所に腰を下ろした。
なんだろう、こんな朝から面談なんてある?
不思議に思いながら腰を下ろすと、すぐに学年主任が大きなため息をついた。
「白橋先生、あなた高槻レンと付き合ってるの?」
「……は?」
質問の意味がわからなくて、思わず大きな声で生意気な言い方をしてしまった。慌てて背筋を伸ばし学年主任に返事をする。
「え、え? なんですか?」
「だから! あなたが三年の高槻レンと付き合ってるのかって聞いてるの」
「……っ、まさか!」
私が? 高槻レンと付き合ってるって、なんで?
「高槻君とは学校で話はしますが、そんな付き合うとか……」
「付き合ってって高槻君があなたに言っているのを聞いた生徒がいるのよ」
「ええ?」
一体何の話だろう。もしかして、あの約束のこと?
「そんなわけありません、生徒と個人的な付き合いをするなんて……」
「でもあなたたち、毎日二人でいるでしょう」
「それは」
「この大事な時期に三年生にちょっかい出すとか、何考えてるの!?」
そんなこと。
ちょっかいなんて出してない。弱味を握られている自覚はあるけど。
「私は受験勉強の相談に乗ったりそういう話をしているだけで……」
「毎日高槻君に家まで送らせてるって聞いたわよ」
「そんなことしてません」
「暗くなってから彼といつも一緒に帰ってるのは間違いないでしょう」
「家の方向が一緒なだけで」
「白橋先生、高槻君の家は反対方向なんですよ」
「え?」
黙って聞いていた教頭がそこで口を開いた。分厚いレンズのメガネを指で押し上げ、テーブルに組んだ手を乗せる。
「高槻君の家の方向とは逆なのに、毎日あなたを送っていた、これは間違いないですか」
「そ、れは」
――逆? 毎日私とバス停まで歩いていたのは、本当に暗くて危ないのを心配していたから?
「あなたねえ、教師を目指してるならちゃんと公私の切り替えくらいしなさいよ!」
「してます」
ぎゅっと膝の上で手を握りしめる。悔しくて、でも情けなくて顔を上げられない。
「ちょっと顔がいいからって女見せてるようじゃ、教師なんて向いてないから!」
「そんなことしてません」
「先生」
興奮し怒りを見せる学年主任を教頭が手で制した。
「白橋先生にそういうつもりがなくても、生徒たちにはそんなふうに映ってたんですよ」
「そんなふう……」
「白橋先生と高槻君が付き合ってると」
「付き合ってなんかいません」
頑なな私の返事に、学年主任がバンッ! と机を叩いた。思わずビクリと身体を揺らし、グッと唇を噛み締める。
「だったらスマホ出して」
学年主任が机の向こうから手を差し出してきた。
「どうせSNSとか交換して連絡取ってるんでしょ」
「してません」
「だったらスマホ見せてみなさいよ!」
「先生、それはさすがに行き過ぎですよ」
一体何だと言うんだろう。
興奮した学年主任は全く取り繕うことなく私を怒鳴りつける。周りの先生方はそれを諌めるけれど、それだけだ。私を責めることをやめさせはしない。
なぜか、嫌な予感に身体が震えた。
「個人的な付き合いがないだろうことは信じるとして、白橋先生が特定の生徒と親しくなっていたのは間違いないと思いますが、どうですか?」
「……そんなつもりは」
「でも実際、高槻君に途中まで送らせていたでしょう」
「方向が、同じだと聞いて……」
「同じだからって生徒と二人で毎日一緒に帰ってたら噂になるのも当然でしょう! そんなこともわからないの?」
学年主任はイライラと机を指で叩く。その隣に座る三年の担任は腕を組んだまま目を瞑り、何も言わない。彼の担任だろうか。そんな事もわからないくらい、私は彼を何も知らない。
「……申し訳ありません」
「若い子に言い寄られていい気になったのか知らないけどさ、あなた教員向いてないんじゃない!?」
「まあまあ先生、そこまでで」
教頭が諫めると、身を乗り出していた学年主任が椅子の背もたれに背をどっかりと預けた。
「ま、所詮若い女の子だからねえ、男の子に懐かれて嬉しかったんでしょうけど」
私を担当する一年の担任がボリボリと頭を掻きながらヘラヘラと笑った。
その態度に悔しくて、じわりと視界が滲んだ。でも絶対に泣かない。泣いたらまた、若いから、女の子だからと言うんだ、この人たちは。
「うちの男子生徒が若い女性につきまとってたと、そういうことですかね」
「まあ、大人の女性に興味のある年頃ですよ」
「はは、まったく。そんなことしなくても彼はモテそうなのになぁ」
なんの説明もないまま世間話のように話す教員の会話を聞いて、胃のあたりがムカムカした。顔が、身体が熱くなる。彼のことを知っているのではなかったのか。
彼が誠実に過ごしていたことを、知っていたのではなかったのか。
「た、高槻君は、そういう子ではありません」
「でも白橋先生からちょっかい出してないんでしょう?」
「そんなことっ」
「じゃあ、彼が若くて可愛い実習生に付きまとってたって、そう説明できますねぇ」
――なんの話? この人たちは一体、何を言ってるの?
私だけじゃなく彼に非があるような言い方に、怒りと疑問が湧いてくる。
説明って、何を、誰に?
「高槻君がこんなことになったのも、白橋先生の軽率な行動のせいだとご家族に言われても仕方なかったけどね、まあそういうことなら大丈夫でしょう」
「……え?」
――
顔を上げ教頭を見る。
やれやれ、と言わんばかりに大きくため息を吐き出しそれ以上何も言わない。他の教員も黙ったまま私のことを見ようとはしない。
「……あの、な、にが」
掠れた声で問いかけると、学年主任が私を睨みつけ大声を出した。
「アンタねえ!」
「白橋さん」
その声を遮り、田中先生の静かな労るような声が私を呼ぶ。その優しい声に、小さく身体が震えた。
よくないことがあったのだと、聞かずとも知り、知ることを恐れた。
「……高槻君は昨日の夜交通事故に遭い、現在意識不明です」
耳鳴りがした。
キーンと耳元で鳴り続ける耳鳴り。
静かなこの場所が発してる音かもしれない。
音が邪魔で、田中先生の声がよく聞こえない。
「雪で滑ったトラックに跳ねられ――、――と、すぐ――」
目の前がグラグラと大きく揺れている。
「――て、今は病院で――家族……して――」
ごくり、と喉が鳴る。
「びょ、ういん、は、どこの……」
「知ってどうするの」
学年主任の怒りを隠さない声にビクリと身体が揺れた。喉がカラカラでうまく話せない。
「……お、見舞いに」
「アンタが行ってどうするわけ? 高槻君が事故に遭った原因は私です、すみませんって謝んの? 私が親だったらそんな人間に会いたくないわね!」
――私のせい
「親御さんもねぇ、なぜ高槻君が普段使わない道を走ってたのか疑問に思っていて問い合わせが来たんですよ、昨日の放課後何があったかって」
「うちの教育実習生の軽率な行動のせいですって言うしかないんじゃない」
「わ、たし、」
「白橋先生、アンタが一人で帰ってればこんなことにならなかったんじゃないの」
「……わたし、の」
教員たちの世間話が聞こえる。笑いながらニュースを見ているような、馬鹿にするような声。
「とにかく今は下手に勝手なことをしないでくれますか。大学にはこちらから連絡はしておくけど」
「白橋先生と別れたあとのことだから、こちらに責任はないと言えますけどねぇ」
「……わたし……」
窓の外が妙に明るく感じた。きっと、昨日降り積もった雪のせいだ。眩しくて、背中に窓を背負い座る彼らの顔がよく見えない。
「まったく、余計なことをして」
「もうすぐ終わるってのに」
「面倒起こすなよ、邪魔くさい」
息ができない。
できないほうが、よかったかもしれない。
『ゆふセンセ、雪だよ』
窓の外を見て彼は言った。
『あー、もうこれは積もりそうな雪だね』
『やべ、明日から自転車無理かなあ』
『もうやめなさい、危ないから』
『うえー』
『それにしても、いつもいつの間にか降ってるなあ。雨みたいに音がしたら気が付くのに』
『そう? 俺、気が付くけどな』
『雪が降ってることに?』
そうだよ、と言いながら彼は窓を開けた。
冷たい空気が教室に吹き込み、小さな雪がひらりと舞い、床に落ちて溶ける。
『音なんてしないと思ってるだけで、この静けさが雪の降る音なんだよ』
そう言う横顔をぼんやりと見上げた。
……何かあった?
そう声を掛けるのを躊躇ってしまった。
『帰ろ、センセ』
彼はいつもの笑顔でくしゃりと笑った。
――三日後、高槻レンは亡くなった。
わたしのせいで。