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第28話


「今のうちに出かけましょう」


 なんとか正気を保ちつつ、アレク様との甘い朝食時間を乗り越えて部屋に戻った。

 とんでもない甘さだった。イケメンの威力……。思い返しても胸がドキドキするしなるべく思い返さないようにしないと平静でいられない。


「お嬢様駄目です、お医者様にも安静にしているよう言われたじゃないですか!」


 アナが信じられないとでも言いたげな顔で抗議の声をあげる。それにハンスも頷いた。


「でも、どうしても今夜お渡ししたいのよ」


『今夜、二人で食事をしましょう。その時にきちんとお話をさせてください』


 ガゼボで過ごした後、アレク様はそう言って私を部屋へ送り届けてくれた。午後から一度登城しなければならないらしく、夕方には迎えに来るとおっしゃっていたから、それまでには戻ればいいだけのことだ。


「まあ、今夜……!」


 何を想像したのか、アナが頬を赤らめ両手を組んだ。


「腕が鳴りますね!」

「なんの?」


 食事をするのに一体何を頑張る必要があるのか。


「……先日の品の受け取りですか」


 黙って聞いていたハンスが口を開いた。


「ええ。もうできていると思うの」


 先日、アレク様へお送りする品を探していた時にぴったりなものを見つけた。それをアレク様に合うようアレンジを依頼し、今日がちょうど受け取りの日なのだ。

 ハンスは少しだけ考えるように俯くと、ひとつ頷いた。


「……わかりました。そこに行くだけですぐに戻りましょう」

「ありがとう」

「馬車と護衛の手配をしてきます」


 ハンスがそう言い残し部屋を後にすると、アナは満面の笑みを見せた。


「今夜の支度はお任せください! ちゃんと準備はしてありますからね!」


 だから、なんの?


 *


 アナとハンスと共に街へ出た。

 気持ちのいい風が吹き、少しだけ汗ばむ体を冷やしてくれる。


「暑くなってきたわね」

「こちらの夏はこれからです」

「夜も暑くなると聞いたわ」

「ええ、夜が一番涼しい時間になるので、街の者は皆、涼むために街に出ます。夜の屋台や飲食店が多いのもそのためですね」

「夜の屋台! 楽しそうですね!」


 公園や道にたくさんの屋台が出て、人々は思い思いに食事を楽しむ。以前ハンスに連れて行ってもらったあの噴水広場も夜は多くの人で賑わうらしい。


「来てみたいわね」

「はい!」

「その際は、アレク様の許可を頂いてください」

「ふふ、わかったわ。ごめんなさい、無理を言って」


 アレク様に黙って出てきたことをハンスはしきりに気にしていた。仕方ない、彼はアレク様が付けた騎士なのだから、報告の義務があるのだろう。


(私の体調のこともご存知だったし)


 筒抜けとまではいかなくても、私が倒れたこともアレク様はご存知のようだった。会った時から私の体調を気遣うことが多かったから。

 でも今日のことは秘密にしてほしい。そう、ハンスに頼んだのだ。


 店に到着し、品物を受け取るまでの間、応接ソファに腰掛け待たせてもらう。大きな窓から通りをぼんやりと眺めていると、ふと知った顔が見えた。


「……あら?」


 その人の姿をハンスも認めたらしく、さっと窓側まで移動する。本を読んでいたアナが顔を上げた。


「どうしました?」

「サーシャ様がいるの」

「え?」


 アナも身を乗り出し窓の外を見る。


「本当だわ、どうしたんでしょう」

「お一人のように見えるけれど……」


 通りの向こうに立つサーシャ様はキョロキョロと周囲を見渡し、そのままその場に留まった。

 閣下から外出を禁じられていたはずだけれど、黙って出てきたのだろうか。


「誰かと待ち合わせでしょうか」

「そばに誰もいないなんてあり得ないわ」


 侯爵家の令嬢なのだ。

 顔がバレたらどんな目に遭うかわからない。上等な服を着ているのがわかるのか、通り過ぎる人が振り返る。


(危ないわ)


 同じように感じたのか、ハンスが小さく舌打ちをした。


「ハンス、サーシャ様をこちらにお呼びできる?」

「はい、しかし……」

「急いで。人々の注目を集めだしているわ」


 その時、大きな物音が周囲に響いた。

 外を歩く人々の視線が一斉に同じ方向を向く。皆、何かに驚いているようだ。


「ハンス!」

「ここでお待ち下さい、他の騎士を呼んで参ります」


 そう言うとハンスは素早く店の外へと飛び出した。店内にいた人も外に出て、何やらひとつの方向を見ている。そしてまた、大きな音が響いた。遠くから叫び声や走って逃げてくる人の姿もある。


「なんでしょう」

「わからないわ、とにかくむやみに動かないほうがいいからここにいましょう」


 不安そうに窓の外を見るアナにそう声をかけながら、道向こうに立つサーシャ様が気になりじっと見つめる。

 ハンスは店を飛び出すと周囲を見渡し、何やら悪態をついていた。どうやら他の護衛騎士が見当たらないようだ。大きな音がした方から逃げるように走ってくる人々を避けながら、ハンスはサーシャ様の下までたどり着いた。その姿にほっと息を吐き出す。


「アナ、行きましょう」

「え?」

「馬車まですぐに戻ったほうがいいわ」


 ハンス以外に付いているはずの護衛騎士の姿がない。この状況で真っ先にこちらに来ないのは何かおかしい。店の前に停めた馬車に戻ろうと立ち上がると、店のカウンターの向こうで騒ぎを知らないであろう店主が手に品を持って現れた。


「お嬢様、私が受け取ってきます」

「ありがとう」


 アナに受け取りを託し、窓の外のハンスとサーシャ様にまた視線を戻すと姿が見えない。大きな音は断続的に続き、逃げる人々と野次馬で目の前の道は人々で溢れてきた。


(馬車に戻ったかしら)


 外を気にしながら入り口に向かい取っ手に手をかけると、ガチャリとその扉が開いた。

 店内に入ってきた黒いロングコートを羽織った人物は私の目の前に立ちはだかり、帽子に隠れてよく見えないその顔を私に向けた。


「……こんにちは、ユフィール・マクローリー嬢」


 ニヤリと口元を大きく歪めて男が私の名を呼んだ。胸を殴られたような、強い衝撃が全身に走る。

 頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響き、目の前がクラクラした。

 知らない人物に名前を呼ばれる恐怖、それは、足元から何かが崩れていくような感覚。

 駄目だわ、ここにいては危ない、早く、ここを離れてハンスに……


「お迎えにあがりました。どうぞ、馬車へ」


 その人物は身体を横に退けると、背後に見える馬車を見るように顎を上げた。扉の向こう、目の前に止まる馬車へ視線を向けると、窓の向こうで喉元に剣を当てられたサーシャ様の姿があった。


「……!」

「急ぎましょうか」


 男はコートをさりげなく捲り、腰の剣を見せてくる。


(ハンスは)


 ハンスの姿が見えない。馬車の周囲にいた護衛の姿もなく、この混乱では正確に事態が掴めない。

 動こうとしない私に業を煮やしたのか、男が手を伸ばし私の腕を掴もうとした。それを手にしていたクラッチバッグで払い除ける。


「……触らないで。自分で歩くわ」

「ははっ、そうですか。では急いでください」


 男は一瞬驚いたような様子を見せ、声を上げて笑った。身体を横にずらし大きく扉を開いて大仰に腰を曲げ扉を出るよう促す。男の前を通り過ぎ外に出ると、男は背後から私の背中に硬い剣の柄を押し当てた。


「余計なことはしないでくださいよ」

「そんなもの、突きつけなくても従うわ」

「まあ、セオリーなんですよ」


 男は何がおかしいのか、クツクツと笑い私の背を押した。大きな物音や人々の叫ぶ声、この混乱では誰も私たちを気にしない。

 目の前の馬車を見つめながら前に進む。目の前を通り過ぎる人々に気を取られながら、馬車の窓からこちらを見るまっ青な顔のサーシャ様にひとつ頷いた。不安で今にも泣き出しそうなサーシャ様は、それでも気丈にぐっと唇を噛み締めている。

 アナはどうしているだろう。恐らく、この状況を察して隠れているはずだ。


(アナ、お屋敷に無事に戻って)


 サーシャ様がいては下手なことはできない。私が抵抗したところで無駄だろう。誰かにこのことを伝えてくれさえしたら……


「――マクローリー嬢!」


 人混みを避けながら馬車へ向かっていると突然声をかけられた。そちらへ顔を向けると、ライアン様が人の流れとは逆にこちらへ駆けてくるところだった。


「ライアン様!」

「やっぱり! アレクの家の家紋が見えたのでまさかとは思いましたが」


 ライアン様は私の顔を見ると額の汗を拭い、私の背後に立つ男へチラリと視線を送る。そして馬車へも視線を向けた。


「サーシャ様と買い物に来ていたのです」


 背後の男がさらに強く背中を押した。下手なことは言えないけれど、ライアン様から逃げるように立ち去るのも不自然だ。努めて笑顔で、にこやかに会話をする。


「あの、一体何があったのですか?」 

「橋が崩落したようなんです。俺はこれから救援に向かうのでお送りできませんが、……大丈夫ですか?」

「ありがとう、護衛もいるので大丈夫ですわ。ライアン様もお気を付けて」


 胸に手を当てたライアン様に「そういえば」と、声をかける。


「先日の東方のお茶、とても美味しかったですわ。友人とガゼボでお茶をした時に、とても好評でした」


 ライアン様は、一瞬動きを止めると、すぐにニッコリと笑顔を見せた。


「それはよかった。またアレクに渡しておきますね」

「ありがとう、そうしてくださると嬉しいわ」


 では、と小さく頷いて私は馬車に乗り込んだ。窓の外を見るとライアン様がこちらをじっと見つめ、やがて人混みへと消えていった。


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