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第100章:不和

神々の宴に、一つの果実が落とされた。


黄金に輝くそれは、呪いか、選択か。


「美しさ」は、賞賛ではなく比較の始まり。


比べられ、争い、そして分裂する。


誰かが選ばれるたびに、誰かが拒まれる。


それは運命の最初の歯車──


見えない火種が、戦争を始める瞬間だった。


──────────────────────────────────────


ギリシャの空をかすめる優しい風が、誰の目にも映らぬ巨大な山を撫でていた。


そこは——神々のすべての計画が練られる場所。


その名は、オリュンポス山。




神々があちらこちらで談笑し、式典の装飾や礼服の準備に忙しく動いている。


だが、その中に一人、異質な存在がいた。


痩せこけ、髪は乱れ、目は底知れぬ闇を湛えた女神。




「……なんであいつがここに……」


オリュンポスの下僕の一人が、小さく震える声で呟く。




「見てるだけで背筋が凍る……」


もう一人も、吐き捨てるように声を漏らす。




「何が起きてるの……?」


エリスが不思議そうに辺りを見渡す。視線を向けるだけで、空気が張り詰めていく。




彼女は近くの下僕に歩み寄る。その瞬間、男の顔から血の気が引く。




「何の準備をしてるの?」


その声は穏やかだが、目は魂を吸い取るかのように深い。




「い、いえ……な、何も……知りません……」


下僕は震えながら視線を逸らし、うわずった声で答える。




「本当に……?」


エリスの視線がさらに深く突き刺さる。




「し、知らないってばぁあ!」


男は叫ぶように言い残し、慌てて逃げ出してしまった。




「……なんだったの、あれ……」


残されたエリスは、ただ困惑したように呟いた。




視点が変わり、別の場所では下僕たちがひそひそと会話している。




「……本気で、あの女がここにいる意味あるのかよ」


苛立ちを隠せない様子の下僕が言う。




「さあな……あいつ、こんな所に現れることなんて滅多にないのに。よりによって今日かよ、クソ……」




「まさか、何かバラしたりしてねぇよな?」


一人が不安げに尋ねる。




「バカ言うなって。あんな奴に話すわけねぇだろ」


自信ありげに、もう一人が否定する。


「エリスが知ったら、全部めちゃくちゃにされるだけだ」




「……だな。黙ってるに限る」


そう言って、彼らは足早にその場を去っていった。




そしてその場に、アレスが静かに現れる。


彼の目は、一つの小さな影を捉えていた。




「……他人の会話を盗み聞きするなって、教えたはずだぞ」


真剣な声でアレスが言う。


「……エリス」




その影の中から、エリスが姿を現す。


彼女は父の前で気まずそうにうつむいた。




「……ごめんなさい……」




「エリス、お前は余計なことに首を突っ込むな」




「でも……私、わからないの。なんで誰も私を見てくれないの? 私、何かした……?」




「知らん。だがな、あんなバカどもを理解しようとしても無駄だ」




「……うん……」




アレスは無言で娘の頭を軽く撫でる。


その手には、優しさと痛みが同居していた。




「……馬鹿な真似だけはするなよ。俺はもう……これ以上、苦しみたくない」




「……ごめんね、父さん……」




「じゃあな。特別部隊の任務がある」




そう言い残してアレスはオリュンポスの出口へと向かう。




「またな、エリス」


最後に彼は、娘に小さく微笑みかけた。




【遠く離れた場所、グレク王国の知られざる庭園にて】




時は流れ、やがて晴れ渡る日。そこには神々、森の精霊、英雄たちが集い、ただの結びではなく、魂と心までもを重ねる婚礼の日を祝おうとしていた。




「なんて美しい場所なの……」アフロディーテは、式が行われる庭園の景色に見とれて呟いた。




「そうだな、間違いなく素晴らしい場所を選んだよ」ヘルメスもまた、その美しさに心を奪われていた。




「なあ、なんでお前らそんな間抜けな顔してるんだよ」アキレウスがニヤリと笑って口を挟んだ。




「アキレウス、久しぶりね」アフロディーテが柔らかく微笑みながら言う。「元気にしてた?」




「まあな……エーゲ海じゃ緊張が高まりっぱなしだ。戦争は避けられそうにない」




「オリュンポスでもその話題ばかりよ。でも、どうやら誰も介入する気はないみたい」そう言って、ヘルメスは若き英雄を見つめた。




「当然だ。介入すれば、火に油を注ぐだけだ」アキレウスはそう言うが、不満げな表情を隠せなかった。




「そうかしら……」アフロディーテは小さく呟く。




「どういう意味だ?」アキレウスが訝しげに尋ねた。




「あなたも知ってるでしょう、アキレウス。神々ってやつは、本当に狡猾でずる賢いのよ。たとえゼウスが介入を禁じても、あの連中は必ず抜け道を探すわ」




「……確かに、その可能性はあるかもしれない」ヘルメスの声には迷いがあった。




「アキレウスーー!」


遠くから、力強い戦士の声が響く。




「パトロクロスか!」アキレウスの表情が一気に明るくなる。




二人は抱き合い、互いの再会を喜びあう。




「久しぶりだな、パトロクロス!」


「まったくだ、でっかい奴め!」パトロクロスは笑顔で返した。




「お前も聞いてるだろ? 戦の準備が進んでるらしいが……」


「そうらしいな。でも、まだどうなるか分からない。プリアモス王が変な真似をしなければ、希望はある」




「そういえば、アフロディーテ。この前お前の弟子に会ったよ。なかなか面白い奴だった」アキレウスがふと、エデンを思い出したように言う。「ずいぶん口の減らない奴だったな、教え方が良かったんだろうな」




アフロディーテは思わず笑ってしまう。誰のことかすぐに分かったからだ。




「ええ、あの子はいい子よ」




「さてさて、お喋りはそこまでにして、飾り付けを続けようか」ヘルメスが言うが、すぐに何かに目を奪われる。




「……おいおい、冗談だろ……」彼の目に映るのは、骸骨のように痩せ細った姿の女神——エリス。




その場にいた全員の視線が、静かに、しかし確かにエリスへと向けられる。




ゆっくりと歩み寄ったエリスは、誰にも言葉を発することなく、中央のテーブルに一つのリンゴを置いた。そして、全員を見渡してから、不気味な笑みを浮かべた。




そのままエリスは何も言わずに立ち去り、森の影に消えていった。しかし、彼女が残した空気は、全員の心をざわつかせた。




「……アイツ、マジで悪夢に出てくるんだよな」ヘルメスが苦笑するが、顔には冷や汗が浮かんでいた。




やがてピアノの音色が流れ出し、場の空気を和らげる。来賓たちは再び装飾の準備を進め、やがて日が傾き、テティスとペレウスの結婚式が始まった。




結婚式は順調に進み、皆が笑い、涙し、踊り、祝いの酒を酌み交わす——特に酒神ディオニュソスは飲みすぎたようだった。




やがて、テティスが贈り物を開け始める。だが、あるひとつの贈り物が彼女の注意を引いた。それは、例の黄金のリンゴだった。




「これは……?」テティスが手を伸ばしかけた瞬間、誰かが叫ぶ。




「待って!」叫んだのは、ゼウスとヘラの娘・ヘーベ。




「そのリンゴ、危ないかもしれません。エリスが呪いをかけた可能性があります!」




「そんな感じはしないけどね……」アフロディーテがリンゴをじっと見つめながら言う。「不穏な気配は感じない。ただのリンゴよ」




「で、でも相手はエリスですよ! 油断できません!」ヘーベは不安そうに声を震わせた。




「おいおい、そんなに神経質になるなよ」ヘラクレスが手を振りながら笑った。




「でも……」


「もう、しょうがないわね」アテナがリンゴを手に取る。




その大胆な行動に、場の空気が凍りつく。




「やっぱり……何も変な気配はないけど……」アテナがリンゴを眺めていると、そこに彫られた言葉が目に入る。




「これって……?」


彫られていたのは、こう書かれた文字だった——「最も美しい者へ」。




「どうしたの、アテナ?」アフロディーテが不思議そうに声をかけた。




「な、なんでもないわ」アテナは慌てて答える。「多分、間違って私に渡したのね」




「ちょっと、何言ってるの?」アルテミスが不機嫌そうにアテナからリンゴを奪おうとする。




「ちょ、やめなさいよ!」アテナが叫ぶが、その拍子にリンゴは手を離れ、アキレウスの足元に転がる。




「さてさて、これは何て書いてあるかな……」アキレウスが皮肉な笑みを浮かべる。




「待ちなさい!!」アテナが慌てて止めようとする。




「『最も美しい者へ』……ふぅん。残念だな、ここには該当者がいないようだ」


そう言った瞬間、アフロディーテ、アテナ、そしてヘラの三人から一斉に殴られた。




「……すまん」アキレウスは顔中腫れ上がりながら謝った。




「まさか、これを隠そうとしてたなんてね〜?」アフロディーテがからかうように言う。




「なぁに? もしかして怖くなったのかしら?」ヘラが口元を隠しながら、からかうように笑う。




「はぁ? あんたなんて論外でしょ、サイコ女」アフロディーテがキレ気味に返す。




「何よ金髪女。あんたみたいに魔法で男を騙してる方が問題だわ」ヘラがニヤニヤしながら言う。




「まあまあ、落ち着いて」アテナが静かに口を開く。「このリンゴは私のものよ。だって私が一番美しいから」




アフロディーテとヘラが一斉にアテナを睨む。




そして、三人の女神はリンゴを巡って争いを始めた。その様子を、アキレウスたち家族は呆れたように見守っていた。




「結婚式のこと、すっかり忘れてるみたいね……」テティスが苦笑いを浮かべる。




「ごめん母さん、俺が余計なこと言ったから……」アキレウスは後悔の表情を見せた。




「もう帰ろうか」ペレウスの提案に、全員が頷いた。




時は流れ、数時間後。三人の女神は未だ決着のつかぬ争いに苛立ちを見せていた。




「くそっ、もう全部試したのに……!」ヘラは顔に傷を負いながら呟く。




「投票、戦い……全部ダメだったわね」続けて、アテナもため息をつく。




「結論出る前に死んじゃいそうね……」




「ねえアテナ、あんた頭使うのは戦いだけなの?」アフロディーテが煽るように言う。




「うるさいわよ、ビッチ」アテナが挑発的な眼差しを向ける。




「私にいい案があるわ」ヘラが口を開いた。




「やっと脳みそ使ったのね〜」アフロディーテがアテナを見ながら笑う。




「近くの国に、ちょっとした噂の王子がいるらしいの。彼、ファッションセンスにうるさいらしくて。もしかしたら助けになるかも」




「まさか……あんた、色目でも使ったんじゃないでしょうね?」アテナが疑いの眼差しを向ける。




「黙りなさい、クソガキ」




「悪くない案かもね……」アフロディーテは少し興味を示した。「その王子って……誰?」




「トロイアの王子、パリスよ」




「……冗談でしょ」アフロディーテが苦笑しながら呟く。




視線の奥には、遠いトロイアの街並みが広がっていた——。




「数キロ離れた場所、トロイアにて——」




訓練場で、パリスはふと身震いする。まるで身体が何かを予感したかのように。




「今のは…なんだったんだ?」と困惑しながらつぶやく。




「気を抜くなよ!」


鋭い声とともにエデンの剣が振り下ろされ、パリスはかろうじて反応する。




強烈な一撃に押し返されるが、エデンはすぐさま連撃を仕掛けてくる。パリスは必死に受け止めるも、圧倒されていく。




場面が変わり、堂々とした体格、濃いひげ、凛とした美貌を持つ男が、ゆっくりと訓練場へと歩み寄ってくる。




「これは…予想外だな」


その男は小さく呟く。




「王子…!」


メイがまるで幽霊を見たかのように声を漏らす。




「久しぶりだな、メイ」


その男の顔が映し出される。彼こそがトロイアの第一王子、パリスの兄——ヘクトルだった。




笑顔を浮かべながら、メイはヘクトルに抱きつく。彼は少し驚いた表情を見せる。




「いつ戻ったの?なんで誰にも知らせなかったの?」




「驚かせたくてね。狙い通りの反応だったようだ」




「それに…噂の弟の成長を自分の目で確かめたくてさ」


ヘクトルは小さく笑みを浮かべながら言う。




「ええ…あなたがいない間に、王子は本当に変わりました」




「そうだな」


ヘクトルの視線がエデンへと移る。


「あの少年が…その変化のきっかけか」




その瞬間、エデンの斬撃がパリスを弾き飛ばし、彼は壁に激突して粉々に砕けた瓦礫の中に埋もれる。




「少しは手加減してやれよ…」


ヘクトルが苦笑いを浮かべながら呟く。




「ほんとに…」


メイも、弟子の本気を知っているだけに苦い顔をする。




瓦礫の中でパリスは咳き込みながら、疲労と傷にまみれて呻く。




「くそ…一発も当てられなかった…」


彼は悔しそうに呟く。




「大丈夫か?」


エデンが手を差し伸べる。




「ああ…」


パリスはその手を借りて立ち上がる。




「前よりずっと持ちこたえてたよ。よくやった」




「でも…結局、一撃も…」




「気にするな。きっとすぐに追いつけるさ」




パリスは小さく笑う。しかし、すぐにその笑みは凍る。


彼の視線が、ある男に釘付けになる。




「嘘…だろ…」


パリスが呟く。




何も言わず、彼はヘクトルへと駆け寄り、力強く抱きしめる。




(あの男…只者じゃない)


エデンは黙って彼らを見つめながら思う。ヘクトルの放つ圧倒的な気配を感じ取っていた。




二人の兄弟は抱き合ったまま動かない。




「バカヤロー…なんで連絡くれなかったんだよ…」


パリスが腕を離さずに言う。




「驚くお前の顔が見たかっただけさ」


ヘクトルはいたずらっぽく笑う。




「会えて…本当に嬉しいよ、兄さん」




ふたりは笑い合い、拳を軽くぶつけ合う。その絆は言葉以上に強く感じられた。




そこへ、エデンがゆっくりと近づいてくる。


口には出さないが、彼のオーラが語っている。


——「戦いたい」と。




「場を壊して悪いけど…」


そのオーラを高めながらエデンが言う。


「ヘクトル王子、一戦お願いしたい」




「なっ……なななっ……!?」


メイとパリスが絶叫する。




ヘクトルは微笑を浮かべ、無言のまま頷いた。


その表情には、エデンの“いたずら”に加わる者のような気配があった。

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