神々の宴に、一つの果実が落とされた。
黄金に輝くそれは、呪いか、選択か。
「美しさ」は、賞賛ではなく比較の始まり。
比べられ、争い、そして分裂する。
誰かが選ばれるたびに、誰かが拒まれる。
それは運命の最初の歯車──
見えない火種が、戦争を始める瞬間だった。
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ギリシャの空をかすめる優しい風が、誰の目にも映らぬ巨大な山を撫でていた。
そこは——神々のすべての計画が練られる場所。
その名は、オリュンポス山。
神々があちらこちらで談笑し、式典の装飾や礼服の準備に忙しく動いている。
だが、その中に一人、異質な存在がいた。
痩せこけ、髪は乱れ、目は底知れぬ闇を湛えた女神。
「……なんであいつがここに……」
オリュンポスの下僕の一人が、小さく震える声で呟く。
「見てるだけで背筋が凍る……」
もう一人も、吐き捨てるように声を漏らす。
「何が起きてるの……?」
エリスが不思議そうに辺りを見渡す。視線を向けるだけで、空気が張り詰めていく。
彼女は近くの下僕に歩み寄る。その瞬間、男の顔から血の気が引く。
「何の準備をしてるの?」
その声は穏やかだが、目は魂を吸い取るかのように深い。
「い、いえ……な、何も……知りません……」
下僕は震えながら視線を逸らし、うわずった声で答える。
「本当に……?」
エリスの視線がさらに深く突き刺さる。
「し、知らないってばぁあ!」
男は叫ぶように言い残し、慌てて逃げ出してしまった。
「……なんだったの、あれ……」
残されたエリスは、ただ困惑したように呟いた。
視点が変わり、別の場所では下僕たちがひそひそと会話している。
「……本気で、あの女がここにいる意味あるのかよ」
苛立ちを隠せない様子の下僕が言う。
「さあな……あいつ、こんな所に現れることなんて滅多にないのに。よりによって今日かよ、クソ……」
「まさか、何かバラしたりしてねぇよな?」
一人が不安げに尋ねる。
「バカ言うなって。あんな奴に話すわけねぇだろ」
自信ありげに、もう一人が否定する。
「エリスが知ったら、全部めちゃくちゃにされるだけだ」
「……だな。黙ってるに限る」
そう言って、彼らは足早にその場を去っていった。
そしてその場に、アレスが静かに現れる。
彼の目は、一つの小さな影を捉えていた。
「……他人の会話を盗み聞きするなって、教えたはずだぞ」
真剣な声でアレスが言う。
「……エリス」
その影の中から、エリスが姿を現す。
彼女は父の前で気まずそうにうつむいた。
「……ごめんなさい……」
「エリス、お前は余計なことに首を突っ込むな」
「でも……私、わからないの。なんで誰も私を見てくれないの? 私、何かした……?」
「知らん。だがな、あんなバカどもを理解しようとしても無駄だ」
「……うん……」
アレスは無言で娘の頭を軽く撫でる。
その手には、優しさと痛みが同居していた。
「……馬鹿な真似だけはするなよ。俺はもう……これ以上、苦しみたくない」
「……ごめんね、父さん……」
「じゃあな。特別部隊の任務がある」
そう言い残してアレスはオリュンポスの出口へと向かう。
「またな、エリス」
最後に彼は、娘に小さく微笑みかけた。
【遠く離れた場所、グレク王国の知られざる庭園にて】
時は流れ、やがて晴れ渡る日。そこには神々、森の精霊、英雄たちが集い、ただの結びではなく、魂と心までもを重ねる婚礼の日を祝おうとしていた。
「なんて美しい場所なの……」アフロディーテは、式が行われる庭園の景色に見とれて呟いた。
「そうだな、間違いなく素晴らしい場所を選んだよ」ヘルメスもまた、その美しさに心を奪われていた。
「なあ、なんでお前らそんな間抜けな顔してるんだよ」アキレウスがニヤリと笑って口を挟んだ。
「アキレウス、久しぶりね」アフロディーテが柔らかく微笑みながら言う。「元気にしてた?」
「まあな……エーゲ海じゃ緊張が高まりっぱなしだ。戦争は避けられそうにない」
「オリュンポスでもその話題ばかりよ。でも、どうやら誰も介入する気はないみたい」そう言って、ヘルメスは若き英雄を見つめた。
「当然だ。介入すれば、火に油を注ぐだけだ」アキレウスはそう言うが、不満げな表情を隠せなかった。
「そうかしら……」アフロディーテは小さく呟く。
「どういう意味だ?」アキレウスが訝しげに尋ねた。
「あなたも知ってるでしょう、アキレウス。神々ってやつは、本当に狡猾でずる賢いのよ。たとえゼウスが介入を禁じても、あの連中は必ず抜け道を探すわ」
「……確かに、その可能性はあるかもしれない」ヘルメスの声には迷いがあった。
「アキレウスーー!」
遠くから、力強い戦士の声が響く。
「パトロクロスか!」アキレウスの表情が一気に明るくなる。
二人は抱き合い、互いの再会を喜びあう。
「久しぶりだな、パトロクロス!」
「まったくだ、でっかい奴め!」パトロクロスは笑顔で返した。
「お前も聞いてるだろ? 戦の準備が進んでるらしいが……」
「そうらしいな。でも、まだどうなるか分からない。プリアモス王が変な真似をしなければ、希望はある」
「そういえば、アフロディーテ。この前お前の弟子に会ったよ。なかなか面白い奴だった」アキレウスがふと、エデンを思い出したように言う。「ずいぶん口の減らない奴だったな、教え方が良かったんだろうな」
アフロディーテは思わず笑ってしまう。誰のことかすぐに分かったからだ。
「ええ、あの子はいい子よ」
「さてさて、お喋りはそこまでにして、飾り付けを続けようか」ヘルメスが言うが、すぐに何かに目を奪われる。
「……おいおい、冗談だろ……」彼の目に映るのは、骸骨のように痩せ細った姿の女神——エリス。
その場にいた全員の視線が、静かに、しかし確かにエリスへと向けられる。
ゆっくりと歩み寄ったエリスは、誰にも言葉を発することなく、中央のテーブルに一つのリンゴを置いた。そして、全員を見渡してから、不気味な笑みを浮かべた。
そのままエリスは何も言わずに立ち去り、森の影に消えていった。しかし、彼女が残した空気は、全員の心をざわつかせた。
「……アイツ、マジで悪夢に出てくるんだよな」ヘルメスが苦笑するが、顔には冷や汗が浮かんでいた。
やがてピアノの音色が流れ出し、場の空気を和らげる。来賓たちは再び装飾の準備を進め、やがて日が傾き、テティスとペレウスの結婚式が始まった。
結婚式は順調に進み、皆が笑い、涙し、踊り、祝いの酒を酌み交わす——特に酒神ディオニュソスは飲みすぎたようだった。
やがて、テティスが贈り物を開け始める。だが、あるひとつの贈り物が彼女の注意を引いた。それは、例の黄金のリンゴだった。
「これは……?」テティスが手を伸ばしかけた瞬間、誰かが叫ぶ。
「待って!」叫んだのは、ゼウスとヘラの娘・ヘーベ。
「そのリンゴ、危ないかもしれません。エリスが呪いをかけた可能性があります!」
「そんな感じはしないけどね……」アフロディーテがリンゴをじっと見つめながら言う。「不穏な気配は感じない。ただのリンゴよ」
「で、でも相手はエリスですよ! 油断できません!」ヘーベは不安そうに声を震わせた。
「おいおい、そんなに神経質になるなよ」ヘラクレスが手を振りながら笑った。
「でも……」
「もう、しょうがないわね」アテナがリンゴを手に取る。
その大胆な行動に、場の空気が凍りつく。
「やっぱり……何も変な気配はないけど……」アテナがリンゴを眺めていると、そこに彫られた言葉が目に入る。
「これって……?」
彫られていたのは、こう書かれた文字だった——「最も美しい者へ」。
「どうしたの、アテナ?」アフロディーテが不思議そうに声をかけた。
「な、なんでもないわ」アテナは慌てて答える。「多分、間違って私に渡したのね」
「ちょっと、何言ってるの?」アルテミスが不機嫌そうにアテナからリンゴを奪おうとする。
「ちょ、やめなさいよ!」アテナが叫ぶが、その拍子にリンゴは手を離れ、アキレウスの足元に転がる。
「さてさて、これは何て書いてあるかな……」アキレウスが皮肉な笑みを浮かべる。
「待ちなさい!!」アテナが慌てて止めようとする。
「『最も美しい者へ』……ふぅん。残念だな、ここには該当者がいないようだ」
そう言った瞬間、アフロディーテ、アテナ、そしてヘラの三人から一斉に殴られた。
「……すまん」アキレウスは顔中腫れ上がりながら謝った。
「まさか、これを隠そうとしてたなんてね〜?」アフロディーテがからかうように言う。
「なぁに? もしかして怖くなったのかしら?」ヘラが口元を隠しながら、からかうように笑う。
「はぁ? あんたなんて論外でしょ、サイコ女」アフロディーテがキレ気味に返す。
「何よ金髪女。あんたみたいに魔法で男を騙してる方が問題だわ」ヘラがニヤニヤしながら言う。
「まあまあ、落ち着いて」アテナが静かに口を開く。「このリンゴは私のものよ。だって私が一番美しいから」
アフロディーテとヘラが一斉にアテナを睨む。
そして、三人の女神はリンゴを巡って争いを始めた。その様子を、アキレウスたち家族は呆れたように見守っていた。
「結婚式のこと、すっかり忘れてるみたいね……」テティスが苦笑いを浮かべる。
「ごめん母さん、俺が余計なこと言ったから……」アキレウスは後悔の表情を見せた。
「もう帰ろうか」ペレウスの提案に、全員が頷いた。
時は流れ、数時間後。三人の女神は未だ決着のつかぬ争いに苛立ちを見せていた。
「くそっ、もう全部試したのに……!」ヘラは顔に傷を負いながら呟く。
「投票、戦い……全部ダメだったわね」続けて、アテナもため息をつく。
「結論出る前に死んじゃいそうね……」
「ねえアテナ、あんた頭使うのは戦いだけなの?」アフロディーテが煽るように言う。
「うるさいわよ、ビッチ」アテナが挑発的な眼差しを向ける。
「私にいい案があるわ」ヘラが口を開いた。
「やっと脳みそ使ったのね〜」アフロディーテがアテナを見ながら笑う。
「近くの国に、ちょっとした噂の王子がいるらしいの。彼、ファッションセンスにうるさいらしくて。もしかしたら助けになるかも」
「まさか……あんた、色目でも使ったんじゃないでしょうね?」アテナが疑いの眼差しを向ける。
「黙りなさい、クソガキ」
「悪くない案かもね……」アフロディーテは少し興味を示した。「その王子って……誰?」
「トロイアの王子、パリスよ」
「……冗談でしょ」アフロディーテが苦笑しながら呟く。
視線の奥には、遠いトロイアの街並みが広がっていた——。
「数キロ離れた場所、トロイアにて——」
訓練場で、パリスはふと身震いする。まるで身体が何かを予感したかのように。
「今のは…なんだったんだ?」と困惑しながらつぶやく。
「気を抜くなよ!」
鋭い声とともにエデンの剣が振り下ろされ、パリスはかろうじて反応する。
強烈な一撃に押し返されるが、エデンはすぐさま連撃を仕掛けてくる。パリスは必死に受け止めるも、圧倒されていく。
場面が変わり、堂々とした体格、濃いひげ、凛とした美貌を持つ男が、ゆっくりと訓練場へと歩み寄ってくる。
「これは…予想外だな」
その男は小さく呟く。
「王子…!」
メイがまるで幽霊を見たかのように声を漏らす。
「久しぶりだな、メイ」
その男の顔が映し出される。彼こそがトロイアの第一王子、パリスの兄——ヘクトルだった。
笑顔を浮かべながら、メイはヘクトルに抱きつく。彼は少し驚いた表情を見せる。
「いつ戻ったの?なんで誰にも知らせなかったの?」
「驚かせたくてね。狙い通りの反応だったようだ」
「それに…噂の弟の成長を自分の目で確かめたくてさ」
ヘクトルは小さく笑みを浮かべながら言う。
「ええ…あなたがいない間に、王子は本当に変わりました」
「そうだな」
ヘクトルの視線がエデンへと移る。
「あの少年が…その変化のきっかけか」
その瞬間、エデンの斬撃がパリスを弾き飛ばし、彼は壁に激突して粉々に砕けた瓦礫の中に埋もれる。
「少しは手加減してやれよ…」
ヘクトルが苦笑いを浮かべながら呟く。
「ほんとに…」
メイも、弟子の本気を知っているだけに苦い顔をする。
瓦礫の中でパリスは咳き込みながら、疲労と傷にまみれて呻く。
「くそ…一発も当てられなかった…」
彼は悔しそうに呟く。
「大丈夫か?」
エデンが手を差し伸べる。
「ああ…」
パリスはその手を借りて立ち上がる。
「前よりずっと持ちこたえてたよ。よくやった」
「でも…結局、一撃も…」
「気にするな。きっとすぐに追いつけるさ」
パリスは小さく笑う。しかし、すぐにその笑みは凍る。
彼の視線が、ある男に釘付けになる。
「嘘…だろ…」
パリスが呟く。
何も言わず、彼はヘクトルへと駆け寄り、力強く抱きしめる。
(あの男…只者じゃない)
エデンは黙って彼らを見つめながら思う。ヘクトルの放つ圧倒的な気配を感じ取っていた。
二人の兄弟は抱き合ったまま動かない。
「バカヤロー…なんで連絡くれなかったんだよ…」
パリスが腕を離さずに言う。
「驚くお前の顔が見たかっただけさ」
ヘクトルはいたずらっぽく笑う。
「会えて…本当に嬉しいよ、兄さん」
ふたりは笑い合い、拳を軽くぶつけ合う。その絆は言葉以上に強く感じられた。
そこへ、エデンがゆっくりと近づいてくる。
口には出さないが、彼のオーラが語っている。
——「戦いたい」と。
「場を壊して悪いけど…」
そのオーラを高めながらエデンが言う。
「ヘクトル王子、一戦お願いしたい」
「なっ……なななっ……!?」
メイとパリスが絶叫する。
ヘクトルは微笑を浮かべ、無言のまま頷いた。
その表情には、エデンの“いたずら”に加わる者のような気配があった。