目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第101章:あなたの心の奥底にある感情

戦いの始まりに、心は剣となり、沈黙は嵐の予兆となる。


だが、本当に揺らぐのは、剣と剣の間ではなく──心と心の交差点だ。


炎のように燃える決意と、氷のように隠された傷が、ぶつかり合う。


強さとは、力を誇ることではない。


弱さを晒し、それでも歩みを止めぬ者こそが、真に強き者。


神の囁き、運命の誘い、人の欲望──


心の深くにある想いは、時として世界すら揺るがす。


───────────────────────────────────────

「時が止まったかのように、世界は静寂に包まれていた。壮絶な一騎打ちを前に、誰もが息を呑む——」




戦場に立つ二人の戦士が、互いを見つめ合う。その目は、一瞬たりとも相手から離れない。




「すごい…」


メイが呟く。視線を外すことができずにいた。


「二人とも、とんでもない力を持ってる…」




「……ああ」


パリスが答える。緊張を隠せず、頬を汗が流れていく。




場面が変わり、二人の戦士が正面から映される。決意と自信に満ちたまなざしを交わす。




エデンは余裕の笑みを浮かべ、まばゆいオーラを纏っていた。対するヘクトルは深く息を吐き、全身の力を抜いて構えを変える。




「始めるか?」


ヘクトルが低く、鋭い声で問う。その目は獣のように、エデンだけを狙っている。




「……ああ」


エデンは静かに答える。その言葉には、すでに勝利を見据えた確信があった。




次の瞬間、二人の身体が消える。人の目では捉えられない速度でぶつかり合う。




剣と剣がぶつかり、轟音が辺りに響き渡る。大地が揺れ、空気が震えた。




刃が火花を散らし、エデンとヘクトルは笑みを浮かべたまま、互いに一歩も譲らない。




力と力がぶつかり合い、両者が吹き飛ばされる。しかし、わずかな間に、エデンが再び前へ出る。目にも止まらぬ速さで斬撃を浴びせる。




ヘクトルは冷静に全てを受け止め、剣を捻るようにしてエデンの刃を逸らすと、迷いなく拳を放つ。


その一撃が腹に深く入り、エデンは血を吐いた。




倒れ込んだエデンに、とどめを刺そうと踏み込むヘクトル。




だがその瞬間、エデンの足がヘクトルの足首を打ち、バランスを崩させる。




「くそっ…!」


ヘクトルが心中で叫ぶ。体が地面に向かって傾いていく。




エデンはすぐさま足を振り抜き、蹴りを叩き込もうとする。




「喰らええええ!!」




しかし、ヘクトルは土を蹴って後方宙返りしながら体勢を立て直し、完璧なタイミングでその蹴りを受け止める。




エデンは数歩後退するが、顔には興奮の色が浮かんでいた。




「やるじゃん…」




「君こそな、エデン」




「悪いけど、もう手加減しないよ」


そう言うと、エデンの口から黒い煙が漏れ出す。




「なっ…何だと!?」


ヘクトルの瞳が驚愕に見開かれる。




「嘘…でしょ…」


メイの声が震え、恐怖に支配される。


彼女の身体が小さく震えている。




「悪魔…」


パリスが呟く。恐怖が顔に刻まれていた。




再び視点が二人の戦士へと戻る。エデンの周囲には凄まじい闇の気が渦巻き、ヘクトルは言葉を失っていた。




そのとき——




「やめなさい、もう!」




聞き覚えのある声が響く。




エデンが動きを止める。視線の先には、時を超えても変わらぬ美しさを宿す女神が立っていた。




「……先生」


エデンは小さく笑い、アフロディーテの姿に安堵する。




「久しぶりね、エデン。無事で良かったわ」




「先生がここに…何を?」




「ちょっとした用事よ」


アフロディーテは軽く顎で指す。そこには、彼女に続く数人の女神たちの姿があった。




「……なるほど」




「パリス王子、お時間をいただき恐縮ですが、お願いがございます」


アテナが真っ直ぐパリスを見つめる。




「お願い…ですか? 神々が僕に何を?」




「詳しくは道中で説明します。どうか、ご同行を」




「……わ、わかりました」




「後でまた話しましょう、エデン。いいかしら?」


アフロディーテが微笑む。




「はい、また後で……先生」




女神たちとともに、パリスはその場を後にする。残されたヘクトルが、エデンにゆっくりと近づいた。




「まさか…あんな力を隠していたとはな」


ヘクトルはまだ震える手で汗を拭った。




「……すみません、つい熱くなって」




「いや、謝る必要はないさ。むしろ嬉しいくらいだよ。本気で戦ってくれて」




「でも、ひとつだけ聞かせてくれ。どうしてその力を隠してる?」




エデンは少し黙り、視線を落とす。


「長い話になります。…数えきれないほどの物語があるんです」




「……そうか」


ヘクトルの目が優しく細められる。


まるで、その目に映る過去の傷を感じ取っているようだった。




「さてと、そろそろ行くとするか。父上に顔を見せないとね」


そう言うと、ヘクトルはメイのそばに歩み寄り、そっと耳元で囁いた。


「この少年を…頼むよ」




メイの頬がほんのり赤く染まり、言葉の意味を静かに受け止める。




同じ頃、トロイアの王宮では——




場面が切り替わり、パリスは三柱の女神と向き合っていた。




「な、何だって?!」


パリスは驚きの声を上げる。女神たちの要求の重さに、思わず息を呑む。




「まあまあ、三人のうち誰か一人を選べばいいだけよ。それで話は終わるんだから」


アフロディーテが微笑む。




「ちょっと、あんたねえ。パリス王子を操ろうとするの、やめなさいよ」


アテナが怒気をはらんだ目で睨みつける。




「うるさいわね。人間が決めればいいことよ」


ヘラが苛立ちをあらわにする。




(どうすればいい…?)


パリスは心の中で唸る。


(適当に選ぶ? いや、それじゃダメだ。誰を選んでも、他の二人はきっと報復を考える… だって彼女たちは女神だ。傲慢さは血に刻まれてる)




「どうしたの?人間。さっさと選びなさいよ」


ヘラの声が鋭く響く。




「…一日だけ、お時間をいただけませんか?」


パリスは深く頭を下げる。




「は?時間が有り余ってるとでも思ってるの?」


ヘラは苛立ちを隠さず声を荒げる。




「まあまあ、ヘラ。そんなに怒らないで。考える時間をあげたっていいじゃない。せっかくだし、王国を一緒に散歩でもしましょうよ」


アフロディーテが優しく宥める。




「勝手にすれば。でも…明日には必ず答えを出しなさい、人間。さもないと…後悔することになるわよ」


ヘラは舌打ちしながら背を向けた。




「は、はい…」


パリスは喉を鳴らし、冷や汗を浮かべる。




時が過ぎ、場面には一人思い悩むパリスの姿が映る。そこに、エデンが静かに現れた。




「顔色が悪いな、パリス」




「…そう見えるか?」


パリスは皮肉交じりに返す。




「何に悩んでるんだ?」




「なんで僕が選ばれたんだろうな。“三人の中で誰が一番美しいか?”なんて、どうでもいいことだろ」




「だったら、適当に一人選んで終わらせればいいんじゃないか?」




「冗談はやめてくれ。お前、神々のことを知らないのか?あいつらは気まぐれで、自分の思い通りにならないとすぐに怒る。誰を選んでも…その代償は大きい」




「…そうか」




「くそっ…」




その時、エデンは静かにパリスの肩に手を置いた。




「どんな選択でも、俺はお前を支えるよ、パリス」




「ありがとう、エデン」


パリスは小さく微笑んだ。




同じ日の夜、トロイア王宮の庭。




月明かりが、迷いに満ちたパリスの顔を静かに照らしていた。彼は歯を食いしばり、運命を呪うように小さくつぶやく。




――くそっ……なんで俺ばかり、こんな面倒ごとに巻き込まれるんだよ。




「どうした、弟よ。なんだか悩んでいるようだな」




その声に、パリスは顔を上げる。ヘクトルが庭へと足を踏み入れていた。




「兄さん……」




「眠れないのか?」




「まぁな……」




パリスは皮肉げな笑みを浮かべる。まるで避けられない運命を受け入れたかのような表情だった。




しばらくして、彼は神々から持ちかけられた“選択”の話をヘクトルに明かす。




「なるほど……正直、俺なら絶対に引き受けたくないな」




そう笑ったヘクトルに、パリスは真剣な眼差しを向ける。




「どうすればいいんだ……? どの選択肢を取っても、俺だけじゃなくて、この国全体が罰を受けるかもしれない」




「……お前、変わったな」




「何がだよ?」




「“俺”じゃなくて“俺たち”って言った。そんなふうに話すお前を見るのは初めてだ」




「バカ言うなよ。俺なんてまだまだ弱くて、情けないままだ」




「違うさ」




「違わない。まだ、自分の気持ち一つ貫けないような俺が……それで強いだなんて言えるかよ」




ヘクトルは黙ったまま、弟の言葉を受け止めていた。




「エデンや兄さんのことが、正直、羨ましいよ。自分の信じた道を迷いなく進めるなんて……そんな勇気、俺にはない」




「でも、本当は俺も、そんなふうになりたかった」




「パリス……違うんだ」




ヘクトルは弟をじっと見つめた。




「少なくとも、俺は……お前みたいになりたかった」




「えっ?」




「他人の気持ちを理解して、手を差し伸べてやれるような人間になりたかった。でも、俺にはそれができない。俺はただの戦うために作られた兵器に過ぎない。感情なんて持たない、空っぽな人間さ」




その目を逸らし、ヘクトルは地面を見つめる。まるで長年閉ざしていた感情が、今ようやく崩れ落ちたかのようだった。




「お前は違う。お前には、戦うかどうかを選ぶ権利がある。お前には強さだけじゃないものがあるんだ。……だから、きっと素晴らしい指導者になれる」




パリスは、そんな兄の姿を見つめていた。




力と意志の象徴だった英雄が、今、まるでひとひらの花のように崩れ落ちていく。




「こんな筋肉や武器に何の意味がある? 守りたいもの一つ守れないなら……」




――なぁ、パリス。本当に、この力で世界を変えられると思うか?




その問いに、パリスは何も答えられなかった。ただ、ずっと欲しかった“力”が、本当に欲しかったものではないと気づいた。




「パリス……お願いだ。俺たちとは違う道を歩んでくれ。この国の、いや、この憎しみに満ちた世界の未来を、お前なら変えられる」




ヘクトルは拳を軽く胸に当て、弟へと託すように力を込める。




その重みに耐えながらも、パリスは立ち続けた。




迷いと呼ばれる暗闇の中で、彼は一歩踏み出す。




名を“希望”とする光が、彼の足元に静かに灯る。




「……やってみるよ」




その声は震えていなかった。もう、迷いではない。決意の声だった。




「お前は強い。誰よりもな。自分の弱さを受け入れられる人間こそ、本当に強いんだよ、パリス」




そして――月だけが、その夜の真実を見ていた。




兄弟の弱さも、涙も、すべてをそっと照らしては、静かに包み込んでいく。




パリスが部屋へ戻ろうとしたそのとき。




「仲の良い兄弟ねぇ」




どこからともなく届いたその声に、パリスは足を止める。




月明かりの下、アフロディーテの姿が現れる。




「……全部聞いていたのか」




「ええ、まぁ。こんな美しい庭を歩いていたら、ついね」




「嘘はやめてください。あなたがそれだけでここに来るとは思えません」




女神は、まるで嘘が見破られたマジシャンのように、小さく笑った。




「取引をしに来たの。パリス王子」




「取引……?」




「あなたの心の中には、一人の女性がいる。ほかの男の妻である女性が」




「な、何の話をしている……?」




パリスの顔が青ざめる。誰にも知られていないはずの秘密が、暴かれたことに。




「隠さなくてもいいのよ。パリス王子」




アフロディーテの体から、ほんのりとした桃色の煙が立ち上る。




彼女は一歩近づくと、パリスの顎をそっと指で持ち上げ、目を見つめた。




「私にはわかる。あなたの奥底にある願望……すべて、ね」




「その女性の名は……ヘレネ、でしょう?」




「……そうだ」




「なるほど。禁じられた、幼い頃からの恋ね」




パリスは、彼女の手を振り払った。




その行動に、アフロディーテは少し驚いた。




「ふふ……意外だったわ」




「ごめん、アフロディーテ。あなたの魅力では、俺の心は変えられない。俺の心は、もう彼女だけのものだから」




「……本当に、幸せな女性ね。でも、二人が結ばれる未来はない。――そう思わない?」




「もういい、俺は部屋に戻らせてもらうよ。おやすみなさい」




パリスが歩き出す。




だが、アフロディーテの一言で、足が止まる。




「……彼女を、自分だけのものにしたくはない?」




「……なに?」




その言葉は、まるで砂漠に現れた一滴の水のようだった。




「興味あるのね?」




「説明してくれ」




「もし明日、私を選んでくれたら……あなたの願いを叶えてあげる」




パリスは、その提案に言葉を失った。




「ただの一言でいいのよ、パリス王子。明日、あなたが私の名を口にすれば、それだけで……あなたは彼女と永遠に幸せになれる」




風と共に、アフロディーテの言葉も姿も、夜の闇に溶けて消えていった。




パリスはその場に立ち尽くし、まるで今の出来事が夢だったかのように、空を見上げた。




「……どうすればいいんだよ」




彼の小さな呟きが、夜空へと吸い込まれていく。




そして、トロイアの地平線には、再び太陽が昇りはじめていた。




迷いと恐れ、そして選択に満ちた、新たな一日が始まる。




王宮の大広間で、パリスが下す“ささいな”決断が――




未来を変えるかもしれないなど、まだ誰も知らなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?