戦いの始まりに、心は剣となり、沈黙は嵐の予兆となる。
だが、本当に揺らぐのは、剣と剣の間ではなく──心と心の交差点だ。
炎のように燃える決意と、氷のように隠された傷が、ぶつかり合う。
強さとは、力を誇ることではない。
弱さを晒し、それでも歩みを止めぬ者こそが、真に強き者。
神の囁き、運命の誘い、人の欲望──
心の深くにある想いは、時として世界すら揺るがす。
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「時が止まったかのように、世界は静寂に包まれていた。壮絶な一騎打ちを前に、誰もが息を呑む——」
戦場に立つ二人の戦士が、互いを見つめ合う。その目は、一瞬たりとも相手から離れない。
「すごい…」
メイが呟く。視線を外すことができずにいた。
「二人とも、とんでもない力を持ってる…」
「……ああ」
パリスが答える。緊張を隠せず、頬を汗が流れていく。
場面が変わり、二人の戦士が正面から映される。決意と自信に満ちたまなざしを交わす。
エデンは余裕の笑みを浮かべ、まばゆいオーラを纏っていた。対するヘクトルは深く息を吐き、全身の力を抜いて構えを変える。
「始めるか?」
ヘクトルが低く、鋭い声で問う。その目は獣のように、エデンだけを狙っている。
「……ああ」
エデンは静かに答える。その言葉には、すでに勝利を見据えた確信があった。
次の瞬間、二人の身体が消える。人の目では捉えられない速度でぶつかり合う。
剣と剣がぶつかり、轟音が辺りに響き渡る。大地が揺れ、空気が震えた。
刃が火花を散らし、エデンとヘクトルは笑みを浮かべたまま、互いに一歩も譲らない。
力と力がぶつかり合い、両者が吹き飛ばされる。しかし、わずかな間に、エデンが再び前へ出る。目にも止まらぬ速さで斬撃を浴びせる。
ヘクトルは冷静に全てを受け止め、剣を捻るようにしてエデンの刃を逸らすと、迷いなく拳を放つ。
その一撃が腹に深く入り、エデンは血を吐いた。
倒れ込んだエデンに、とどめを刺そうと踏み込むヘクトル。
だがその瞬間、エデンの足がヘクトルの足首を打ち、バランスを崩させる。
「くそっ…!」
ヘクトルが心中で叫ぶ。体が地面に向かって傾いていく。
エデンはすぐさま足を振り抜き、蹴りを叩き込もうとする。
「喰らええええ!!」
しかし、ヘクトルは土を蹴って後方宙返りしながら体勢を立て直し、完璧なタイミングでその蹴りを受け止める。
エデンは数歩後退するが、顔には興奮の色が浮かんでいた。
「やるじゃん…」
「君こそな、エデン」
「悪いけど、もう手加減しないよ」
そう言うと、エデンの口から黒い煙が漏れ出す。
「なっ…何だと!?」
ヘクトルの瞳が驚愕に見開かれる。
「嘘…でしょ…」
メイの声が震え、恐怖に支配される。
彼女の身体が小さく震えている。
「悪魔…」
パリスが呟く。恐怖が顔に刻まれていた。
再び視点が二人の戦士へと戻る。エデンの周囲には凄まじい闇の気が渦巻き、ヘクトルは言葉を失っていた。
そのとき——
「やめなさい、もう!」
聞き覚えのある声が響く。
エデンが動きを止める。視線の先には、時を超えても変わらぬ美しさを宿す女神が立っていた。
「……先生」
エデンは小さく笑い、アフロディーテの姿に安堵する。
「久しぶりね、エデン。無事で良かったわ」
「先生がここに…何を?」
「ちょっとした用事よ」
アフロディーテは軽く顎で指す。そこには、彼女に続く数人の女神たちの姿があった。
「……なるほど」
「パリス王子、お時間をいただき恐縮ですが、お願いがございます」
アテナが真っ直ぐパリスを見つめる。
「お願い…ですか? 神々が僕に何を?」
「詳しくは道中で説明します。どうか、ご同行を」
「……わ、わかりました」
「後でまた話しましょう、エデン。いいかしら?」
アフロディーテが微笑む。
「はい、また後で……先生」
女神たちとともに、パリスはその場を後にする。残されたヘクトルが、エデンにゆっくりと近づいた。
「まさか…あんな力を隠していたとはな」
ヘクトルはまだ震える手で汗を拭った。
「……すみません、つい熱くなって」
「いや、謝る必要はないさ。むしろ嬉しいくらいだよ。本気で戦ってくれて」
「でも、ひとつだけ聞かせてくれ。どうしてその力を隠してる?」
エデンは少し黙り、視線を落とす。
「長い話になります。…数えきれないほどの物語があるんです」
「……そうか」
ヘクトルの目が優しく細められる。
まるで、その目に映る過去の傷を感じ取っているようだった。
「さてと、そろそろ行くとするか。父上に顔を見せないとね」
そう言うと、ヘクトルはメイのそばに歩み寄り、そっと耳元で囁いた。
「この少年を…頼むよ」
メイの頬がほんのり赤く染まり、言葉の意味を静かに受け止める。
同じ頃、トロイアの王宮では——
場面が切り替わり、パリスは三柱の女神と向き合っていた。
「な、何だって?!」
パリスは驚きの声を上げる。女神たちの要求の重さに、思わず息を呑む。
「まあまあ、三人のうち誰か一人を選べばいいだけよ。それで話は終わるんだから」
アフロディーテが微笑む。
「ちょっと、あんたねえ。パリス王子を操ろうとするの、やめなさいよ」
アテナが怒気をはらんだ目で睨みつける。
「うるさいわね。人間が決めればいいことよ」
ヘラが苛立ちをあらわにする。
(どうすればいい…?)
パリスは心の中で唸る。
(適当に選ぶ? いや、それじゃダメだ。誰を選んでも、他の二人はきっと報復を考える… だって彼女たちは女神だ。傲慢さは血に刻まれてる)
「どうしたの?人間。さっさと選びなさいよ」
ヘラの声が鋭く響く。
「…一日だけ、お時間をいただけませんか?」
パリスは深く頭を下げる。
「は?時間が有り余ってるとでも思ってるの?」
ヘラは苛立ちを隠さず声を荒げる。
「まあまあ、ヘラ。そんなに怒らないで。考える時間をあげたっていいじゃない。せっかくだし、王国を一緒に散歩でもしましょうよ」
アフロディーテが優しく宥める。
「勝手にすれば。でも…明日には必ず答えを出しなさい、人間。さもないと…後悔することになるわよ」
ヘラは舌打ちしながら背を向けた。
「は、はい…」
パリスは喉を鳴らし、冷や汗を浮かべる。
時が過ぎ、場面には一人思い悩むパリスの姿が映る。そこに、エデンが静かに現れた。
「顔色が悪いな、パリス」
「…そう見えるか?」
パリスは皮肉交じりに返す。
「何に悩んでるんだ?」
「なんで僕が選ばれたんだろうな。“三人の中で誰が一番美しいか?”なんて、どうでもいいことだろ」
「だったら、適当に一人選んで終わらせればいいんじゃないか?」
「冗談はやめてくれ。お前、神々のことを知らないのか?あいつらは気まぐれで、自分の思い通りにならないとすぐに怒る。誰を選んでも…その代償は大きい」
「…そうか」
「くそっ…」
その時、エデンは静かにパリスの肩に手を置いた。
「どんな選択でも、俺はお前を支えるよ、パリス」
「ありがとう、エデン」
パリスは小さく微笑んだ。
同じ日の夜、トロイア王宮の庭。
月明かりが、迷いに満ちたパリスの顔を静かに照らしていた。彼は歯を食いしばり、運命を呪うように小さくつぶやく。
――くそっ……なんで俺ばかり、こんな面倒ごとに巻き込まれるんだよ。
「どうした、弟よ。なんだか悩んでいるようだな」
その声に、パリスは顔を上げる。ヘクトルが庭へと足を踏み入れていた。
「兄さん……」
「眠れないのか?」
「まぁな……」
パリスは皮肉げな笑みを浮かべる。まるで避けられない運命を受け入れたかのような表情だった。
しばらくして、彼は神々から持ちかけられた“選択”の話をヘクトルに明かす。
「なるほど……正直、俺なら絶対に引き受けたくないな」
そう笑ったヘクトルに、パリスは真剣な眼差しを向ける。
「どうすればいいんだ……? どの選択肢を取っても、俺だけじゃなくて、この国全体が罰を受けるかもしれない」
「……お前、変わったな」
「何がだよ?」
「“俺”じゃなくて“俺たち”って言った。そんなふうに話すお前を見るのは初めてだ」
「バカ言うなよ。俺なんてまだまだ弱くて、情けないままだ」
「違うさ」
「違わない。まだ、自分の気持ち一つ貫けないような俺が……それで強いだなんて言えるかよ」
ヘクトルは黙ったまま、弟の言葉を受け止めていた。
「エデンや兄さんのことが、正直、羨ましいよ。自分の信じた道を迷いなく進めるなんて……そんな勇気、俺にはない」
「でも、本当は俺も、そんなふうになりたかった」
「パリス……違うんだ」
ヘクトルは弟をじっと見つめた。
「少なくとも、俺は……お前みたいになりたかった」
「えっ?」
「他人の気持ちを理解して、手を差し伸べてやれるような人間になりたかった。でも、俺にはそれができない。俺はただの戦うために作られた兵器に過ぎない。感情なんて持たない、空っぽな人間さ」
その目を逸らし、ヘクトルは地面を見つめる。まるで長年閉ざしていた感情が、今ようやく崩れ落ちたかのようだった。
「お前は違う。お前には、戦うかどうかを選ぶ権利がある。お前には強さだけじゃないものがあるんだ。……だから、きっと素晴らしい指導者になれる」
パリスは、そんな兄の姿を見つめていた。
力と意志の象徴だった英雄が、今、まるでひとひらの花のように崩れ落ちていく。
「こんな筋肉や武器に何の意味がある? 守りたいもの一つ守れないなら……」
――なぁ、パリス。本当に、この力で世界を変えられると思うか?
その問いに、パリスは何も答えられなかった。ただ、ずっと欲しかった“力”が、本当に欲しかったものではないと気づいた。
「パリス……お願いだ。俺たちとは違う道を歩んでくれ。この国の、いや、この憎しみに満ちた世界の未来を、お前なら変えられる」
ヘクトルは拳を軽く胸に当て、弟へと託すように力を込める。
その重みに耐えながらも、パリスは立ち続けた。
迷いと呼ばれる暗闇の中で、彼は一歩踏み出す。
名を“希望”とする光が、彼の足元に静かに灯る。
「……やってみるよ」
その声は震えていなかった。もう、迷いではない。決意の声だった。
「お前は強い。誰よりもな。自分の弱さを受け入れられる人間こそ、本当に強いんだよ、パリス」
そして――月だけが、その夜の真実を見ていた。
兄弟の弱さも、涙も、すべてをそっと照らしては、静かに包み込んでいく。
パリスが部屋へ戻ろうとしたそのとき。
「仲の良い兄弟ねぇ」
どこからともなく届いたその声に、パリスは足を止める。
月明かりの下、アフロディーテの姿が現れる。
「……全部聞いていたのか」
「ええ、まぁ。こんな美しい庭を歩いていたら、ついね」
「嘘はやめてください。あなたがそれだけでここに来るとは思えません」
女神は、まるで嘘が見破られたマジシャンのように、小さく笑った。
「取引をしに来たの。パリス王子」
「取引……?」
「あなたの心の中には、一人の女性がいる。ほかの男の妻である女性が」
「な、何の話をしている……?」
パリスの顔が青ざめる。誰にも知られていないはずの秘密が、暴かれたことに。
「隠さなくてもいいのよ。パリス王子」
アフロディーテの体から、ほんのりとした桃色の煙が立ち上る。
彼女は一歩近づくと、パリスの顎をそっと指で持ち上げ、目を見つめた。
「私にはわかる。あなたの奥底にある願望……すべて、ね」
「その女性の名は……ヘレネ、でしょう?」
「……そうだ」
「なるほど。禁じられた、幼い頃からの恋ね」
パリスは、彼女の手を振り払った。
その行動に、アフロディーテは少し驚いた。
「ふふ……意外だったわ」
「ごめん、アフロディーテ。あなたの魅力では、俺の心は変えられない。俺の心は、もう彼女だけのものだから」
「……本当に、幸せな女性ね。でも、二人が結ばれる未来はない。――そう思わない?」
「もういい、俺は部屋に戻らせてもらうよ。おやすみなさい」
パリスが歩き出す。
だが、アフロディーテの一言で、足が止まる。
「……彼女を、自分だけのものにしたくはない?」
「……なに?」
その言葉は、まるで砂漠に現れた一滴の水のようだった。
「興味あるのね?」
「説明してくれ」
「もし明日、私を選んでくれたら……あなたの願いを叶えてあげる」
パリスは、その提案に言葉を失った。
「ただの一言でいいのよ、パリス王子。明日、あなたが私の名を口にすれば、それだけで……あなたは彼女と永遠に幸せになれる」
風と共に、アフロディーテの言葉も姿も、夜の闇に溶けて消えていった。
パリスはその場に立ち尽くし、まるで今の出来事が夢だったかのように、空を見上げた。
「……どうすればいいんだよ」
彼の小さな呟きが、夜空へと吸い込まれていく。
そして、トロイアの地平線には、再び太陽が昇りはじめていた。
迷いと恐れ、そして選択に満ちた、新たな一日が始まる。
王宮の大広間で、パリスが下す“ささいな”決断が――
未来を変えるかもしれないなど、まだ誰も知らなかった。