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第102章: 人間であること

王国を定める決断がある。


ある決断は人間を定める。


しかし、心の真実以外には、何も定めない決断もいくつかある…それは心の真実だけである。


神々のゲームにおいて、人間の意志は権力の轟音にかき消されたささやきのように聞こえる。しかし、ささやきでさえ、誠実さから生まれたものであれば、風向きを変えることができる。かつて脆く疑念に満ちていたパリスの魂は、今、どんな戦場よりも大きな深淵に直面している。それは、彼を王子としてではなく…人間として定義づける選択である。


なぜなら、勇気とは、力、美しさ、知恵のいずれかを選ぶことではないからだ。


真の勇気とは、自分自身を裏切らないことにある。


そして、その選択は、たとえそれが小さく見えても、新しい時代の火花となり得る。


人間が神の気まぐれに屈しない時代。


自由に愛することが最大の革命行為となる時代。


──────────────────────────────────────


時間が止まったかのようだった。まるで、パリスの口から出る言葉を待って、運命が進む道を選ぼうとしているかのように。まるで、その言葉こそが、どの道を進むべきかを指し示すかのように——。




「で? 決めたのかしら、王子様?」


アフロディーテが意味深な微笑を浮かべ、パリスを見つめる。それに気づいた他の女神たちの表情が険しくなる。




「……はい、決めました」


パリスの声は静かだが、確かな意志を含んでいた。




「まさか、あの淫魔が何か仕掛けたんじゃないでしょうね? このアバズレが」


ヘラが挑発的にアフロディーテを睨みつける。




「私はただ、自分の持ち札を切っただけよ。あなたたちもそうしたでしょう?」




「この、ろくでなしが……」




「くだらない争いはもういい。王子の答えを聞く時だ」


アテナが厳しい口調で静める。




三人の女神の視線がパリスに突き刺さる。選ばれることへの欲望、執着——そのすべてが彼の決断にかかっている。




「……ぼくは……」


パリスの瞳には、まだ迷いと恐れが浮かんでいた。しかし、彼の脳裏には今までに交わした言葉たちが蘇っていた。




―――――――――――――――――――




〈女神たちからの提案のあった翌日〉


エデンがパリスの肩にそっと手を置く。




「どんな選択でも、俺はパリスを信じてるよ」




「……ありがとう、エデン」


彼は微笑み返す。




〈深夜、トロイの庭園で〉


「ねえパリス……この力で、本当に世界を変えられるのかな……?」


ヘクトルの瞳は、喜びではなく哀しみに濡れていた。




黙ってその姿を見つめることしかできなかった。


——そう、力が欲しかったはずなのに、それだけでは足りないことに気づいた夜。




「どうかパリス……僕たちとは違ってくれ。君ならきっと、この憎しみの連鎖を断ち切れる」




最後に浮かんだのは、たった一人の女性の姿。


彼が生涯をかけて愛すると決めた人——ヘレネ。




―――――――――――――――――――




アフロディーテの唇に、静かな笑みが浮かぶ。彼女には見えていた。パリスの心に宿るものが。




迷いは晴れ、パリスの瞳に宿ったのは、支えてくれた者たちへの愛。




「……ぼくは、誰も選びません」


彼は拳を握り、三人の女神をまっすぐに見据えながらそう言った。




「は……? それ、どういうつもりかしら? パリス」


ヘラが怒りを滲ませながら問い詰める。




「あなたたちの争いを終わらせることはできません。でも、この称号は……このぼくが心から愛する女性、ヘレネに捧げたいと思う」




「ふざけるな! さっさと選びなさいよ!」




「……断ります」


毅然とした声でそう告げると、パリスの視線はアフロディーテへと向かう。




「アフロディーテ様、提案してくださったことには感謝しています」


微笑みながら彼は続けた。


「確かに……最初は誘惑に心が揺れました。好きな人を手に入れるためなら、どんな言葉でも囁けた。でも——」




「自分だけのために、国を犠牲にするわけにはいかない。それは……彼女が望むことじゃない」




アテナがふっと微笑む。




「へぇ……驚いたわね、王子様。子供じみた噂しか聞いてなかったけど、どうやら少しは成長したようね。おめでとう」




「ふざけたことを……!」


ヘラの身体から凶悪な気配が噴き出す。それに圧されて、パリスは思わず膝をつく。




「……おい、何をしている」


アテナの表情がこわばる。




アフロディーテも冷や汗を浮かべながら、内心で呟く。




「ちょっと……マジでやばいんじゃない?」




「この老いぼれが暴走したら、洒落にならないわ……」




ヘラの憎悪は止まらず、その目は殺意に染まっていく。




「身の程を思い知らせてやる、人間が……!」




稲妻のごとく飛び出すヘラ。その一撃が轟音と共に放たれ、砂埃があたりを覆う。




「マジかよ……」


アフロディーテが呆然と呟く。




「……悪くない」


アテナが小さく笑う。




砂埃の向こう、そこに立っていたのは——




エデンだった。彼の剣が、神の一撃を受け止めている。




「邪魔よ、この虫ケラが……!」


ヘラの目に宿るのは、怒りと絶望。




「申し訳ないけど、王子を相手にするには、あんたは弱すぎる」


冷たい眼差しでエデンが応じる。




「人間の分際でぇぇぇぇっ!!」




ヘラの気配が宮殿を飲み込むように膨れ上がる。




宮殿の外——




地に伏すメイとヘクトル。立ち上がれぬほどの圧力。




「な、なんだこの重圧は……!?」


ヘクトルが呻く。




「ふざけるな、くそババア!!」


アテナが叫んだ瞬間、その身体が吹き飛ばされる。




一方——




エデンの精神世界。




「すまないな、ヴォラトラックス」




「フン。ずいぶん騒がしくなってるな、人間」


不敵に笑う悪魔。




「……俺は強い。でも、お前となら無敵になれる」


手を差し出すエデン。




「力を貸してくれ」




「それでいいのか?」


光の天使、ルズが問う。




「……すまない、ルズ。まだ、お前の力を受け止める覚悟がないんだ」




ルズは静かに目を伏せる。ヴォラトラックスが哄笑する。




「面白い奴だ……本当に」




その手と手が触れた瞬間、契約の鎖が生まれる——




―――――――――――――――――――




現実へ——




一瞬の出来事だった。誰も見ていない。それでも皆が感じた。




肌が、心が、本能が……訴えていた。




——“死よりも恐ろしい何か”が、目覚めたのだ。




暗黒の雷が、エデンを包む。まるで世界を呑む津波のように。




「こ、これは……!?」


アフロディーテが息を詰まらせる。




耳を裂くような咆哮が鳴り響く。残された者たちの瞳には、恐怖しか映らない。




「……ヤバい、本当にヤバいわ。エデンが暴走すれば……誰にも止められない」


震える息の中、アフロディーテが思う。




闇に包まれた彼の中で、一対の紅い瞳がヘラを見据えていた。




それだけで、ヘラの力がかき消える。




動けない。動きたくない。




——“動けば、殺す”




そう言われているようだった。




「こ、こんな馬鹿な……」


ヘラの体が震える。


「神のこの私が……人間の前に、ひ、ひざまずいているなんて……っ」




彼女は去る。恐怖に濡れた顔で。




彼女の気配が消えた瞬間、エデンの黒き力もまた、静かに風に消えた。




「……終わったな。お疲れ様、王子」


エデンは気を失ったパリスを背負いながら、静かにその場を去っていく。




残されたアフロディーテの瞳には、恐怖が宿ったままだ。




——かつては、力を制御できないことが怖かった。


だが今は違う。


「……どれだけ力を“制御できるようになったか”が、もっと怖い」




(エデンは地平線をじっと見つめている。アフロディーテが静かに歩み寄る)




「……彼の容態は?」


地平線から目を離さず、エデンが静かに尋ねた。




「意識を失っただけよ。ヘラの力に圧倒されてしまったの。」


アフロディーテは穏やかに答える。




「……それならよかった。」




「今度は私が聞く番ね。あなたの方はどうなの、エデン?」




「……何のことですか、先生。」




「皆を救ったのに、まるで自分を責めているみたい。なぜ?」




「……もしかしたら、他に方法があったのかもしれないって……」




「そんなもの、なかったわよ。私はそう確信してる。」




「……そうですか。」




アフロディーテはエデンのそばに立ち、同じ方向に視線を向けた。




「本当に変わったわね。」




エデンは少し驚いてアフロディーテを見る。




「変わった……って、どういう意味ですか?」




「自分のために戦うのをやめて、誰かのために戦うようになったのね。」




言葉を返すことができず、エデンはただ彼女を見つめる。




「ずいぶん成長したわね。……私は誇りに思ってる。」




その一言で、エデンは崩れるように地面にひざをつき、涙を流し始めた。




「僕は……皆を守りたいんです……メイも、シュンも、ユキも、シュウも、パリスも……みんなと幸せになりたい……でも……でもどうして……どうして僕は幸せになれないんだ……くそ……痛い……痛すぎる……」




アフロディーテは優しくエデンを抱きしめ、まるで母親のように彼を包み込んだ。




「成長したって、先生たちはあなたを守るためにいるのよ。……一人で全部背負わないで。甘えていいの、バカ。」




その声の奥で、彼女の脳裏にある名前が浮かぶ。目を伏せながら、静かに問いかける。


「どうして……あなたは……」




「……痛い……痛いよ……」


エデンの嗚咽は止まらなかった。




その抱擁を、遠くの影からメイが見つめていた。流れる涙が頬を濡らしていた──初めて見る、壊れたエデンの姿を。




プリアモスは、意識を失った息子の隣に立ち、ヘクトルとともに黙って見守っていた。言葉は交わさず、ただ静かに目覚めを待っている。




「……こ、ここは……?」


パリスが目をゆっくりと開け、かすれた声でつぶやく。




「パリス!」


二人は同時に声を上げ、彼のもとへと駆け寄った。




「……父上? 兄上? いったい、何が……」




「まったく、お前にはヒヤヒヤさせられる……」


ヘクトルはパリスを強く抱きしめ、胸をなでおろした。




「……女神たちは、どこに……? まだ……」




「他の二人は、もう去ったわ。」


穏やかな声が部屋に響き、アフロディーテがゆっくりと姿を現した。




「……そうですか。」




「正直に言わせてもらうけど、驚いたわよ。最初は私の誘惑にも屈しなかったし、その後も力なきまま三柱の女神に立ち向かった。まったく……驚かされるばかり。」




「……僕、間違っていたのかもしれません。」




「何の話だ?」


ヘクトルが眉をひそめながら、パリスの沈んだ表情を見つめる。




「……ただ逃げただけだった。選ぶ勇気がなかったんです。選ばないという選択が、最も正しいと思ってしまった……」




「決断によって、真の指導者は育つものだ。」


プリアモスがパリスの手をそっと取り、やさしく微笑んだ。




「……父上?」




「私の考え違いだったよ。ずっと、指導者とは民を力で導く存在だと思っていた。だが、お前は私にもっと大切なことを教えてくれた……。それは、最も強い者である必要はなく、民の夢と希望を自らの願いよりも上に置く勇気と意志を持つ者こそが、真の王だということだ。」




「でも……民は……」




「そうね、あなたの言うとおり。あの女は、あの屈辱のままで黙っているような相手じゃないわ。」


アフロディーテの目が鋭くなる。




「それでも、あなたは一人じゃないの。信じられる仲間が、すでにたくさんいるわ。それはあなたの勇気が呼び寄せた絆よ。」




パリスは周囲を見回し、そして気づいた。


──初めて、心から「一人じゃない」と感じた。




「……これが、幸福というものなのか……」


自然と微笑みが彼の顔に浮かんだ。




【数時間後・王の私室】




「……まったく、今日は波乱万丈だったな……」


プリアモスがぽつりとつぶやいた瞬間、激しく咳き込み始めた。




咳が止まったとき、彼の手には真紅の血が滲んでいた。もう……明らかだった。




「……もう、時間がないのか……」




彼は手をのばし、ベッドの脇に置かれたワインの杯に触れようとした。だが、そこで異変に気づいた。




「……空っぽ? おかしいな……」


しかし、運命は王に真実を知る猶予を与えなかった。時の神はすでに決断していた――その名も“命”という灯火は、今日、静かに消えるべきだと。




その夜、最後に響いた音は──


命を宿していたはずの杯が床に落ち、砕ける音だった。




それは一人の男の終わりであり、王の終焉であり、そして……賢者の静かな幕引きだった。

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