フェルディナンド公爵との顔合わせから、二週間ほどが過ぎた。
あの日以来、私――ノインは、“公爵閣下の婚約者”という立場になった。もっとも、それは表向きであって、エドラー伯爵家の人々の態度は一層冷たくなった気がする。彼らにとって私は「エミリアの代わりに差し出すだけの存在」であり、実際に私が公爵家で幸せになることなど微塵も望んでいないのだろう。
伯爵夫人は相変わらず私を見下した態度を崩さず、エミリアは公爵の婚約から逃れられた安堵のせいか、以前にも増して私を嘲笑するようになった。そして使用人たちは、「みそっかすをお姫様気取りにさせたくない」といわんばかりに、私がどんなに失敗に怯えようと容赦なく厳しくあたる。そんな日々の中、私だけが取り残されているような気がしてならなかった。
しかし、そんな私にとって、わずかな救いがあった。それは、時折フェルディナンド公爵から送られてくる書状である。彼本人がしたためているのか、家令や秘書代わりの騎士が代筆しているのかはわからないが、少なくとも“婚約が取りやめになった”という話は一切なく、「近日中に正式な婚約の儀を行うので、その準備を願いたい」という内容が繰り返し通達されてきた。
伯爵家から見れば、これは“早く処分したい荷物”の受け取り先がきちんと存在している証でもある。だからこそ、伯爵夫人もエミリアも「婚約破談にならず良かったわね、ノイン?」などと嫌味を言いながら、私を半ば監視するようにしているのだ。
ある朝、私は客間の掃除を命じられ、床に膝をついて雑巾掛けをしていた。昨日までの雨で足跡がついている部分を拭っていると、そこにエミリアが通りかかる。彼女は豪華なリボンで飾ったドレスに身を包み、まるでこれから舞踏会にでも行くかのようだった。
「おはよう、ノイン。今日も朝からお掃除? ご苦労なことね」
特に用があるわけでもなさそうだが、わざわざ私の近くで立ち止まり、からかうような笑みを見せる。私は俯きながら「おはようございます」とだけ返した。
するとエミリアは、床に膝をついている私を見下ろすようにして、思わせぶりに笑った。
「そういえば、フェルディナンド公爵閣下からまた手紙が来たわよ。『正式な婚約の儀は、三日後に執り行う』んですって。場所は公爵家の礼拝堂だそうじゃない。ふふ、いよいよねえ、ノイン?」
私は思わず手を止める。ついに“その日”が決まったのだ。もう少し先の話かと思っていたが、こんなにも急に決まるとは……。
「三日後……ですか……」
震える声で呟いた私を見て、エミリアはまるで楽しそうに笑い声をあげる。
「おやおや、もしかして緊張してる? まあ、無理もないわよね。あの“化け物”の妻になるんだもの。……ああ、想像するだけで恐ろしいわ。私だったら卒倒しちゃう。あなた、すごい度胸があるのね?」
明らかに皮肉だ。私は悔しい気持ちを抑え込むように、唇を噛む。だけど、ここで反論しても火に油を注ぐだけだ。
「……いいえ、そんなことは……ないです。」
しどろもどろに呟き、再び雑巾を動かし始める。エミリアは私を見下すように眺めていたが、しばらくして満足したのか、踵を返して去っていった。
(本当に、三日後には婚約の儀が行われるのか……)
誤魔化しではなく、本当に実施されるのだとしたら、いよいよ私の運命が大きく変わるときが来る。怖い。けれど、抵抗のしようもない。
私は掃除を終えて自室に戻ると、荷物の整理を始めた。何を持っていけるのかよく分からないが、使用人が勝手に処分してしまうかもしれない。孤児院で使っていた小さな人形も、ここの屋敷に来るときに持参したが、エミリアに「汚いから捨てなさい」と言われた記憶がある。でも、こっそり鞄の底に隠しているのだ。大した物ではないが、それでも私にとっては数少ない“過去の繋がり”だった。
(これを、公爵家に行っても手放さずにいられたらいいけど……)
するとそのとき、部屋の扉が控えめにノックされる。小さく返事をすると、キャロルが顔を出した。
「ノイン、ちょっといいかしら。奥様から言いつけられて、あなたの“衣装合わせ”を手伝うように言われたの。」
衣装合わせ――婚約の儀に着るドレスということだろうか。私はびっくりして立ち上がる。
「わ、わたしが着るドレスなんて……伯爵夫人は、何か用意してくださったんですか?」
キャロルは苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。
「“仕立てる時間も手間もないから、蔵にある服の中から適当に選ばせる”ということらしいわ。……でも、最低限の礼は尽くさないと、公爵閣下に失礼だものね。ほら、行きましょう。」
そう言って私の腕を引くキャロルの表情には、微かな憐れみが滲んでいるように見えた。
屋敷の奥へ案内されると、滅多に人が立ち入らない小さな部屋があった。そこには大きな衣装箱や埃をかぶったドレスが何着も並んでいる。恐らく伯爵家の倉庫代わりなのだろう。キャロルは懐中ランプを手に、視線を巡らせた。
「……古いものが多いわね。どこまで使えるかしら。まあ、何とかなるように頑張りましょう。たとえお古でも、あなたが綺麗に着こなせば、それなりに見えるかもしれない。」
私はおどおどしながら、キャロルの手伝いをする。埃を払いながらドレスを引っ張り出してみると、ほつれやシミが目立つもの、金具が壊れているものなど、状態はどれも微妙だ。
「あっ、これなら……。」
キャロルがそう言って手に取ったのは、淡いブルーの絹地のドレスだった。裾に細かい刺繍があり、一見すると上品な印象がある。確かに他のものよりは状態が良さそうだ。
「ところどころ色褪せているけれど、補修すれば誤魔化せるかもしれないわ。サイズも……うーん、少し大きいけれど、着付けで何とかなるでしょう。」
キャロルはそう言うと、手早くドレスの汚れをチェックし始める。「ほら、袖のレースが破れてるから、私があとで縫っておくわ。金具も新しいのを取り付けないと……。」と呟きながら、器用に針を通し始めた。その姿を見て、私は素直に「すごいな」と思う。同時に、こんな雑な扱いを受けても、何とか体裁を整えようとするキャロルの姿勢がありがたかった。
(キャロルさんは、優しい人だ。私のためにここまでしてくれるなんて……。)
孤児院で私に構う大人はほとんどいなかったが、ここではキャロルがいなければ、私はもっとひどい目に遭っていただろう。彼女は伯爵夫人の侍女として仕えているが、その裏で私が潰れてしまわないよう支えてくれている。おそらく本人も苦しい立場にあるはずなのに、そうとは思えないほど懸命だ。
私はドレスを抱え直し、申し訳なさそうに言う。
「キャロルさん……すみません。いつも助けてもらってばかりで……。」
キャロルは少しだけ目を丸くして微笑んだ。
「いいのよ、気にしなくても。……あなたを見ていると、昔の自分を思い出すの。私も、親のいない孤児同然で、伯爵夫人に拾われたようなものだからね。」
その言葉に、私は息を呑んだ。そういえば、キャロルがどうして伯爵家で働いているのか、詳しく聞いたことはなかった。
「そんな……じゃあ、キャロルさんも……。」
キャロルはゆっくりと首を振り、針仕事に戻りながら静かに語る。
「ええ、実の両親は幼い頃に亡くなって、親戚の家を転々としていたの。でも、あるとき伯爵夫人が私を見初めてくださって、“侍女として働くなら面倒を見てあげる”って言ってくださったの。お金をもらいながら衣食住も保障していただけるなんて、当時の私には夢のようだったわ。」
私は驚きながらも、彼女の横顔を見つめる。伯爵夫人という人は、私にとっては冷たい印象しかないが、キャロルの人生にとっては“救い”だったのだろうか。
「……それじゃあ、今のキャロルさんの立場は……」
キャロルは苦笑いを浮かべた。
「もちろん、伯爵夫人を恨んでいないわけではないのよ。あの方は本当に身勝手で、自分の利益しか考えない人だから。でも、“生きる手段”を与えられたのは事実だもの。だから私は、命令に逆らえない。伯爵夫人があなたを苛めても、それを止めることはできないのよ……。」
その言葉は重く、痛々しい。だが、同時に私は彼女の置かれた状況がいっそう理解できる気がした。いわば私と同じ立場。ここで働く以外の選択肢がほとんどなく、抗えば居場所を失う。だから、表面上は夫人に従うしかないのだ。
暫しの沈黙が降りる中、キャロルは手を止めて私を見た。
「でもね、ノイン。あなたが公爵家に行けば、少なくともエドラー伯爵家から離れられる。もしかしたら、“化け物”などと言われている公爵閣下も、本当は違う方かもしれない。……だから、諦めないで。これから先、何が起きるかわからないわよ。」
その優しい言葉は、まるで希望の光のように胸に染み渡った。私も、そうであってほしいと心から願う。どんなに外見が恐ろしいとしても、きっと彼は何らかの事情があって、ああなってしまったのではないか。もし本当の彼を知ることができたなら……私は単なる“身代わり”以上の存在になれるだろうか。
しばらくして、私たちは無言でドレスの補修を続けた。埃だらけの倉庫の中で、キャロルがちくちくと針を動かし、私は細かな装飾を手伝う。それはまるで、一瞬だけ平穏な時間が訪れたようだった。
――そして、三日後。
朝早くから私はキャロルとともに支度を始めた。婚約の儀に出席するため、フェルディナンド公爵の迎えの馬車がやって来るからだ。ドレスを着付け、簡単な化粧を施し、髪をまとめる。
鏡に映る自分の姿は、まだどこかぎこちない。何度やっても落ち着かず、胸の鼓動が早まる。孤児院時代には考えられなかった華やかな衣装――と言っても、よく見るとほつれ痕を繕った痕跡や色褪せは否めないが、それでも私にとっては十分すぎるほどだった。
仕上げに、キャロルがスカーフのようなものを首元に巻いてくれる。これは元々ドレスの一部ではなかったらしいが、襟の破れを隠すためにアレンジしたのだという。
「どうかしら。少しは“貴族の娘”らしく見えるようになったと思うけれど……」
キャロルの声に私はこくんと頷き、恐る恐る「ありがとうございます……」と呟いた。
そのとき、部屋の外から使用人が声を上げる。「公爵家の馬車が到着しました!」
私はぎゅっと拳を握る。これで、本当に行くのだ。フェルディナンド公爵のいる場所へ。
(こわい。でも……やるしかない。)
玄関ホールへ向かうと、エドラー伯爵と夫人、そしてエミリアが待ち構えていた。夫人は私の姿を見て、鼻で笑う。
「ずいぶんと安っぽいドレスね。でもまあ、あの化け物にはお似合いかしら。さあ、行きなさい。恥だけはかかないようにね。」
エミリアもどこか薄ら笑いを浮かべている。伯爵は一言も口を開かず、わずかに眉をひそめているだけだ。私には「もう用は済んだ」という雰囲気がありありと伝わってくる。
私は何も言わず、馬車に乗せられた。従者は一人だけついてくるらしいが、伯爵家の人間ではなく、公爵家から派遣された騎士という話だ。つまり、エドラー家は私を公爵へ丸投げするつもりなのだ。どこまでも冷たい扱いに、内心では涙が出そうになるが、私はぐっと堪えるしかなかった。
馬車が走り出し、見慣れぬ街の景色を通り過ぎながら、一時間ほど経っただろうか。大きな門を抜けると、広大な敷地が目の前に広がる。遠くに見える城館のような荘厳な建物が、フェルディナンド公爵の邸宅なのだろう。周囲には厳重な警戒を窺わせる兵士の姿があり、“化け物公爵”と噂されるだけあって、他の貴族の屋敷とは雰囲気が異なる。
門をくぐった途端、敷地内には庭園が広がっているのが見えた。手入れの行き届いた木々や花壇が整然と並び、正面には噴水が噴き上がっている。ここまで美しく造り込まれた庭を見て、私は少しだけ意外な気がした。
(公爵閣下の屋敷なのに、こんなに綺麗なんだ。化け物だから、もっと荒れ果てているのかと思ってた……)
馬車が石畳の広場で停まると、先導していた騎士が扉を開けてくれる。外へ足を降ろすと、冷んやりとした風が緊張を冷やすように感じられた。
玄関前には、複数の使用人らしき人々が整列していた。その中央に、見覚えのある異様な姿――フェルディナンド公爵が立っている。彼はあの日と同じく、角と鱗を持つ体で、深い色のマントを身につけていた。
私が一礼すると、公爵は小さく顎を引いて応じる。鋭い瞳が私のドレスを一瞥し、ほんのわずかに目尻が動いた気がしたが、その感情を読み取ることはできない。
「……ご足労だったな、ノイン。婚約の儀の準備は、すでに整えてある。これから礼拝堂へ案内しよう。」
低い声でそう言うと、公爵は踵を返す。私も慌てて後を追った。
屋敷の中へ踏み入れると、内装は外観に負けず劣らず壮麗だった。大理石の床と漆喰の壁には、神話を描いた絵画や紋章が飾られている。天井は高く、数多くのシャンデリアが光を放っていた。
(こんなに豪華な空間……私なんかがいていいのかな……)
圧倒されそうになるのを必死で堪える。公爵と数人の使用人、そして護衛の騎士たちに囲まれながら廊下を進むうち、やがて重々しい扉の前で立ち止まった。扉には巨大な紋章が刻まれており、二人の兵士が扉を左右に押し開く。中からは神聖な空気が流れ出るように感じた。ここが礼拝堂なのだろう。
礼拝堂の中へ入ると、外の華やかさとは対照的に、厳粛な雰囲気が漂っていた。高い天井にステンドグラスがはめ込まれ、差し込む光が床に色とりどりの模様を描いている。祭壇の前には神官らしき人物が立ち、その隣には控えめな衣服を纏った数人の神職者が並んでいた。
フェルディナンド公爵は祭壇へ進み、私に手で合図する。私は緊張で足元がふらつきそうになりながらも、公爵の隣へと歩み寄った。
神官が無表情のまま私たちを見つめ、静かな声で言葉を告げる。
「フェルディナンド・イシュタール・フェルディナンド公爵殿下。そして、ノイン・エドラー……。汝らは本日、この場において婚約の誓いを結ぶことを望むか?」
公爵が深く頷き、低い声で答える。
「望む。」
私の番だ。声を出さなければ。――恐怖と不安が入り混じる中、勇気を振り絞るようにして答えた。
「……の、望みます……。」
その瞬間、神官が厳かな調子で聖句を唱え始める。声が礼拝堂の天井にこだまし、私は背筋が伸びる思いだった。
そして、儀式の一環として、公爵が左手を差し出した。鱗に覆われた大きな手。私は躊躇いながらも、右手でそっと重ねる。ざらりとした鱗の感触に背筋がぞくりとしたが、同時にどこか体温を感じた。やはり生きている――当たり前だが、彼も人間なのだ。
「……」
公爵は無言のまま、私の手を軽く握り返す。すると、神官がさらに祝福の言葉を述べた。
「これより汝らは、神と皆の前に、真に結ばれる約束を交わす。いずれ正式な婚姻の儀を行うまで、その約束を貫き通すことをここに誓うか?」
公爵が目を閉じ、静かに頷く。私も、それに合わせて頷いた。本当はどうすることもできない立場なのだが、少なくともここで拒否するわけにはいかない。私は自分の運命に身を委ねるしかなかった。
短い沈黙の後、神官が両手を広げて宣言する。
「フェルディナンド公爵閣下とノイン・エドラーの婚約は、神の御前において正式に承認された。……神の祝福を。」
やわらかな拍手が礼拝堂に響く。公爵の使用人や護衛らしき者たち、そして神職者たちが拍手を送っている。それが何の感情からの拍手なのか、私には判断がつかない。ただ、儀式の建前として行っているだけかもしれない。
一方、公爵は相変わらず仏頂面で、感情の波を一切見せなかった。私は不安を抱えながらも、少なくとも儀式は滞りなく終わったのだ、と安堵する。――これで、私の立場は“公爵家の婚約者”として公に認められた。今後はエドラー家ではなく、フェルディナンド公爵の庇護の下で生きることになる……はずだ。
儀式が終わると、神官たちはすぐに退席し、礼拝堂に残ったのは私と公爵、そして彼の護衛や侍女ら数名だけになった。重々しい空気が漂う中、公爵は私の方に向き直る。
「……無事に終わったな。これで、お前は正式に“わたしの婚約者”だ。……ノイン。」
初めて、彼が私の名を呼んだ気がする。私は思わず息を詰まらせたが、なんとか声を出した。
「は、はい……ありがとうございます。」
「礼を言うのは、こちらのほうかもしれんな……。誰も嫁ごうとせん相手に、こうして来てくれたのだから。」
低く落ち着いた声音。どこか自嘲が混じっているようにも聞こえた。
(やっぱり、公爵閣下は、あの外見のせいで誰からも避けられているんだ……。)
そんな思いが頭をよぎる。外見だけを理由に拒絶されるのは、孤児院時代に“みそっかす”と呼ばれた私からすれば、人ごとと思えない。どれほど辛い気持ちを抱えているのだろう――と思う反面、まだ彼がどんな人か全く掴めていないのも事実だ。
公爵はわずかに視線を落とし、私のドレスを見下ろした。そして、一瞬だけ眉間に皺を寄せる。
「そのドレス……着古されているな。」
素直な感想だと思うが、言われた私の胸にはちくりと痛みが走る。「みすぼらしい」と言われるのでは、と身構えたが、公爵の口調には非難や侮蔑の色が感じられない。むしろ、少しだけ心配そうだ。
「……お前の身体に合っているようには見えん。伯爵家がお前にふさわしい衣装を用意しなかったのか?」
その問いに、私はどう答えていいかわからず困惑する。正直に言えば、伯爵家は私を“身代わり”としか思っていないから、ちゃんとした衣装など用意してくれなかったのだ。だけど、それを公爵に告げるのも気が引ける。
「えと……あの、いろいろと……急だったので。」
消え入りそうな声で誤魔化すと、公爵は何も言わずに頷く。そして、後ろに控えていた執事らしき老人に目をやった。
「ラドクリフ。至急、この娘に合う衣装と、侍女を用意してやれ。……本来なら、わたしの花嫁として相応しい支度をさせなければならんだろう。」
淡々とした口調だったが、その言葉に私は思わず目を見開く。まさか、“花嫁として相応しい支度”なんて考えてくれるとは思っていなかった。
執事のラドクリフと呼ばれた老人は恭しく一礼する。
「かしこまりました、公爵閣下。ノイン様のご身分にふさわしいお部屋と衣装を手配いたしましょう。」
「頼む。……それと、こいつが慣れるまでの間、余計な口出しは無用だ。お前たちもわかっているな。」
公爵が護衛や侍女たちに目をやると、皆静かに頷き、礼拝堂から退室していく。
私には、何が起こっているのかよく分からない。ただ、公爵は当然のように私を“自分の婚約者”として扱い、必要なものを与えようとしている。それが私には、不思議なくらい新鮮だった。
礼拝堂を出たあと、公爵は私に向き直り、少しだけ遠慮がちに言う。
「……わたしは、領内の巡回や政務が多く、屋敷にいないことが多い。結婚の儀までの間は、この屋敷で自由に過ごしてくれて構わない。もし困ったことがあれば、ラドクリフか侍女たちに言えばいい。」
「は、はい……。ありがとうございます……。」
たどたどしく答える私に、公爵は「そうか」と頷き、遠くを見やるようにして淡々と続ける。
「わたしの姿が怖いか? ……好きでこのようになったわけではないが、慣れぬ者には耐えがたいだろう。」
その声にはどこか諦観が混じっていた。きっと、これまで数多くの“拒絶”を受けてきたのだろう。
私は改めて公爵の姿を見つめる。角や鱗が不気味なのは事実だし、光の加減によってはとても人間に見えない。しかし、不思議と“拒絶”を感じるよりも、“何か秘密があるのでは”という興味を抱いてしまう。
(本当に呪いなのだろうか。それとも先祖に魔物の血が入っているのか……? そんな噂も聞いたけれど、本人に確かめるわけにもいかないし……。)
私は正直な気持ちを口にする。
「……最初は、正直、怖かったです。でも、こうしてお話ししてみると……公爵閣下は、普通の人と変わりません。あ……いえ、その、失礼な言い方かもしれませんが……。」
支離滅裂な物言いだが、公爵は咎めず、どこか複雑な笑みのようなものを浮かべた……気がする。
「そうか。……まあ、ゆっくり慣れるがいい。お前に会うのは、今日が初めてではないが、まともに話をするのはこれが初めてだからな。」
確かに、あの日のパーティではほとんど会話を交わさなかった。こうして面と向かって話すのは、まさしく初めてだ。
公爵は護衛の騎士の一人に向けて「では、わたしは執務へ戻る。ノインを部屋まで案内してやれ」と命じる。騎士が恭しく頭を下げると、公爵は廊下を渡って別の方向へと去って行った。
私はその後、ラドクリフ執事と侍女たちに案内され、広々とした部屋に通された。壁には美しい壁紙が貼られ、大きなベッドと化粧台、そして暖炉まである。部屋の窓からは庭園が見渡せて、花々が風に揺れる様子が見えた。
「こちらが本日より、ノイン様にお使いいただくお部屋でございます。身の回りの世話をする侍女もすぐに手配いたしますので、何かありましたら遠慮なくお申し付けください。」
ラドクリフ執事は淡々と説明してくれたが、私はあまりに豪華な環境に唖然とするばかりだ。これほど立派な部屋を、“私”が使っていいのだろうか。
「そ、そんな……私なんかが、こんな立派なお部屋を……」
思わず口にしてしまうと、執事は微笑みのような表情をつくった。
「ノイン様はフェルディナンド公爵閣下の婚約者にございます。……どうか遠慮なさらずおくつろぎください。何か不都合があれば、すぐに私どもがお直しをいたしますので。」
有無を言わせない調子に、私はどう返事していいのか分からなかった。ただ、おずおずと「ありがとうございます」とだけ伝え、部屋に残される。
扉が閉まると同時に、私はその場にへたり込んだ。――あまりのことに、頭が追いつかない。今朝まではエドラー伯爵家で冷たい仕打ちを受けていたのに、今はこうして、公爵家の“婚約者”として立派な部屋を与えられている。
(これは夢なの? 本当に、こんな生活が始まるの……?)
しかし、ぼんやりしている暇もなく、すぐに一人の侍女がやって来た。まだ若い女性で、名前をマリオンというらしい。彼女は落ち着いた物腰で私に一礼すると、テキパキと部屋の確認を始めた。ベッドリネンやクッションの配置、クローゼットの中まであれこれと調べ、「問題はありませんね」と呟く。
私は目を白黒させながら、マリオンに尋ねる。
「えっと……マリオンさん。これから、私はここで……どんな風に過ごせばいいんでしょうか……?」
マリオンは小首をかしげ、柔らかな声で答えた。
「特に決まりはございません。公爵閣下は、ノイン様が自由にお過ごしになることを望まれております。屋敷の中や庭園をご散策いただいても構いませんし、お部屋で本を読まれても、音楽室で楽器を弾かれても結構です。お食事のお時間や、侍医の健診など、必要なときに私がお呼びに参りますので。」
そのあまりの“自由さ”に、私は驚きを隠せない。孤児院やエドラー伯爵家での生活からは想像もつかないほど、ここでの扱いは丁寧だ。
「そ、そうなんですね……ありがとうございます。……公爵閣下は、今、どちらに……?」
「執務室でお仕事をされています。領地の管理や、王都からの依頼事項など、常に多忙でいらっしゃいます。閣下から『呼ぶまでは部屋で待つように』とのお達しがございましたので、もし閣下にご用があれば、私を経由してお伝えください。」
どうやらすぐに公爵と話す機会はなさそうだ。まあ、それも仕方ない。私はまだこの屋敷の中をよく知らないし、公爵が多忙なのは当然だろう。
そう考えながらも、ふと胸がチクリと痛む。――私は伯爵家から“押しつけられた身代わり”に過ぎないが、それでも公爵は私に何かしらの配慮をしようとしてくれている。もしこれが“義務”や“形式”ではなく、“彼自身の優しさ”からくるものだとしたら……。
(公爵閣下も、もしかすると、あの見た目とは裏腹に、心優しい人なのかもしれない……。)
マリオンが部屋を出て行くと、私は誰に遠慮するでもなく、広いベッドに腰掛けて天井を仰いだ。こんなにふかふかの寝具は、孤児院時代もエドラー伯爵家でも味わったことがない。
(ここで、私は本当に自由になれるの……?)
疑いと期待の入り混じった感情が渦巻く。エドラー伯爵家の圧迫感やいじめから解放されるのは、確かに喜ばしいことだ。でも、これから先、私がどんな人生を歩むのかは全くわからない。
今のところ、公爵は私に対して乱暴な態度を見せてはいない。むしろ、それなりに配慮してくれている。けれど、いつ何が起こるかわからないのも事実だ。世間の噂どおり、本当に恐ろしい“化け物”の本性を見せるときが来るのかもしれない。
だが同時に、私は感じていた。――もし公爵の“呪われた姿”に何か秘密があるのなら、それを知りたい。それが呪いによるものだとしたら、解く手段はないのか。もし、私に何かできることがあるのなら……。
実は、私はごく幼い頃から、“不思議な力”を持っているのではないかと感じる瞬間があった。孤児院で、怪我をした子の手を握ったら痛みが和らいだことがある。それを見た他の子供が「お前、魔女なんじゃないのか」と囃し立て、シスターに怒られたこともあった。その後は怖くなって、その力を使うことを避けてきたけれど……。
(まさか、私が公爵閣下の呪いを解けるとか、そんな都合のいい話があるはずがない。でも……もし万が一、何かの役に立てるかもしれないのなら……。)
そんな浅はかな夢想を抱いてしまうのは、きっと彼の孤独そうな瞳が気になったからだ。私の名前を呼んでくれたあの低い声が、耳から離れない。
――私は、ただの“みそっかす孤児”に過ぎない。それはわかっている。だけど、少しでも“自分の居場所”が欲しいと思ってしまうのは、わがままだろうか。公爵にとって、私という存在がいつか“不要”にならないように……。
そんな不安と願いを胸に抱きながら、私は静かに目を閉じた。柔らかなベッドの感触に、思考がぼんやりとしてくる。長い一日だった。婚約の儀を済ませ、伯爵家を出た今、初めて心が安らぐ気がした。
窓の外では、夕暮れの陽が差し込み始めている。闇夜が来る前の、わずかなひととき――。私はこの静寂の中で、自分の鼓動を感じながら、これからの運命を思わずにはいられなかった。
――こうして、私の新たな生活が始まる。化け物公爵の婚約者として。
エドラー伯爵家で味わった苦しみから解放された代わりに、今度はこの屋敷で、公爵の“秘められた呪い”に触れることになるのだろうか。
まだ何もわからない。だけど、“身代わり”のまま終わるのは嫌だ。私がこの場所で、ただの飾りとして扱われるのではなく、いつか本当に“公爵の花嫁”になれるとしたら……。
ほんの少しだけ、期待の混じった想いを胸に、私は夕焼けに染まる窓を見つめ続けた。