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伯爵家に引き取られてから、半月ほどが経った。
エドラー家の屋敷での生活に、私はまだまったく慣れたとはいえなかったが、それでも当初に比べると、少しずつ屋敷内の作法や人々の顔を覚え始めていた。何より孤児院のような質素な環境と違い、ここでは毎日三度の食事がきちんと与えられ、寝起きする部屋も整えられている。そういった意味では、生活水準は格段に上がったと言えた。
しかし、快適な生活が手に入ったからといって、私が幸せだと感じているかというと――正直、そうとは言い切れない。
伯爵夫妻やその娘エミリアは、私を「養女」と呼びはするものの、まるで下僕のように扱うことが多かった。命令口調こそ控えているが、その本心が透けて見えるような冷たい視線、時折投げかけられる辛辣な言葉の数々は、孤児院でいじめられていた経験を思い出させる。
とりわけエミリアは、私を疎ましく思っているのが露骨だった。
「みそっかす孤児のくせに、この家で暮らさせてあげてるんだから感謝しなさい」
そんな言葉を私が耳にするのは、一日に一度や二度ではない。
使用人たちの態度も、お世辞にも温かいとは言えなかった。
――もっとも、彼らからすれば、突然どこの馬の骨とも知らない孤児が「伯爵家の養女」としてやってきたのだから、面白くないのは当然だろう。
「あんな子、いったい何の役に立つのかしら」「伯爵様も変わった趣味がおありね」
聞こえよがしにそう囁かれるのには、もう慣れてしまった。むしろ、その程度の陰口なら可愛いものだとすら思えてくる。
そんな中で、唯一まともに口を利いてくれるのは、侍女のキャロルという女性だった。
二十代半ばくらいの、茶色い髪を後ろできっちりまとめた落ち着いた印象の女性で、伯爵夫人に仕えているらしい。夫人が私を呼び出すときは、たいていこのキャロルが使いにやって来る。最初は「あまり近づきたくない」とでも言いたげなよそよそしさを感じたが、私が素直に作法を学ぼうとすると、キャロルは根気強く教えてくれた。
――もっとも、その優しさは無償ではない、とも思っている。
キャロル自身も、伯爵夫人という主に仕えている以上、私をいびるのは本意ではないが、そうしなければ立場が危うくなる……という苦しい事情があるのだろう。私への態度が微妙に揺れるのは、その葛藤ゆえなのかもしれない。
そんな折、ある日の午後。私は伯爵夫人に命じられ、居間の掃除をしていた。
本来なら使用人の仕事だが、私は“養女”という立場にありながら、こうした雑用を押し付けられることが多い。おそらく「貴族の作法を教えるより先に、まずは奉仕の精神を学べ」とでも考えているのだろう。
豪華な装飾の施されたサイドボードや、細工の細かいテーブルを布巾で拭きながら、私は孤児院時代にも増して気を遣うようになった。なぜなら、ほんの少しでも傷をつけたらどんな罰が待っているかわからないからだ。
やがて、一通り掃除を終えたころ、居間の扉が開いてキャロルが顔を出した。
「ノイン。奥様があなたをお呼びよ。急いで応接室に来なさいって。」
相変わらず冷たい響きだが、私は「はい」と素直に答え、用具を片付けてから廊下を小走りに進む。心臓が少しだけ高鳴る。夫人が私を呼び出すときは、たいてい嫌な予感がするからだ。
応接室の扉を開けると、そこには伯爵夫人とエミリア、そしてエドラー伯爵の三人が集まっていた。普段は日中、伯爵は別の部屋で政務や業務的な話をしていることが多いから、こうして家族そろっているのは珍しい。
私が扉口で軽く頭を下げると、夫人はソファに腰掛けたまま、人差し指で床を示すようにして「ここまでいらっしゃい」と命じる。おとなしくその場に立つと、夫人はまるで品定めするように私を見つめて、口を開いた。
「ノイン。今週末、私たちは隣国の使節を迎えるためのパーティに出席するわ。……その準備の関係もあるのだけれど、あなたに伝えておかなければならないことがあるの。」
私は思わず身構える。パーティに関わることなど、どうせ私には無縁の話だろう。どんな雑用を押し付けられるのだろうか……と思っていると、横に座っていたエミリアが嫌な笑みを浮かべた。
「……あら、ノイン。あなた、知らなかったの? 今回のパーティには、フェルディナンド公爵閣下もいらっしゃるのよ。噂の“化け物”公爵、と言ったほうがわかりやすいかしら?」
エミリアの言葉に、伯爵夫人もうなずく。
「そう。そのフェルディナンド公爵閣下との縁談を、私たちは実は進めているのよ。――本来は、エミリアがそのお相手になる予定だったのだけれど……」
そこで夫人はわざとらしく口を止めて、横目で私を見やる。
「でも、エミリアにはもっとふさわしい相手がいるでしょう? フェルディナンド公爵は、噂を聞いているわよね。禍々しい角が生え、身体は爬虫類のように鱗があって、どす黒い血走った目……。とても人間とは思えない容貌だって、社交界で囁かれているわ。」
エミリアはまるで怪談話でもするように、得意げに肩をすくめる。
「公爵閣下の領地は広大で財も潤沢だけれど……あの異様な姿じゃ、結婚したい娘なんて誰もいないわよね。だからきっと、エドラー家との縁談を持ちかけてきたのよ。ウチは名門だからね。そしたらお父様が、“この子ならちょうどいい”って、あなたのことを紹介してあげたってわけ。……良かったわね、ノイン。これであなたも大貴族に嫁げるわよ?」
クスクスと嫌な笑い声が部屋に響く。私には何がなんだか理解できなかった。突然出てきた「フェルディナンド公爵」という人物――化け物と呼ばれている男との結婚話? どうして私がそんな話に巻き込まれているのか、頭が真っ白になる。
伯爵が口を開く。
「公爵閣下は、以前からエミリアとの縁談を希望されていたんだ。しかし、エミリアをあの姿の男のもとへ嫁がせるのは、さすがに忍びない。そこで……“代わり”が必要だった。だから、お前を養女に迎えたのだよ、ノイン。」
あくまで淡々とした口調でありながら、その声音は私に有無を言わせない圧力をかけているように感じた。
――つまり私は、エミリアの身代わりとして、化け物と噂される公爵のもとへ送り込まれる道具にされるのだ。
喉が乾いて声が出ない。私が驚きに言葉を失っていると、伯爵夫人が足を組み替えて言葉を続ける。
「本当はね、この話はもっと早く決まる予定だったのよ。でも、公爵閣下が“直接顔を見て決めたい”と言っていたから。私たちも、いきなりノインを押しつけるわけにはいかないでしょう? 一応、形だけでも『養女』にしておいて、それなりの“体裁”を整えなければならなかったの。……ああ、心配しなくていいわ。婚約が成立すれば、あなたは正真正銘『エドラー家の娘』として公爵家に嫁ぐことになるのよ。まるで夢みたいでしょ?」
その言葉には、皮肉と嘲笑が混じっているのがはっきりと分かる。エミリアが楽しそうに笑みを漏らす。
「だってノイン、あなたは孤児なんだから。他に行き場はないわよね? 化け物公爵だろうと何だろうと、おとなしく嫁ぐほうがいいわよ。断ったら……どうなるか、わかっているでしょう?」
私は歯を食いしばるしかなかった。確かに、断るという選択肢は今の私にはない。私はエドラー伯爵家に養女として迎えられた“借り”がある形だし、外へ放り出されたら生きていく術もない。そもそも、伯爵が孤児院から私を引き取った目的が“これ”だったのだとすれば、ここに踏みとどまる道など最初から用意されていない。
“養女”というのは仮初めの肩書きでしかなく、実のところ私は伯爵家にとって都合のいい生贄に過ぎないのだ。
震える声を抑えながら、私は思わず問いかけた。
「……公爵閣下は、本当に……“化け物”なんですか……?」
そう口にした途端、エミリアが吹き出すように笑った。
「何を今さら! あの公爵の姿を見たことがある人は、皆口を揃えて“あれは人間じゃない”って言ってるわ。呪いにでもかかっているとか、先祖に魔物の血が混じっているとか、噂はいろいろあるけれどね。確かなのは、ほとんどの貴族令嬢が“あんな相手とは絶対に結婚したくない”と恐れているということよ。」
伯爵夫人も軽くうなずき、静かな声音で続けた。
「もちろん、公爵の領地は豊かだし、爵位だって王国における最上級。財力と地位は申し分ないのよ。でも、あの見た目だもの……エミリアには、もっとふさわしい相手がいるに決まってるでしょう? だからあなたが代わりになるのよ。むしろ光栄に思いなさいな。」
どこまでも傲慢な言葉だった。まるで私に選択肢などない、と言わんばかりだ。いや、実際ないのだろう。私の存在理由は、ただ「エミリアの代わりになる」という一点に尽きる。
私はぎゅっと拳を握りしめて俯いた。伯爵家に引き取られたとき、ほんの少しだけ抱いた“幸せになれるかもしれない”という淡い期待は、もろくも崩れ去った。
(結局は、私は道具なんだ。ずっと変わらない。孤児院でもここでも、私は結局みそっかす扱い……)
悔しさと虚しさで胸がいっぱいになる。だが、それを口にしたところでどうにもならない。私はただ、三人の大人――伯爵と夫人、そしてエミリアの冷たい視線に耐えながら、嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった。
すると伯爵が立ち上がり、そっけなく言った。
「そんなわけだ、ノイン。週末のパーティの場で、お前はフェルディナンド公爵閣下に正式に紹介されることになる。失礼のないよう、作法を身につけておけ。……キャロルに任せるから、ちゃんと練習するんだぞ。公爵閣下を怒らせたら、お前の立場が悪くなるだけでは済まない。エドラー家にも迷惑がかかるからな。」
私がうなずくしかないのを見届けると、伯爵は「それじゃあ私は執務室に戻る」と言い残して部屋を出ていく。
エミリアはそんな父を見送ると、ちらりと私を一瞥して小さく鼻を鳴らした。
「ふん。せいぜい“化け物”に食べられないように気をつけてね。……ああ、でも逆に食べられたほうが幸せかしら? だって、あんな相手と一生暮らすなんて耐え難いでしょう?」
まるで私の不幸を楽しむかのような口ぶりだ。そのまま夫人と一緒に応接室をあとにし、やがて誰もいなくなった。
私はその場にへたりこむように座り込んだ。全身の力が抜ける。ずっと肌に貼りついていた緊張が解けると同時に、涙がじわりとこみ上げそうになった。――だけど、ここで泣いてはいけない。もし見られたら、また“みっともない”だの“品がない”だのと言われるに違いない。
(どうして、こんなことに……)
孤児院よりはマシだと思った。少なくとも、毎晩のようにお腹を空かせたり、いじめられたりすることからは解放されると思った。けれど、待っていたのは“身代わり”としての人生だった。化け物と呼ばれる公爵の花嫁にされる。それが私の、ここでの存在意義……。
悲しみに浸る暇もなく、私は部屋の外で控えていたキャロルから声をかけられた。「ノイン、奥様がおっしゃったとおり、あなたの礼儀作法の稽古を再開するわよ。早く立って。」
抑揚のない声。けれど、その向こうにうかがえる微かな同情が胸に痛い。
私はぐっと歯を食いしばり、ソファにつかまりながら立ち上がった。思わず震えてしまう膝を隠すようにスカートの裾を押さえる。
「……はい。お願いします。」
こうして始まった“花嫁教育”は、思った以上に厳しかった。テーブルマナーやダンスはもちろんのこと、貴族社会での挨拶の仕方や会話のテンプレートまで、丸暗記しなければならない。短期間に詰め込むには膨大すぎる内容だ。さらに、エミリアの使用人が手の空いたときには、私の姿勢や歩き方にまで小うるさく干渉してくる。
「もっと背筋を伸ばしなさい」「足を引きずらないの」「顔を下げるときは首の角度を意識して!」
孤児院で適当に過ごしていた私には、どれも初めて知ることばかりで、気を抜く暇すらない。
けれど――一番辛いのは、そんな“教育”ではなく、エミリアや使用人たちから向けられる嘲笑と軽蔑の視線だった。
彼らにとって私は“化け物”相手に押し付けられる生贄でしかない。いかに形ばかりの礼儀を身につけようと、彼らの目には「エミリアの代わりに捨て駒になる惨めな子供」としか映っていないのだ。
キャロルだけは、必要最低限の指示をきちんとこなしながらも、私の心を気遣うように声をかけてくれることがあった。
「……大丈夫? こんなに詰め込まれて、体はもつの?」
私はぎこちなく微笑む。
「大丈夫……です。ありがとうございます。」
本当はぜんぜん大丈夫じゃない。夜になって部屋に戻るたび、緊張から解放された体がずっしりと重く感じ、心身ともに疲労困憊だった。眠ろうとしても、化け物公爵の姿を想像してしまい、なかなか寝つけない。数時間程度うつらうつらとした後、朝早くに起き出して、また同じ苦行が始まる。
そんな生活が続けば、心がすり減っていくのも仕方がない。
――そして、パーティ当日がやってきた。
私がこの屋敷に来てから、まだ一ヶ月も経っていないが、時間の感覚が歪んでいるようだった。密度の高い日々が続いたせいで、実際よりもずっと長く過ごしている気分だ。
エミリアは豪華なドレスを身につけ、髪には宝石のついた飾りを添えて、それはもう絵に描いたような美しい令嬢の姿だった。一方の私は、伯爵夫人が用意したシンプルなドレスを着せられているが、それでも孤児院時代に比べれば充分に上等な服だ。しかし、胸元の飾りや袖口のレースは質素なもので、エミリアのように華やかな要素は少しもない。
庭に待機していた伯爵家の馬車に、エミリアと夫人は一緒に乗り込み、伯爵は別の馬に乗って先に会場へ向かった。私はというと、別の小さめの馬車に乗せられる。そこにはキャロルが同乗してくれた。
「……これから向かうのは、王都の公爵邸にほど近い場所にある貴族街の大ホール。そこの舞踏室で、各地の貴族が集まるパーティが開かれるのよ。……大勢の貴族があなたを見ていると思いなさい。失礼のないようにね?」
相変わらずの抑揚のない説明。しかし、その奥底には心配の感情が見え隠れする。
「はい……頑張ります。」
私はぎゅっと拳を握りしめる。口先だけの返事ではあるけれど、やるしかない。こんなところで失敗して、またエミリアに笑われるのは嫌だった。何より、ここで粗相をすれば、公爵自身を怒らせる恐れもあるという。もし本当に化け物のような男なら、一体どんな恐ろしい仕打ちを受けるか分からない。
馬車に揺られながら、私は窓の外に映る王都の景色を見つめる。王都に来るのは初めてだ。孤児院にいた頃は、王都がどれほど広く華やかな場所かなど想像すらできなかった。
多くの人や馬車が行き交い、石畳の道は行列を成す。道端には露店が並び、豪勢な服を着た人々が歩いている。視線を上にやれば、広々とした空の下、高い建物が立ち並び、街の活気が感じられた。孤児院のあった地方都市とは比べものにならないほどの賑わい。
しかし、馬車の窓越しにそれを見ているだけで、私には縁のない世界のようにも思える。確かに私は今、伯爵家の“養女”としてここに来ているが、本当の意味でこの世界に溶け込める日は来るのだろうか。そんな漠然とした不安が離れない。
やがて馬車が高い塀に囲まれた大きな敷地の門をくぐると、目の前に華やかな建物が見えてきた。大ホール――王都でも有名な社交の場だという。石造りの荘厳な外観に、広場には噴水があり、次々と到着する貴族の馬車が煌びやかに列をなし、召使いや従者たちが忙しなく立ち回っている。
私とキャロルが馬車を降りると、伯爵夫人やエミリアの馬車はすでに別の場所に移されていて、彼女たちは先に中へ入ったようだった。キャロルが私の腕を取り、歩くのを手伝ってくれる。
「行くわよ、ノイン。絶対に立ち止まらず、下を向かずに――まっすぐ前を見て歩くの。いいわね?」
私は緊張で心臓が大きく鳴るのを感じながらも、必死にうなずいた。
ホールの扉を開けると、眩いシャンデリアの光が飛び込んでくる。大理石の床には反射した光が踊り、各家の貴族たちが談笑しながらシャンパンを傾け、豪華な衣服をまとって舞踏室を彩っている。
「あんな子、見たことないわね」「どこの子かしら……」そんな声がちらほら聞こえる。私は落ち着かない気分で、キャロルの後ろにつきながら歩を進める。
いずれにせよ、ここでの主役は王族や有力な公爵家の人々。それに比べれば、私など微塵も注目されない……と思いたかった。
しかし、どうやらそうはいかないらしい。なぜなら、このパーティには“フェルディナンド公爵”も出席するのだ。あの“化け物”と噂される当人が来るとあって、それに関わる人物――すなわち私――にもある種の興味を持つ人間は少なくないらしい。
チラチラと私を見る視線が痛い。早くこの場をやりすごしたい……そんな思いでいっぱいだった。
と、そのとき、キャロルが私の手を軽く握り、「あちらへ」と小声で促す。
視線を向けると、伯爵夫人とエミリアが、部屋の隅にある豪奢な椅子のそばに立っていた。その椅子には、背の高い男性が腰掛けている。遠目にもわかる――その男性の姿は、一見して“異形”だった。
頭には黒く硬そうな角が左右にうねるように生え、頬や首元には鱗のようなものがあり、左の頬はまだ人間らしい肌が見えるが、右側は深緑色の鱗に覆われている。額から右目の周辺にかけて、まるで火傷の痕のようにも見える複雑な模様が走っていた。黒みがかった髪が肩にかかるくらいに伸びているが、それさえも人間離れした雰囲気を際立たせている。
――彼こそが、フェルディナンド公爵……なのだろう。
私が思わず息を呑んで立ちすくんでいると、夫人が私に向かって合図を送った。
「ノイン、早くこちらへ来なさい。」
私はキャロルに背中を押されながら、その場に近づいていく。どうしても視線が下がりがちになるが、さすがに公爵を前に背を向けるわけにもいかない。できるだけ礼儀正しく頭を下げ、言葉を搾り出す。
「は、初めまして……。わたくし、エドラー伯爵家の養女、ノインと申します……。」
震える声。自分でもひどいと思うが、どうにも抑えられない。
一方、公爵は私を見るでもなく、悠然と椅子に深く腰掛けたままだ。彼の周囲には護衛らしき騎士が立っているが、その騎士たちでさえ公爵の容貌には慣れているのか、特に動じない様子だ。
しかし、近づくとわかる。彼の身体からは、人間離れした“気配”が漂っている。まるで爬虫類か猛獣のような……本能的に恐怖を感じさせる雰囲気だ。それが人々から“化け物”と恐れられる所以なのかもしれない。
(こ、怖い……)
正直なところ、その姿を見るだけで震えそうになる。けれども、失礼になるのが怖くて逃げるに逃げられない。困惑しながら視線をやや上げると、鋭い瞳がこちらを見返した――かと思いきや、すぐに興味を失ったかのようにそっぽを向かれてしまった。まるで「こんな娘か……」と呟いているような態度だ。
エミリアが嬉々とした様子で口を開く。
「公爵閣下、あの……実は私が本来、お相手の候補だったのですが、体調の不安がありまして。代わりに妹のノインを……。気に入っていただけると嬉しいのですけれど。」
伯爵夫人も何やら取り繕うように微笑みながら、公爵へ言葉をかける。
「閣下の仰せの通り、エドラー家としても誠心誠意、最善の娘を用意しました。ノインはおとなしく従順で、まだ若いですから、閣下のご意向に沿って育てることも可能でございます。」
あからさまな“売り込み”だ。その言葉が痛々しくて、私は俯いた。けれども、公爵は無反応に近かった。しばらくじっと私を見つめていたが、次の瞬間、喉の奥で何かを唸るような音を立てる。
「……エドラー伯爵。お前は、先日わたしに“自慢の娘を紹介する”と言ったな。」
低く、どこか金属的に響く声。私は背中に冷たい汗が伝うのを感じた。伯爵は目を伏せながら、苦しそうな表情で答える。
「はっ……エ、エミリアはまだ体調がすぐれませんで……その……ですから代わりに、養女のノインを……」
すると、公爵は伯爵を睨みつけた。それだけで空気がひりつくような威圧感が走る。周囲にいた他の貴族も、何事かと振り返るほどだ。
「ほう……体調、ね。……まあいい。わたしは“美しい娘を希望した”わけではない。誰も寄り付かんのなら、誰でもいいと言ったはずだ。……ただし――」
そう言って、鋭い視線が私に注がれる。まるで猛禽類に睨まれた小動物のように、私は凍りついた。
「――後悔するなよ、娘。お前は、わたしの花嫁になるということがどういう意味を持つか、わかっているのか?」
私は声を失ったまま、必死に唇を動かす。わからない。正直なところ、何も分からない。ただ、こうするしかない……。
「……はい。わたし……閣下の、お望みどおりに……」
震える声で答えるしかできない。すると、公爵は軽く鼻を鳴らして、つまらなそうに顔を背ける。
「つまらん返事だ。……いいだろう。お前がわたしの“妻”になるというなら、それを証明してみせろ。準備ができたら、改めて“正式な婚約の儀”を行うとしよう。……伯爵、日取りは追って知らせる。その間、この娘を預かっておけ。」
それだけ言い残すと、公爵は立ち上がり、周囲の者に目もくれずにその場を去っていく。まるで嵐が過ぎ去ったかのような静寂が残る。
私はその空気の中に立ち尽くしたまま、心臓がばくばくとうるさいほど鳴っているのを感じていた。
(今のが、公爵閣下……。本当に、“化け物”みたい……でも、話してみると……何か違う気がする。言葉は荒いけれど、ただの乱暴者ってわけでもなさそう……)
その姿は確かに人外のようで、見る者に恐怖心を抱かせる。一方で、私が想像していた“絶対的な怪物”とは少し違う、一種の孤高さを感じさせるようにも思えた。
だが、今はその真意を推し量る余裕などない。ただ、私が“妻になる”ことを公爵は否定しなかった。つまり、婚約成立に向けて話が進んでいくことを認めたわけだ。
エミリアはその場で笑みをこぼす。
「まぁ、良かったじゃない、ノイン。閣下に追い返されるかと思ったけれど、そうならずに済んだわね。あとは婚約の儀を待つだけ。……ああ、楽しみだわ、あなたがどんな風に弄ばれるのか。」
わざとらしくくすくす笑う彼女の声が、私の胸を切り裂くように響く。伯爵夫人も似たような顔をして、「さあ、今日はもう帰りましょうか」と言い放つ。
私は頭を下げながら、その場を離れた。ホールの優雅な音楽が、やけに遠く感じられる。これが私の“運命”なのだろうか。あの化け物のような公爵のもとへ嫁ぐ。恐ろしいと思う反面、なぜか胸の奥にわずかばかりの興味が芽生えていた。――一体どんな人なのだろう、と。
その日の帰り道、伯爵夫人は機嫌が良さそうだった。馬車の中でエミリアと「これでフェルディナンド公爵のしつこい求婚を断れるわ」「あんな醜い相手にエミリアをやるなんて、考えるだけでゾッとするものね」と言い合っている。
一方、私とキャロルは別の馬車。キャロルがぼそりと呟く。
「……ごめんなさい、ノイン。あなたをこんな形で追い込んで……。私にどうすることもできなくて。」
その声はかすかに震えていた。私は首を振る。
「ううん。キャロルさんは、いつも私に優しくしてくれる……それだけで、私は救われてるんです。」
何度いじめられても、何度冷たい目を向けられても、少なくともこの一人だけは私を人間として扱ってくれる――その事実が、私の唯一の支えだった。
キャロルは私の肩をそっと抱くようにして、静かに言葉を続ける。
「フェルディナンド公爵がどんな方なのか、私も詳しくは知らないけれど……。ただ、噂だけで判断するのは良くないと思うの。きっと、何か理由があってあのような姿をしているのでしょうし……。“化け物”だとか、醜いだとか、みんな勝手なことを言ってるけれど、本当のところは本人しか分からないわ。」
その言葉に、私は小さくうなずいた。そう、私だって、孤児院で“みそっかす”と呼ばれてきたが、それが私の全てじゃない。外から見える印象だけで判断され、心の奥を見てもらえないのは、辛いことだ。だから、もし公爵の姿が“呪い”によるものだとしたら……。私のように誤解され、孤立し、苦しんでいるかもしれない――そう思うと、他人事のような気がしなくなった。
(もし、あの公爵閣下に優しさや苦しみがあるのだとしたら……いつか私は、それを知ることになるのかもしれない。私が“妻”として、そばに仕えるのなら……)
けれど、そこまで考えて、自分の置かれた立場を思い出す。私はエミリアの身代わり。あの公爵も、所詮は“誰でも構わない”のだ。私自身を必要としているわけではないかもしれない。――そう思うと、なんだか胸が苦しくなった。
(やっぱり、私は孤児院の頃から変わっていない。誰からも必要とされず、ただ都合のいい道具として利用されるだけ。そうであるなら……せめて、自分の役割を果たすしかないんだろうか。)
結局、私にできるのは、それだけだった。公爵の花嫁となる。それがどれだけ恐ろしい未来につながろうとも、今の私には他の選択肢がないのだから――。
――こうして、私はフェルディナンド公爵の“婚約者”として、正式に認められることになった。
しかし、それが私にもたらす運命は、まだ始まったばかりだ。これから先、私があの公爵のもとで、どんな人生を歩むのか。私自身さえ想像できない。
ただ一つ言えるのは、エドラー家での暮らしがさらに厳しいものになるだろう、ということ。なぜなら、正式な婚約が決まるまでは、私に“下手な真似をされては困る”と、彼らは一層目を光らせるに違いない。それに加えて、結婚が決まれば決まったで、“化け物の花嫁”などと世間の嘲笑を浴びるかもしれない。
そんな不安を抱えつつも、私は前に進むしかない。孤児院を出るときと同じ。結局は、自分で運命を選べるほどの力など持っていないのだ。
けれど、いつか――もし奇跡のように、あの公爵がどんな人なのか知る機会があるのなら。ほんの少しだけでいいから、その“真実”に触れてみたい。
(わたしと同じように、孤独を抱えているのだろうか……)
馬車はエドラー家の門へと帰り着く。夕暮れの空は赤く染まっていた。
「着いたわよ、ノイン。」
キャロルの声に、私ははっと我に返る。扉が開くと、すでに伯爵夫人とエミリアが玄関の前で待っていた。彼女たちは私をちらりと見やると、言い放つ。
「あなた、今後はますます忙しくなるわよ。婚約の儀に向けて衣装の用意や礼儀作法の最終チェックもあるし、“貴族の娘”として恥ずかしくない程度には仕立てないといけないんだから。」
エミリアは面倒そうに溜息をつき、
「本当なら、私のために用意していた衣装もあるけど……あれはあげないわ。せいぜい地味なドレスで我慢してちょうだい。どうせ、“化け物”なんだから、服の価値なんてわからないでしょうし?」
嘲笑混じりの言葉に、私はどう応じるべきか迷う。結局は黙ってうなずくだけしかできなかった。
この家で、今後も蔑まれながら過ごしていくのか――そう思うと暗い気持ちになるが、どんなに辛くても踏みとどまらなければならない。これから先、私の意思とは関係なく、フェルディナンド公爵との結婚話は進んでいくのだから。
夜になり、私は自室の薄暗いランプの下で、ぎこちなくドレスを脱ぎ、寝間着に着替える。洗面台に映る自分の姿を見つめると、疲労で顔色が冴えない。孤児院での暮らしに比べれば食事は格段に良くなったはずなのに、逆に体重が減っている気がするのは、きっと緊張やストレスのせいだろう。
やがてベッドに潜り込むと、何かがこみ上げてきた。噂に聞く公爵の恐ろしい姿を想像するだけで、また眠れなくなりそうだ。――だが、不思議と完全な絶望感ではなかった。
(公爵閣下、あの人は……本当に化け物なのかな? 見た目は確かに怖かった。けど、“本当にただの怪物”なら、もっと身勝手に振る舞うんじゃないだろうか。あの落ち着いた姿は、寂しそうにも見えた……)
その疑問が、私の心にわずかな好奇心と、儚い希望のようなものを芽生えさせる。もし彼の中に優しさがあるならば、私も少しは救われるのかもしれない。
けれど、そんな期待が裏切られるかもしれない。絶望的な結末が待っている可能性だってある。
――あまり先を考えないほうがいいのかもしれない。今の私にできることは、与えられた課題をこなし、婚約の儀までに最低限の知識と作法を身につけることだけだ。
(何か、きっかけがあればいいのに。……何もわからないまま、あの公爵のもとへ嫁ぐのは、さすがに怖い。でも、私は逃げ出せない……。)
夜が更け、窓の外の月が高く昇るころになって、やっと浅い眠りにつく。瞼を閉じると、伯爵家に来てからの苦い思い出が断片的に頭をよぎり、何度も寝返りを打った。それでも、いつか今日の出来事――公爵と目を合わせたあの一瞬――が夢に紛れ込んで、私を呼ぶ声を聞いた気がした。
「後悔するなよ」――彼の低い声。あれは威圧でもあったが、まるで自分自身に言い聞かせているようにも感じられた。
まぶたの裏で、彼の複雑な瞳が揺れる。呪いのような鱗をまとった姿。そして――その奥にちらりと見えた、まだ人間的な部分。あれは私の錯覚だったのだろうか。あるいは、あの化け物呼ばわりされる公爵にも、“普通の人間らしい心”があるのだろうか。
答えは、まだわからない。ただ言えるのは、これから私の人生が大きく変わるということ。孤児院での生活さえ、もう遠い昔のように感じるほど、強烈な渦に巻き込まれている。
――先の見えない不安に押し潰されそうになりながらも、私は薄暗い部屋の中、布団を握りしめて朝を待つしかなかった。