### スターティング練習
合宿最終日。
カズはスターティング練習に念を入れていた。
小学生の頃には無かったスタート方法で、慣れるまで少し時間がかかりそうだ。
「適当に合わせては駄目だぞ。キチンと自分の足の幅に合わせるんだ」
そう教えてくれる小崎先輩に、カズは素直に、
「はい!」
と返事をしている。
しかし、座った状態の時と、腰を上げた時の感覚が良く理解出来ない。
「これって座った状態に合わせた方がいいんですか? それとも、腰を上げた時の状態!?」
カズは理解出来ずに、小崎先輩に尋ねる。
「どちらも合わせた方が正解だな。バランスを考えろ」
そう言われても、何となくしか理解出来ないカズ。
「とにかく合わせてみて、走りやすい方を選択しろ」
そう言う小崎先輩に、
「はい!」
と素直に応えておく。
小崎先輩はとにかく速い。
全国大会にまで出場しているくらいの実力者だ。
脚力が物凄くて、何度もスターターを壊しているくらいの脚力なのだ。
50メートルを過ぎる頃まで姿勢も前傾姿勢のままで起き上がる事がない。
直ぐに身体が起きてしまうカズとはえらい違いだ。
カズはグラウンドの端から端まで、何度もスターティング練習を繰り返していた。
汗が頬を伝い、息も荒くなっている。
それでも、小崎先輩の姿を見ると、自分に甘えることは許されないと強く思う。
「カズ、もう一回やるぞ。今度は腰を上げた時の足の幅を意識しろ。スタートの瞬間に、足が滑らなくなるからな」
小崎先輩の声は、グラウンドに響くように明瞭で、どこか温かみもあった。
カズはその声に応えるように、小さくうなずくと、再びスタートラインに立った。
「はい、わかったっす!」
グラウンドには、他にも練習に励む部員たちの姿があった。
合宿最終日ということもあり、全員が気合いを入れて取り組んでいる。
太陽はすでに高く昇り、空は青く澄み切っている。
風も心地よく、走りやすいコンディションだ。
カズは、小崎先輩の指導通り、腰を上げた時の足の幅を意識して、スタートポジションを取った。
グラウンドに手をつき、片方の足を後ろに引いて、もう一方の足をブロックにしっかりと押し付ける。
その感覚は、まだ慣れなくて違和感があるが、少しずつではあるものの、自分の体に染みついてきているようにも感じた。
「よーい⋯⋯」
スターターの声がかかる。
カズはその瞬間、自分の意識をすべて足の裏に集中させた。
地面を蹴る瞬間の感覚。
その一瞬が、いかに重要かを、小崎先輩はいつも言っていた。
「スタートの一歩目がすべてだ。その一歩で、レースの流れが決まる」
そして、ピストルの音が鳴った。
「パンッ!」
カズは一気に地面を蹴り、体を前に投げ出すようにして走り出す。
しかし、まだ完全に感覚が定まっていないのか、体がすぐに起き上がってしまい、前傾姿勢を保つことができない。
そのせいで、スピードに乗るまでに時間がかかってしまう。
「カズ、体が起き上がるのが早すぎるぞ! 最初の五歩は前傾を保て!」
小崎先輩の声が飛ぶ。
カズはその言葉に耳を傾け、自分の中で反省点をメモするように心に刻んだ。
「はい! すんません!」
カズは再びラインに戻り、今度は意識を変えてスタートポジションを取った。
今度は、腰を上げた時の足の幅を意識しつつ、体が起き上がらないように、前傾姿勢を保つことを念頭に置く。
「よーい⋯⋯」
またしてもスターターの声。
カズは深呼吸し、集中する。
「パンッ!」
再びスタートの合図が鳴る。
カズは一気に地面を蹴り、体を前に倒すようにして走り出す。
今度は、前回よりは前傾姿勢を保つことができた。
しかし、まだ五歩まではいかず、途中で体が起き上がってしまう。
それでも、小崎先輩はうなずきながら見ていた。
「よし、少しは良くなってきたな。でも、まだだ。前傾を保つ意識がもう少し必要だ」
カズは息を切らしながらも、小崎先輩の顔を見上げた。
「はい⋯⋯でも、どうしても体が起き上がってしまうっす。どうすれば、もっと前傾を保てるようになるっすか?」
小崎先輩は少し考えると、カズの肩に手を置いた。
「それは、脚の力と、体幹の強さが関係してる。脚力がないと、前傾姿勢を保つことができないんだ。だから、まずは脚のトレーニングをしっかりやる必要がある」
カズはうなずいた。
トレーニングは嫌いではない。
むしろ、自分を成長させる手段だと信じている。
「わかったっす。トレーニングも頑張るっす」
小崎先輩は微笑んだ。
「その意気だ。お前は素直だから、伸びる。俺も、お前には期待してるんだ」
カズはその言葉に、心が熱くなるのを感じた。
小崎先輩に認められたという実感が、カズのやる気をさらに高めていく。
「はい! 絶対に、先輩みたいに速くなるっす!」
小崎先輩は笑いながら、カズの頭を軽く叩いた。
「その調子で頼むぞ。お前の走り、楽しみにしてる」
その日、カズは最後までスターティング練習を繰り返した。
何十回となく、ラインに戻り、スタートの音に集中した。
そして、徐々にではあるが、前傾姿勢を保つことができるようになり、走り出しのスピードも上がっていった。
合宿最終日。
カズは、自分の中に新たな自信と、目標を見つけることができた。
――小崎先輩のように、速くなりたい!
その想いが、カズの心を熱くしていた。