竹内清美って、結局何様なの?
どうしてあんな施しみたいな口ぶりで、私に話す権利があると思ってるの?
理子の視線は氷のように冷たく、周囲の空気は一気に張り詰めた。
結局、彼女は一言も無駄にする気もなく、竹内清美の道を塞ぐ手を無造作に振り払って、振り返ることすらせずに立ち去った。
「理子さん!待ちなさい!本当に自分の息子が死ぬのを黙って見ているつもりなの?」
背後から、竹内清美の悔しそうな叫び声が響く。
理子は足を止めず、そのまま道路脇に出てタクシーを止めた。振り返らなくても分かる。いま竹内清美は、きっと焦って早瀬深や黒沢家に電話をかけ、慌てて報告しているに違いない。
理子はタクシーで精神科病院へ向かった。
病室には、母・黒沢夕子がいた。五十代になったばかりのはずなのに、年齢以上にやつれ、老いさらばえた姿をしていた。
理子の胸が痛み、そっと母の痩せた頬に手を添えた。刑務所に入る前は、毎週二度は必ず母を見舞っていた。しかしこの二年間、母のそばにはきっと誰もいなかったのだろう。
理子は母の手を取って、自分の頬に押し当て、声もなく涙を流した。
「お母さん、不孝な娘でごめんなさい。私が感情に任せてしまって、二年もあなたのそばにいられなかった……」
小林夕子は無邪気な子どものように、ぼんやりと笑い、ゴワゴワした指で不器用に理子の涙をぬぐった。
「服……きれい……あなた……きれい!」
理子は、母が新しく買ったワンピースを褒めてくれているのだと分かった。自分の顔は分かるようだが、それが娘だとはもう覚えていないらしい。
理子は母の手に頬をすり寄せ、失われた七百日以上の時間を取り戻そうとするかのようだった。
両親の仲が良かったころ、家には笑い声が絶えなかったことを、今もはっきり覚えている。だが、後に母は父を疑い始め、まるで取り憑かれたように浮気の証拠を探し続け、父の巧妙な立ち回りにいつもかわされていた。証拠は見つからず、逆に父からは被害妄想だと責められた。長年の抑圧が、母の心に鬱の種を植え付けていた。
あの日、黒沢牧夫が不注意でスマホのロックをかけ忘れ、母はホテルの情報を見つけてしまった。現場に駆けつけて修羅場となり、壮絶な争いの末、愛していた夫の手によって花瓶で頭を打ち、重傷を負ってしまった――
それ以来、母の記憶は失い、完全に心を病み、この冷たい場所に送られることとなった。
騒ぎは大きくなり、当時は祖母がいたため、黒沢牧夫も一時的に竹内文子と距離を置いていた。
だが結局、竹内清美のせいで祖母は植物状態となり、自分は刑務所に入り、父はすぐさま竹内母娘を黒沢家に迎え入れたのだった。
意識のはっきりしない母を見つめ、兄たちが竹内文子の同居を黙認したことを思い出すと、理子の心は引き裂かれるような痛みに襲われた。
面会時間が終わり、理子は精神科病院を後にし、祖母のいる療養施設へと向かった。
だが、祖母の実の孫であるはずの理子は、病室に入ることすらできなかった――面会禁止にされていたのだ。
理子は黒沢家に電話をかけた。
電話に出たのは兄・黒沢悟だった。
「私、理子です」
電話口から黒沢悟のつくったような心配そうな声が聞こえた。
「理子か?今どこにいるんだ?一週間も連絡がなくて、家族は――」
「祖母の病室の面会権限がほしい」と理子は彼の言葉を遮り、感情を見せずに言った。
黒沢悟の声が低くなる。
「理子、それが兄に対しての口のきき方か?二年間も刑務所に入って、基本的な礼儀も忘れたのか?」
理子は食い下がらずに答えた。
「私は祖母の実の孫だ。面会する権利がある」
黒沢悟は、理子が駄々をこねているだけだと思い、なだめるように言った。
「病院には伝えておくよ。理子、もう我儘はやめて家に帰ってこい。深も優也もお前を待っている。もう一人子どもを産んで、深の心を取り戻すのが一番大事だ」
かつて恋愛に夢中だったころ、理子は気づかなかった。家族にとって、自分の価値が「男の心をつなぎとめること」にしかなかったということを。
今になって、やっとその現実が見えてきた。
電話の向こうで、黒沢悟は「親身になって」説教を続けていた。
「たとえ深の心が戻らなくても、お前には子どもが二人いる。深も竹内清美も、子どもたちのためにはお前にお金くらいは与えるだろう。路頭に迷うことはないさ」
悟の最後の一言は、氷の刃となって理子の心臓を深く突き刺した。
兄の目には、自分が早瀬深と竹内清美の「施し」がないと飯も食えないほど落ちぶれた女に映っているのか?
心臓が一瞬で掴まれたような、息ができないほどの痛みに襲われ、理子は思わず電話を切り、胸を押さえて立っているのがやっとだった。
かつてあんなに頼り、信じていた父や兄は、一体自分の何を知っていたのだろう。
あるいは、初めから何も分かろうともしなかったのかもしれない。
こみ上げる感情を必死に抑え、理子は鹿野明に紹介された弁護士に連絡した。
彼女は迷いなく、三通の書類にサインした。
黒沢家の相続権放棄、黒沢商事の持ち株放棄、早瀬財閥の持ち株放棄――
弁護士は書類の内容に目を通し、思わず息を呑んだ。
――これは、誰もが夢見るような、手の届かない莫大な財産だ。
「早瀬様、本当に……もう一度お考えになりませんか?」
弁護士は思わず問いかけた。
「必要ありません」
理子の声はきっぱりとしていた。
今日限り、理子は黒沢家とも早瀬家とも、完全に手を切る――裸一貫での離縁だ。
弁護士は迅速に動き、その夜には署名済みの書類を黒沢家に届けた。その場には、ちょうど早瀬深もいた。
早瀬深は書類のタイトルだけを一瞥し、無表情のまま手を伸ばして、その数ページを粉々に破り、ゴミ箱に捨てた。
黒沢牧夫は書類のコピーを細かく読み、震えるほど怒りをあらわにした。
「離婚を狙うつもりか!これは駆け引きだ!今まで与えた配当金まで返して、俺たちに刑務所送りにしたことを後悔させる気か?」
黒沢悟も眉をひそめた。
「配当金だけじゃない。家から与えた株も現金も、すべて資産を弁護士経由で一切合切返してきた」
そんな中、黒沢青峰だけはむしろ安堵したように笑い、皮肉気味に言った。
「一文無しで外に放り出されて、何日生き延びられるかな?三日も経たずに、みっともなく自分から戻ってくるだろうさ。何の取り柄もない、しかも刑務所帰りの女が、黒沢家と早瀬家を離れて何ができるんだ?」