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第十五話 身分逆転


竹内清美は黒沢悟の「君と同列する資格すらない」という言葉を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ俯き、口元にかすかな笑みを浮かべた。それはすぐに消えたが、長年の努力が報われた瞬間だった。


黒沢悟のその一言は、彼女にとって最大の認めでもあった。


彼女は十年前のあの光景を決して忘れない。

黒沢理子の母親・黒沢夕子が人を連れてやってきて、母を罵り脅したとき、清美は小さな部屋で震えながら隠れていた。


黒沢夕子は母のことを「男を金で騙す狐女」と罵った。でも、あの金は、ほとんどが自分を育てるために母が使ったものだった。


だからこそ、黒沢夕子は「下賤な女が産んだ下賤な子」と彼女を罵り、どうせ大成しないと言い放ったのだ。


だが今、彼女は頭角を現した。

黒沢夕子の実の息子が、夕子の娘である理子には自分と同列する資格すらないと認めたのだ。


竹内清美の胸の中に快感が湧き上がったが、すぐに表情を引き締め、優しく諭すように言った。


「お兄さん、お姉さんはどんなに悪くても、あなたの実の妹ですよ。外では、少しは面子を保ってあげてください。さっきは大勢の人が見ていましたし……」


黒沢悟は怒りが収まらない。

「面子?面子が欲しいなら、清掃員なんかやらなきゃいいだろう!黒沢家のお嬢様が、知り合いに見られて笑われるのも平気なのか!」


警備員に「ご退場」を促されても、黒沢悟は頑としてその場を離れようとしなかった。


竹内清美は本来なら早瀬財閥に戻って、次のLiアルゴリズムの提携方法を相談するつもりだった。しかし、黒沢悟の様子を見ていると、彼がこのまま感情的に騒ぎ続け、逆に「株式会社リライズ」での自分の評価を下げるのではと心配になった。


考えた末、彼女は残って彼の傍にいることにした。


―――


オフィスの中。


鹿野明はすぐに理子の手からモップを受け取り、床のコーヒーのシミを手際よく拭き取った。

彼はモップを動かしながら、つい口を開いた。


「さっきの人たち、君の家族?たしか君のお兄さん、昔はすごく君を可愛がっていたよね。」


理子はソファに座り、コーヒーカップを手にしたまま淡々と答えた。


「ここ数年で黒沢家は大きく変わった。いろんなことが、もう全然違う。」


昔、父も兄も自分を一番可愛がってくれた。自分を刑務所に送るなんてこと、絶対にしなかったし、何をやっても恥だなんて思わなかった。

あの頃は、たとえ自分が物乞いの真似をしてふざけていても、みんなが「演技が上手ね」と褒めてくれた。


でも今は……


鹿野明はおそるおそる聞いた。


「Li、Liアルゴリズムは君のものだよね。今回、お兄さんと竹内清美さんが早瀬財閥の代表として提携を望んでる。でも、僕じゃ決められない。君は、どうする?」


理子は首を振った。


「アルゴリズムは私が開発したけど、中にはあなたと先生の努力も詰まってる。私ひとりの判断で決めるなんてできないよ。」


鹿野明は真剣な表情で言った。


「君がいなければ、Liアルゴリズムはなかった。先生だって、使用権は全部君が決めていいって言ってた。先生自身も使用料を払うくらいなんだから、僕なんてなおさらだよ。Li、このアルゴリズムで随分稼いだはずなのに、君……お金を使う気はないの?」


理子は不思議そうに聞き返した。


「お金を使う……?」


鹿野明は言った。


「ずっとホテル暮らしなんて無理だろう?今朝もタクシーで来たって聞いたけど、家や車を買う気はないの?」


理子も考えたことはあった。

だが、面倒だった。


自分の病状はいつ悪化するかわからない。資産を持てば、その後のことまで考えなければならない。

頼れるのは鹿野明だけ。でも、彼に迷惑はかけたくなかった。


彼女はコーヒーをひと口飲み、気軽に言った。


「ホテルの方が楽だし、タクシーも便利。自分で運転する必要もないから、気が楽だよ。」


コーヒーを飲み終えた頃、鹿野明も床をきれいに拭き終えていた。


入り口にいた若いアシスタントは、呆然とその光景を見ていた―――新入りがのんびりコーヒーを飲んでいる間に、社長がモップ掛け?この情景はさすがに衝撃的だった。


鹿野明はアシスタントを手招きした。


「僕のオフィスから新しい事務用品一式を持ってきて、データ部に届けて。」


アシスタントは一瞬きょとんとした。社長を見てから理子を見て、驚きを隠せなかった。社長自ら雑用をして、新人を基礎のデータ部に配属するなんて―――。


データ部は、インターンでも務まる部署だ。


理子は立ち上がり、アシスタントに優しく微笑みかけた。


「お手数かけます。」


その笑顔にアシスタントは目を奪われた。ショートカットで地味な服装なのに、颯爽として優しい雰囲気―――一気に好感度が上がり、すぐに仕事に向かった。


鹿野明は自ら理子をデータ部まで送ると言い張り、理子は断りきれず、仕方なく従った。


データ部のオフィスに入ると、理子はすぐに理解した。ここでは会社の近年の全てのプロジェクトの基礎データを見ることができる。

データの整理は基礎的な仕事だが、彼女にとっては必要なこと―――六年間離れていた空白を少しずつ埋めることができるのだ。


データ部は会社の一番下のフロアにあり、社長室からも一番遠い場所だった。


社員たちは、社長が新人を自ら連れてきたことに驚き、さらにその社長が理子のために机を整える姿にはもっと驚いた。


理子は申し訳なさそうに言った。


「もう大丈夫です、自分でやれますから。」


鹿野明はまだ心配そうだった。


「君、他の会社で働いた経験ないだろう?ちゃんと馴染めるか少し心配で……」


理子は苦笑した。


「私は順応力が高いって、忘れましたか?」


鹿野明は、彼女が昔どんなこともすぐに覚えたことを思い出し、少し安心して数言アドバイスしてから去っていった。


彼が去ると、データ部の同僚たちは次々と理子を好奇心いっぱいに見つめた―――若くて美しく、しかも社長が自ら連れてきて机まで整えてくれるなんて、ただの新人とは思えない関係だ。


「イケメン社長と美人新人……もしかして社内恋愛?」何人かの若い同僚は目を合わせ、つい妄想を膨らませてしまうのだった。

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