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第二十一話 神秘な取引


黒沢理子は、目の前の病的な美しさを持つこの男のことをまったく知らなかった。病歴は個人のプライバシーだ。見知らぬ人間が、どうやってそんなものを調べるのだろう?


男は車のドアを開けた。

「取引に興味はあるか?」


黒沢理子は即答した。

「ないわ。」


男の唇がわずかに吊り上がる。

「それなら、この資料を黒沢家と早瀬財閥に届けて、君のことを“気にかけて”もらうしかないね?」


かつてなら、病気のことを家族に話したかもしれない。しかし今は絶対に知られたくなかった。彼らの「同情」など、彼女にとっては生き地獄と同じだ。


黒沢理子はしばらく黙り、そして足を踏み入れて車内に座った。


車内にはほのかなウッディな香りが漂い、清々しく心地よい。しかし、彼女にそれを味わう余裕はなかった。


「何が目的?」と黒沢理子は単刀直入に切り出す。今、彼女に唯一価値があるとすれば、Liアルゴリズムだろう。彼女が開発者であることを知る者はほとんどいないが、皆無というわけではない。相手もきっとそれが目的だろうと推測していた。


だが、男の口から出た言葉は彼女の予想をはるかに超えていた。


男は悠然と一枚の小切手を差し出した。

「君については調べさせてもらった。1億円だ。君が死んだあと、腎臓を自発的に提供してほしい。」


黒沢理子の瞳が鋭く光る。

「……何ですって?」


男は眉を上げた。

「君にはもう、あまり時間が残されていないのだろう?」


黒沢理子は、小切手に記された途方もない数字を一瞥した。確かに……惜しげもなく大金だ!


だが――


彼女は細い指で小切手をそっと押し返し、自信と余裕がにじむ微笑みを浮かべた。

「どうやら、私の銀行口座の残高までは調べてないみたいね?」


男の眼に、一瞬驚きと探るような色がよぎった。


「それに、お医者さんから死刑宣告されたわけじゃないわ。もしかしたら、そのうち奇跡が起きるかもしれないし。この1億円、あなたは病院でじっくり待っていたら?」


そう言って、彼女は車から降りようとドアに手をかけた。


だが男は、彼女の手首をしっかりと掴んだ。

「御影瑛一だ。全国中、君とだけドナー適合した。必ずまた会うことになる。」


その声には確固たる自信があった。


黒沢理子は視線を落とし、彼の細く骨ばった手を見つめる。男はあっさりと手を離した。


彼女は車を降りてドアを閉め、御影瑛一に礼儀正しく微笑み、すぐに自分が呼んだタクシーに乗り込んだ。ドアが閉まると同時に、彼女の顔から笑みは跡形もなく消えた。


御影瑛一の素性が只者でないことは明らかだった。彼女の情報を調べ上げたことに驚きはない。だが、ここまであけすけに病状を指摘され、「もうすぐ死ぬ」と暗に告げられたことは、黒沢理子の心にどうしても重くのしかかった。


誰だって、生きていたいに決まっている。


御影瑛一自身も、美しいには違いないが、どこか病的で痩せ細っている。その手は長く美しいが、彼女同様に健康的な輝きはなかった。――彼自身が腎臓を必要としているのだろう。


もし本当に最期の時が来たら、腎臓を彼にあげるのも別に悪くない。どうせ死んだら無駄になるだけだし。


そんなことを思いながら、黒沢理子は考えを巡らせていた。


一方その頃、車内で御影瑛一は新たに届いた情報を見て、眉をひそめた。


黒沢理子の口座には、驚くべき巨額の現金があった!


黒沢商事や早瀬財閥は巨大な産業グループだが、それでもこれだけの現金を個人名義で揃えるのは容易ではない。


前方の仕切りが音もなく下がり、助手席の秘書が振り返る。困惑した様子で言った。

「御影様、我々の調査にミスがあったのでしょうか?黒沢さんはこれほどまでに裕福です。金で腎臓を買うという手は、恐らく通じないかと……」


御影瑛一は膝の上で指先を軽く叩き、目がさらに鋭くなる。

「ふん、思ったよりも隠し事が多い女だ。彼女を見くびっていたな。」


同時に、理子は、御影瑛一のことなどすぐに頭から追い出した。

腎臓の提供?本当に死ぬときが来たら考えればいい。今は、生きることが優先だ。


――株式会社リライズ。


鹿野明は、オフィスにずらりと並べられた十数着のドレスを前に、腕を組んだまま時に眉をひそめ、時に首を振っていた。


「だめだ、デザインが違う……だめだ、色が派手すぎる……もう一度、別のを!」


理子がドアを開けて入ってきた時、目にしたのはこの光景だった。


「これは……?」

思わず驚きの声を上げる。


鹿野明は彼女を見つけるなり目を輝かせ、得意げにドレスを指差した。

「今夜のパーティーのドレスを選んでるんだ!」


黒沢理子は思わず笑ってしまう。

「鹿野明、君もずいぶん変わったね?昔はコードしか見えない理系男子だったのに。」


鹿野明は彼女の前ではすっかりリラックスしていて、にこやかに言った。

「企業イメージってやつさ!それに、うちの会社の顔担当には、やっぱり輝いてもらわないと。」


黒沢理子は首を振る。

「目立つのはやめておくわ。最近、誰かに狙われているみたいでさ。普段通りの服でいい。あまり注目されたくないの。」


鹿野明の表情が引き締まる。

「誰かに狙われてる?誰だ?僕がやっつけてやる!」


黒沢理子は少し考えてから答えた。

「御影瑛一……だったかな。」


鹿野明の険しい顔が一瞬にして崩れ、頭をかいた。

「……理子、その人は……僕にはちょっと無理かも。」

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