「御影様、このままご覧になっているだけでよろしいのでしょうか?」
アシスタントが小声で尋ねた。
御影瑛一は怠惰な姿勢でグラスの水を一口含みながらも、視線は鋭く下の階を捉えていた。
「焦ることはない。見ものというのは、十分に熟成してこそ面白いものだ。」
彼が言っているのは、階下で繰り広げられている小さな揉め事のことだった。
黒沢悟はまさか、理子が鹿野明の会社に清掃スタッフとして応募したはずが、最終的に社長秘書になっていたとは思いもしなかった。
内心で嘲笑し、黒沢理子が実力でその職に就いたとは全く信じていなかった。
華やかで将来有望な男のそばに、自分には「何の取り柄もない」としか思えない美貌だけが残った妹が?
黒沢悟には一つの可能性しか思い浮かばなかった――理子が色仕掛けで鹿野明を誘惑したのだと。
だが、彼は少し意外だった。刑務所で二年も過ごし、理子の容姿は大きく損なわれていないものの、昔の輝きはさすがに取り戻せないはずだ。それでも、こんなやり方ができるとは?
この考えが浮かぶや否や、黒沢悟はさきほどまでの怒りを抑え、口調も少し和らいだ。
「鹿野社長、私は理子の兄です。うちの妹は昔から家で甘やかされて育ったもので、ちょっと奔放な性格でして。まさか貴社で働けるとは思いませんでした。もし何か至らぬ点がございましたら、どうかご寛容にお願いいたします。」
彼は兄らしい態度を装おうとした。
鹿野明は黒沢悟が理子の手首を強く掴んだ痕跡に目をやり、淡々とした口調で言った。
「黒沢さん、ご心配なく。理子の能力は僕が一番よく分かっています。彼女は決して人に迷惑をかけません。」
「決して」という言葉には断固たる響きがあった。
だが黒沢悟も他の人々も、それを単なる社交辞令としか受け取らず、その重みを読み取る者はいなかった。
鹿野明は注目を集めるつもりはなく、そっと理子を自分の側に引き寄せ、周囲に目配せした。
「皆様、どうぞ続けてください。僕は秘書と共に、皆様のご高見を拝聴させていただきます。」
人々は再び会話を始めたが、空気には微妙な変化が生じていた。
早瀬深の表情は今にも水が滴りそうなほど暗かった。
鹿野明の手が黒沢理子の腕に添えられているのを見て、理子が鹿野明の隣に平然と立っている様子を見て、胸の奥で煮えたぎる怒りが燃え上がった。
この女は、離婚を強く求めていたくせに、もうこんなにも早く鹿野明という大物に取り入っているのか?
どうしてだ?刑務所帰りで、子供まで産んだ女が!
竹内清美は早瀬深の目に浮かぶ怒りを敏感に感じ取り、心が重くなった。
後半は口数が明らかに減り、ほとんど黙って黒沢理子と鹿野明のやりとり、そして早瀬深の険しくなるばかりの表情を観察していた。
パーティーは正式なセッションに入り、皆が席に着いた。
晩餐と共に授賞式も始まった。
「優秀企業家賞」は名門の重鎮によって授与され、最終的に早瀬深の手に渡った。
もう一つの「優秀個人賞」は鹿野明がプレゼンターを務め、竹内清美が受賞した。
早瀬深と竹内清美が並んで華やかな照明の下、観客の拍手に包まれて写真に収まる様は、「お似合いで和やか」そのものに見えた。
鹿野明は形式的に拍手を送り、理子は無表情で人波の中を探るような目をしていた。
「所詮この世界、持ちつ持たれつの馴れ合いさ。どの家が大きなプロジェクトを抱えているかで、この“花”は誰の手に落ちるか決まるのさ。真の価値は……プレゼンターの格でこそ分かる。」
鹿野明は身を少し寄せ、声を低くして理子に説明した。
理子は口元にごく淡い笑みを浮かべた。
「全部あなたが正しい人脈を掴んだからでしょ。」
鹿野明はすぐに受けて、少し柔らかい声で答えた。
「当然さ!君という凄い人脈をがっちり掴んだからこそ、今の『株式会社リライズ』がある。あのアルゴリズムはまさに切り札だ。誰かみたいに目先の利益に目が眩んだ人間とは違うよ。」
彼は意味ありげにステージを見やった。
黒沢理子は静かに笑った。
「あなた、この数年で随分変わったわね。見直した。」
「仕方なかったんだよ。」
鹿野明は肩をすくめた。
「これだけ大きな組織だ、誰かが表に立たないといけない。もう一人の方は、こっちよりもっと大変なことを抱えていて、経営に構う時間ないし、君は、恋愛に夢中だったっけ……」
ふと何かを思い出し、好奇心を込めて尋ねる。
「そういえば、旦那さんはいつか紹介してくれるの?君が惚れるような相手なら、きっとただ者じゃないだろう?」
黒沢理子は平然とステージ上の輝く早瀬深を見やり、淡々と答えた。
「もう離婚したわ。」
「離婚?!」
鹿野明は勢いよく席を立ち、椅子が床にこすれる大きな音を立てた。
その瞬間、会場の全ての視線が集中した。
鹿野明はそれに気付くことなく、驚きと……喜びに満ちた顔で大声を張り上げた。
「離婚?!本当か?それはいいことだ!あんな男、君には絶対に釣り合わないと思ってた!」
「ドーン――」
まるで深海に爆弾が投げ込まれたかのような衝撃。
早瀬深の笑顔は一瞬で凍りつき、危険なほど鋭い目つきでステージ下の鹿野明と、平然とした理子をにらみつけた。
かつてない屈辱感が頭を直撃した。
黒沢悟は目の前が真っ暗になり、その場で穴があれば入りたいほどだった。
黒沢家の面目は、今日の理子によって完全に踏みにじられた。
竹内清美はステージ上で、隣の早瀬深の体が突然固くなり、冷たい怒りが溢れ出すのを感じていた。
鹿野明――彼は絶対に敵に回してはいけない人物だったのだ!
そして彼女の最重要プロジェクトは、鹿野明が持つLiアルゴリズムがなければ進まない状態だった!
理子は素早く、まだ興奮気味の鹿野明を席に引き戻した。
「社長、落ち着いてください。今のあなたは社長、私は秘書です。」
声は大きくなかったが、不思議な落ち着きがあった。
鹿野明は引かれるまま座り直し、自分の失態にようやく気付いたが、顔の「離婚してよかった!」という満足げな表情は、なかなか消えなかった。
二階の特等席。
御影瑛一は優雅にナイフとフォークを置き、白いナプキンでそっと口元を拭った。
「離婚したのか……」
彼は面白そうに呟いた。
「先日の調査報告には、その重要な情報が抜けていたようだな?」
背後の秘書が慎重に口を開いた。
「ボス、黒沢さんには特別なご関心が?」
御影瑛一はグラスを手にし、下の階で席を立つ華奢な影に目を向け、唇に自信に満ちた笑みを浮かべた。
「彼女の腎臓は、どうしても手に入れたい。」
秘書は自分の主人のあまりにも蒼白で痩せた横顔を見て、不安げに言った。
「ですが、ボス……黒沢さんは報告書ほど弱々しくは見えません。もし……」
「もしも、はない。」
御影瑛一は言葉を遮り、グラスを置いた。
鷹のような鋭い目つきで「ついてこい」と指示する。
彼は席を立ち、一見ゆったりとした歩き方でありながら、明確に黒沢理子が消えた方向――洗面所へと向かっていった。