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第二十四話 彼の血が自分の命をつなぐ?


理子は蛇口を閉めたばかりだった。その手元に、すっと一枚のティッシュが差し出された。


彼女が横目で見ると、いつの間にか御影瑛一が隣に立っていた。


この人、本当に神出鬼没ね——。


御影瑛一は微笑みを浮かべて言った。


「また会いましたね。黒沢さんだと思っていましたが、まさか正体が“Li”——十代で名を馳せた天才少女だったとは。」


黒沢理子は落ち着いた様子でティッシュを受け取り、手を拭きながら答えた。


「過分なお言葉です。」


かつての栄光を誇りに思っていたが、それはもう過去の話だ。今の自分には、再出発が必要だった。


御影瑛一は小切手の話題にはもう触れず、話題を変えた。


「あなたのような才能が埋もれてしまうのは、実に惜しい。どうです、もう一度取引の話をしませんか?」


黒沢理子は彼を見つめた。


「御影さん、生死は天命ですよ。あなたは私より若いでしょう?もし待っていただけるなら、死ぬ前に腎臓を無償で差し上げます。」


彼女はハンドクリームを手に取り、丁寧に塗り広げた。手のひらの温もりで、淡い香りがふわりと立ち上る。


その香りのせいか、それとも今の理子の静かな雰囲気のせいか、御影瑛一の視線はしばらく彼女にとどまった。その落ち着き払った様子に、今までの自分の提案が醜く思えてくる。


彼はすぐに口調を変えた。


「俺の血なら、あなたの命をつなぐ助けになるかもしれません。」


理子は動きを止め、驚いた表情で御影瑛一を見つめた。


「……何ですって?」


御影瑛一は淡々と答えた。


「少し特別な経験がありましてね。もしかしたら、あなたの病に効くかもしれない。」


それ以上の説明はなかった。


黒沢理子は疑念を抱きつつも、彼が深入りする気がないと察して、それ以上追及しなかった。彼女は薄く微笑み、手を差し出した。


「じゃ、助け合い、ということで?」


御影瑛一も手を伸ばし、彼女と握手を交わした。


そのとき——


「理子、どうしてそんなに遅いんだ?」


黒沢悟の声が割り込んできた。


理子は眉をひそめた。


「お兄ちゃん、外で待ってたの?」


彼女はすぐに、黒沢悟の視線が二人の握り合った手に注がれているのに気づいた。


黒沢悟は数歩前に出て、無理やり二人の間に割って入った。そして、叱るような口調で言う。


「理子、自分の身分をわきまえろ。外では自尊心と自愛を忘れるな!」


理子はそれを聞くと、すぐに黒沢悟の背後から回り込んだ。彼女は一歩も引かず、逆に御影瑛一の腕に手を添えて、そのまま彼を連れて歩き出した。そして低い声で嘲るように囁いた。


「私の兄は黒沢家の利益の熱心な擁護者よ。末期癌のような男尊女卑——命には関わらないけど、それなり十分不愉快な病気だわ。」


御影瑛一は、置き去りにされた黒沢悟を一瞥した。


「彼のことが、そんなに嫌いですか?」


黒沢理子の声は冷たい。


「兄なんて呼べる資格はないわ。私が本当に必要としたときに一度も寄り添ってくれなかったし、父の不倫も黙認してた。黒沢家は、いずれあの二人のせいで滅びるでしょうね。」


御影瑛一は黒沢家の事情をよく知っていたから、彼女の言葉の意味も理解していた。黒沢理子の見識や視野は、普通の良家の令嬢とは比べものにならない。ただ——


「黒沢さんほど家の問題が分かっているのなら、ご自身で立て直そうとは思わないんですか?」


黒沢理子は歩みを止め、皮肉な笑みを浮かべた。


「私が?私にそんな資格が?御影さん、あなたが調べたなら分かるでしょう、私が黒沢家でどんな存在かなんて。」


御影瑛一は肯定も否定もしなかった。


回転階段の前に来ると、彼は手で案内するような仕草をした。


「二階の方が眺めもよく、落ち着きますよ。」


理子が顔を上げると、二階の席は確かにプライベート感があった。御影瑛一が「株式会社リライズ」の実質的な大株主であることもあり、その存在感は特別だ。鹿野明が会場の注目を集めている今、この舵を取る人物の方がさらに権力を持っているのは明らかだった。


だが、理子には二階に行くつもりはなかった。


「御影さん、私にとって技術こそが命です。私の居場所は一階なんです。ご厚意は感謝します。」


彼女は軽く会釈し、一階の会場へと戻っていった。


御影瑛一は無理に引き止めず、階段を上がっていった。


黒沢理子が席に戻ろうとしたとき、竹内清美とそのアシスタントの大場恵が前からやってきた。二人はどうやら洗面所の方へ向かうところだった。


竹内清美は何も言わない。だが、大場恵はわざと黒沢理子の行く手をふさぐように立ち、嫌味たっぷりに言った。


「ねえ、前見て歩けない人もいるの?」


竹内清美が小さく呼び止めた。


「恵、もういいから。」


大場恵はすぐに応じたが、声はわざとらしく大きくなった。


「清美さんって、本当に優しいんだよね。世の中にはさ、鹿野社長に取り入って目立とうとする人もいるけど、自分の分を弁えることが大事だよ。」


竹内清美は困ったような顔で紹介した。


「この人、私の姉の黒沢理子です。」


大場恵は、わざとらしくも見下したような顔で言った。


「あー、あの“前科持ち”のお嬢様ね!清美さん、外では気をつけて。誰でもお姉さんになれるわけじゃないから。」


黒沢理子は冷たい視線で二人を一瞥した。


「もう芝居は終わり?」


竹内清美はすぐに低姿勢で謝った。


「ごめんなさい、お姉ちゃん。恵は私のアシスタントで友達でもあるから、性格がストレートで口が悪いの。気にしないで。」


黒沢理子は、母の竹内文子そっくりのその偽善ぶりを見て、心の中で冷笑した。十歳のときに見た竹内文子の演技は、今でも鮮明に記憶に残っている。


「やっぱり、母親に似るものね。類は友を呼ぶってこと。」


その言葉が終わるか終わらないかのうち、背後から怒気をはらんだ声が響いた。


「黒沢理子、清美に謝りなさい!」

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