理子は黒沢悟の声を聞いた瞬間、心の中に嫌悪感がこみ上げてきた。
――いったい、誰の「兄」なの?
もういい。彼はとっくに竹内清美の「良いお兄さん」役に成りきっている。
黒沢悟は大股で前に進み、鋭い声で命じた。
「理子、清美に謝れ!」
同時に、大場恵が素早く悟の腕に自然な仕草で手を絡め、親しげな態度を見せる。
理子の目が鋭く光る。その瞬間、すべてを理解した。
――なるほど、大場恵は黒沢悟に取り入ったのか。
彼女と竹内清美は同じ陣営。だからこそ、こんなに堂々と挑発できるわけだ。
目的は一つ――私を黒沢家から完全に追い出すこと。
次の瞬間、大場恵が悟の腕を揺らし、甘ったるい声で囁いた。
「悟兄さん、今初めて知ったけど、あの子があなたの妹さんなのね。でも、妹さんってこういう場にはあまり出ないの? 全然マナー分かってないみたい。ここにいる人たち、誰だって清美に顔を立ててくれるのに。」
黒沢悟は元々、甘えには弱いが、こうやって大場恵に「悟兄さん」と甘えられると、ますます清美への肩入れが膨らむ。ましてや、さっき理子が竹内文子と清美を一緒くたにして悪口を言っているのを確かに聞いてしまった。
いまや竹内母娘は黒沢家に住んでおり、父も清美の能力を大いに頼りにしている。だから黒沢悟は、「家族の和」とか「清美への顔立て」のために、少しくらい「分別のない」妹を犠牲にすることなど、何とも思っていない。どうせ謝るだけのこと、減るものでもない。
「身内」に損をさせるのは、彼にとってもう習慣だった。
だが、理子が彼を見る目は、まるで全くの他人を見るような冷たさだった。
その冷ややかな失望の視線が、悟のプライドを鋭く突き刺した。
「もう何歳だと思ってるんだ?まだそんなに反抗的なのか? 謝れって言ってるのが聞こえないのか?」
兄の威厳で押さえつけようと、さらに強い口調になった。
かつて、理子は自分が家族の中でしっかりとした立場にいると信じていたからこそ、傲慢に人の罪を被ってまで刑務所に入った。だが今は、自分の立場を誰よりも理解している。
――バカは一度で十分。
「謝れって?」理子はまったく怯まずに悟の目をまっすぐ見返し、冷たくはっきりとした声で言い放った。
「何のために?」
「竹内文子叔母さんと清美がどんな人間か、俺はよく分かってる!清美はここでも立場が高い!あの人柄と能力を考えたら、お前が謝るべきだ!」
「人柄と能力?」理子はまるでとてつもない冗談を聞いたように、短く冷笑した。そして、鋭い目で言い放つ。
「だったら、なおさら謝る価値なんてないわ!」
言い終わると、三人を一瞥もせず、振り返って御影瑛一の方へまっすぐ歩いて行った。
残された三人の顔色は、ひどく険しかった。
大場恵はすぐさま悟に訴える。
「悟お兄さん、あんな態度ってないよ!」
何度も威圧したのに効果がなく、大きな兄の威厳を踏みにじられた悟は、ますます怒り心頭。裏でこの「反抗的」な妹をしっかりと躾け直そうと心に決める。
竹内清美は、いつもの温和で寛大な仮面を保てず、顔を真っ青にしていた。理子の「なおさら謝る価値なんてない」という一言が、彼女の何よりも大事な「人柄」と「能力」を深く傷つけたのだ。業界で絶賛される自分に、黒沢理子ごときが? 一度刑務所に入り、夫にも息子にも嫌われた女が、自分を疑うなんて――。
理子が席へ戻ると、目の前の皿には、彼女が離席している間に御影瑛一が選んで盛ってくれていた数品の美しい料理が並んでいた。彼はこうしたビジネスの宴席には慣れているようで、味の良いものばかりを選んでくれている。
理子は確かに空腹を感じていたので、黙って座ると静かに食事を始めた。料理はどれも美味しく、珍しく食欲も湧き、集中して食べていく。
御影瑛一は時折、周囲の人と会話を交わしながらも、常に理子の皿に目を配り、好みに合う料理を適宜追加してくれた。そのさりげない気遣いは、他人から見ればとても自然で親しげに映る。
この一部始終は、向かいに座っている早瀬深の目にもはっきりと映っていた。
今夜の酒は、いつもよりずっと早いペースで飲んでいた。
料理にはほとんど手をつけていない。
胸の奥で、どうしようもない怒りが燃え盛る。
――黒沢理子! 俺という正式な夫が目の前にいるのに、こんなにも平然と他の男の世話を受けて、しかも美味しそうに食べているとは!
――少しは妻としての自覚がないのか? 妻たる道徳ってものを分かっているのか?
そう考えれば考えるほど、胸の炎は激しくなり、酒を飲む手も速くなる。
竹内清美が彼の隣に戻ってきたとき、早瀬深は理子の方を陰鬱な目で睨みつけたまま、また一気に強い酒を喉に流し込み、さらにグラスを満たした。
清美は、理子の「なおさら謝る価値なんてない」という一言で既に気分が悪かったが、今の早瀬深のやけ酒姿を見てさらに胸が詰まる。
何とか笑顔を作り、グラスを持って隣に座る――ずっと彼女をスカウトし、同時に口説いている某社長に自ら乾杯を持ちかけ、早瀬深の注意を逸らそうとした。
だがその時、早瀬深は突然グラスを置き、勢いよく立ち上がり、鋭い視線で理子の方を見据え、大股で歩き出しそうな気配を見せた――。