――女児を産めぬ
それは、この国にまだ『
わたくしが王妃様の侍女を務めておりましたころ──そのお方は、男女の双子を慈しみ育てておられました。
男児には
ある日、庭の白梅の前で立ち止まり、目を閉じてこう申されたのです。
「この花は、昨日よりも静か。誰かが泣いたのかも」
その言葉に、妃様はふと目を伏せ、そっと
隣では活発で好奇心旺盛な
あの頃の妃様は、双子の成長を何よりの喜びとされており、この幸せが永遠に続くものと、信じておられたのでございます。
けれども──その幸せは、長くは続きませなんだ。
その年、宮廷にて新たな制度が定められました。
その制度の名は、『
この制度の背景には、悲しい歴史がございます。
かつて王家は男系の継承を重んじ、争いが絶えませなんだ。
血で血を洗う戦乱が国を疲弊させ、多くの命が失われました。
戦乱を鎮めたのは、香をもって人心を掌握した女性たち。
自らの心を香りに託し、愛する人々を守るために、身を削って争いの渦中へと身を投じたのでございます。
その才をたたえ、女児こそ国を導くべしという考えが広まりました。
しかし、この考えが新たな制度として定められることは、それまで一度もございませんでした。
そのため、宮廷は誰もが困惑し、実例のない前代未聞の事態に、下女たちは噂していたのです。
「『
「男女の双子をお産みになったあの妃様は、どうなるのかしら?」
「男の子は、家門に名を残すことすらできないそうよ。」
「女の子だけが、后の候補になのよね」
この制度の裏には、残酷な仕組みが隠されておりました。
王家から女子が生まれぬ場合、妃の実子である男子を密かに里に降ろし、代わりに身分の低い家の娘を妃の娘として迎える、それが「交換」という制度だったのでございます。
この制度となったのは、イナ妃様の手によるものにございます。
双子を育てる妃様の在り方は、制度に綻びをもたらすものとされたのでございます。
それは、ただ、純粋な愛情ゆえに、二つの命をともに手放せなかった。
そのことが、ついにイナ妃様の耳に届いたのでございます。
「そなたの行動は、制度の定めに背くものだ。王室の威厳を保たれよ」
その言葉を受け、妃様はすべてを悟られました。
その夜、わたくしと
「
その夜、イナ妃の侍女によって、双子様はそれぞれ別の場所へと連れて行かれたのでございます。
幼き
村の夫婦に事情を話し、姫様を「
そこで、
妃様は、双子様と引き離された悲しみから、次第に心を病まれました。
やがて、妃様の食事には、何者かによって少量ずつの毒が盛られるようになり、そのお身体と心を蝕んでいきました。
妃様の立ち居振る舞いには、かつての高貴な品格をかろうじて残しておられましたが、髪は伸び放題となり、王様から贈られた一本のかんざしだけを、緩く束ねておいででした。
そのかんざしは、わたくしたち侍女が命がけで隠し、妃様にお渡ししたものでございます。
窓から差し込むわずかな光の下、妃様の香りだけは、まだ完全に失われてはおりませなんだ。
それは、冬の寒さに耐えて咲く
妃様は幽閉されたまま、遠く離れた双子様の無事を、ただひたすらに祈り続けておられました──。
* * *
スハ様が農村の暮らしに、なかなかなじめずにおられた頃のことでございます。
ある日──
その川辺にて、書物を広げていたスハ様に──
一人のご婦人が、風のようにひっそりと現れ、声をかけられたのでございます。
「――お前は、人とは違うものが見えているのだろう」
そのお声は、まるで香のように静かで、けれど確かに心に届くものでございました
。
ご婦人は、スハ様の小さな手にそっと触れ、指先に墨の筆をなぞられました。
「学を学びなさい。弓も剣も、馬も。
そして何より、人間の本質を観察する目を持ちなさい」
その言葉は、種のようにスハ様の幼き心に蒔かれ、やがて深く根を張ることとなりました。
川辺でご婦人と過ごされた日々は、スハ様にとって何よりも安らぎに満ちたひとときにございました。
ご婦人は、いつも問いかけておられました。
「花とは何か?」
「真の香とは?」
「和平の根にあるものは?」
その問いは、まるで香の層を一枚ずつ剥がすように、スハ様の心を静かに揺らしておりました。
そして、ご婦人は語られました。
制度の矛盾、宮廷に渦巻く欲──それらを香によって読み取る術を。
「一つの腹から生まれた二人が、別々の運命に分かたれる。
その矛盾が、制度の綻びとして隠された。
綻びは、やがて真の姿を現す──その時、お前が嗅ぎ分けるのだ」
そのお言葉は、幼きスハ様の胸に深く刻まれ、香のように消えることなく残り続けたのでございます。
* * *
あれから、五年の歳月が流れ──
スハ様は、十歳になっておられました。
村の者たちの間で、こんな噂が囁かれていたのでございます。
「男の子のような服を着ているが、見惚れるほどに美しい娘がいる」
「言葉少なだが、所作は静かで洗練されている」
「書も詩も学び、農家の娘にしては尋常でない教養を持つらしい」
その娘こそ、妃候補として交換されるはずの一人──
農村の片隅で、静かに暮らしておられたスハ様にございます。
けれど、スハ様は妃となることを望んでおられませんでした。
着飾ることも、媚びることも、選ばれるための努力も──
すべてを拒み、男装をして日々を送っておられました。
その在り方が、かえって周囲との違いを際立たせたのでございます。
努力せずとも目を引く。
競わずとも見惚れられる。
そんな不思議な魅力を、スハ様は自然と身にまとっておられました。
后宮の空気さえ吸ったことのない娘の噂が、風に乗って、遠い后宮にまで届き始めた頃──
ふと耳にしたその噂に、目を細めた一人の妃がおりました。
后宮に仕えるその方は、誰よりも早く行動を起こされたのでございます。
それが、すべての始まりにございました。
(つづく)