「うっ……げほげほげほっ」
薄暗い閉じられた部屋の中、少女の苦しげな咳が響く。胃の中身を吐き出した少女は、青い顔をして喉を押さえていた。
少女を嫌悪の表情で見下ろすのは、勝ち気な印象の美しい娘だ。大きく舌打ちをして、顔を背けた。
「やぁね、きったない。そこ、自分で掃除しときなさいよ」
「げほっ……はい、ウィンダ様」
「ふん」
ほこりだらけのその部屋において、ウィンダと呼ばれた娘が汚れることはない。何故なら、彼女の体は己の魔力で保護されているから。美しく豪奢なドレスが、ほこりを受け付けない。
対する薄汚れた少女は、もう何年も洗っていない髪に多くの汚れを貼り付けている。時折水属性の魔法を使う父親が実験の片手間におぼれさせることがあるが、それだけだ。かつて青みがかった黒髪だったそれは、今や老婆もかくやという灰色の髪へと変色していた。
少女は自分が吐き出した汚物を、部屋備え付けの水道で洗った雑巾で拭く。その様子を扇子越しに眺め、ウィンダは「ああ、汚らわしい」と嗤った。
「全く……実験台として使えるから、お前は生かされているのよ。……ヘリステア家の血が通っているなんて、とても信じられないけど」
「……」
「聞いているの、イーリス?」
「……はい、ウィンダ様。心より感謝しております」
「そう」
感情の起伏の全くない少女・イーリスの答えを聞き、ウィンダは突如興味をなくしたのか、さっさと部屋の外へ出て行った。
部屋の鍵が閉まり、足音が遠ざかる。静寂が訪れ、イーリスは深く息を吐き出した。
「……今日も、終わった」
汚れた雑巾を洗って掛け、のろのろと壁際の指定席へ座り込む。そこには椅子もクッションもないが、毎日座る落ち着く場所だ。
もうそろそろ、食事が運ばれて来るだろう。今が何時なのか、何月何日なのかもわからない。けれど、イーリスは日に一度の食事の回数を数えながら、ここに閉じ込められてから何日経過したかを数えていた。
壁に傷をつけ、もう一年が経とうとしていることに気付く。しかしイーリスにその感慨はなく、食事が運ばれて来るまで寝ていようと目を閉じる。
(もう、何かに期待するのは諦めた)
イーリスは、正真正銘ヘリステア家の娘だ。ウィンダの妹で、妾ではなく正妻の子。
しかし、強力な魔力を持つ家系であるヘリステア家に生まれたにもかかわらず、イーリスには魔力がなかった。無属性、とも称される。
魔力を持たないとわかった後、イーリスの扱いは一変した。下働き同然、もしくはそれ以下の待遇となったのだ。食事は日に一度、外に出ることを禁じられ、好きだった絵本を読むことも出来なくなった。そして毎日屋敷内の掃除を命じられ、姉の世話をさせられた。
「あなたには、必ず運命が待っているわ。だから、きっと生きることを諦めないでね」
十歳の時に亡くなった祖母は、生きていた時唯一イーリスを可愛がってくれる人だった。
一族の中でも強い魔力を持っていた祖母は、時折本家の屋敷を訪れてはイーリスとウィンダを可愛がった。基本的には同等に扱ったが、互いを貶めることは許さなかった。
しかし力の強い祖母が亡くなると、イーリスの立場は更に悪くなる。国立魔法研究所に勤める父親の意向で、魔法実験の実験台とされるようになったのだ。
(お祖母様、運命って何ですか……?)
幼いイーリスの問いに、祖母は笑って答えなかった。当時はただキラキラとした運命を夢見たが、今は違う。そんなもの、自分のところにはありはしない。
(わたしの命は、いつ消えてもおかしくないのに)
膝を抱え、目を閉じる。やがていつも通り乾いたパンが投げ込まれた音がして、イーリスはのろのろと瞼を上げた。