薬で眠らされたイーリスは、気付かぬ間に移動させられていた。瞼を開く前から、周囲のざわめきがウサギの耳に入って来る。実験の時以外は静寂の中にいたイーリスにとって、それは驚くほど騒がしいものだった。
(一体、何処に連れて来られたの……?)
自分がまだウサギの姿であることは、体の感覚でわかっていた。人に戻る気配はない。
イーリスがおそるおそる目を開けると、目の前に格子があった。それがケージの格子だと気付いた後、部屋の中には二十や三十では足らない数のケージが棚の上に置かれていることに気付く。ものによっては、ケージの上に重ねられていた。
(中にいるのは、動物みたい。ウサギ、モルモット、ネズミ……ここは、実験室?)
他にも、サルや見たことのない小動物がひしめいている。どのケージからも、この世の終わりのような悲鳴めいた鳴き声が聞こえていた。
(成る程。わたしは、実験動物として売られたってわけか……)
魔力無しの役立たず、更にはウサギになってしまっ手は、使い所もないということか。イーリスは軽く息をつくと、壁側に寄りかかった。
(わたしはここで、ウサギのまま死んでいくんだな……)
今更、抗おうという気力も湧かない。イーリスは再び目を閉じ、外を遮断した。
❁❁❁
再び目を覚ましたイーリスは、部屋の中で物音を聞く。気になりはしたが見に行くのも億劫でそのままにしていると、自分のケージが持ち上げられた。
突然覗いた男の顔に、イーリスはびくっと毛を逆立てる。
「これが、ヘリステア候爵様の……。なんと、ただのウサギにしか見えんな」
眼鏡の弦をくいっと上げ、男はそう呟いた。彼の白衣の胸ポケットには、はっきりと『王国立魔法研究所第三支社職員』と書かれている。つまりここは、イーリスの父の職場に関係のある施設なのだ。イーリスの父・ジオーグは、魔法研究所の高位研究者をしている。
「さて、どう使っても良いということだが……。今回の実験には、こちらが向いておろうな」
男はイーリスのケージを元の場所に戻すと、別のケージを手に取った。中に入っている二匹のネズミは、キーキーとけたたましく鳴いている。
ケージを机の上に置き、男は何かを準備し始める。魔力を大量に感じる液体の入った注射器を数本を用意し、ケージがすっぽり入る大きさのバリアを発生させる。
「おお、忘れていた」
男が店から取り出したのは、別の液体の入った注射器。それを軽く振り、ケージの中のネズミたちに注射する。
液体を注入されたネズミたちは、一瞬ぴたりと動きを止めた。しかしすぐに耳をつんざくような叫び声を上げ始める。
(何!? 一体何が起こっているの……)
イーリスの入っているケージは、男の手元が良く見える高さに置かれている。だから見ようとしなくても、勝手に目に入って来るのだ。
ネズミたちの体が、徐々に膨らむ。否、膨らんでいるのではなく、奇妙なほどに筋肉が増加しているのだ。力強くケージの格子を噛めば千切れ、自由に外に出ることが可能となる。
しかしネズミたちのケージは既にバリアの中に入れられており、それ以上外に出ることは困難だった。
それでも何とか外に出ようともがくネズミたち。研究者の男は先に用意していた注射器を持ち、空いている手でネズミを一匹掴もうとした。
「――痛たっ! くそ、抵抗して来やがって。けど、報告書に『筋力増強剤』を注入したネズミに抵抗されて実験出来ませんでした……なんて書くわけにはいかないからな」
ネズミの尾にひっぱたかれた手を軽く振ってから、男は今度こそネズミを一匹わしづかみにする。そしてバタバタ抵抗するネズミの首に、注射の針を突き刺した。
変化は十秒足らずで訪れる。魔力がネズミの体の中で大暴れし、ネズミの体を内側から八つ裂きにした。ドンッという爆発音が響き、魔法の破裂と共にネズミの姿は消えている。
ネズミだったものの破片がバリアの内側に散らばり、生き残っているネズミが焦った声で鳴く。
爆発の影響はバリアの中に留められ、部屋の中に被害はない。
「うーん……失敗だな。あいつの魔力に似せた力を混ぜ込んでみたが、それでもこの威力か。本物を抑え込むとなると、まだまだ」
ぶつぶつと言う男は、生き残ったネズミを再びケージに入れた。目の前で仲間が死ぬのを見たネズミは、大人しい。
男は作業台の上に書類を広げると、何やら書き始めた。
(……こんな風に、実験によって死ぬのね)
何処か他人ごとでそんなことを思いながら、イーリスはぼんやりと薄汚れた天井を見上げる。しばらくの間、実験室はただ獣たちの鳴き声にあふれていた。