目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話 恋なんて、ありえないが

 朝。寄宿舎には目覚ましよりも早く、不機嫌な舌打ちが響いた。


──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルの声だった。


「おい、起きろ」


 肩をぐいと揺さぶられて、章吾は反射的に呟いた。


「……ママぁ……」


 その瞬間、意識が一気に冴える。


「ふむ、Hiwatariはママと同室か」

「ち、ちが……っ!」


 章吾は慌てて布団に潜り込んだ。耳の奥までじんわりと熱くなる。


 ふと、空気が止まった気がした。布団越しに、彼の視線を感じる。


(……見てる?)


 笑ったのか、呆れたのか。──それとも。


「起きろ、Hiwatari。私はママではない」


 その言葉の優しさに、胸がどきりと高鳴った。




 章吾にとって、初めての授業が始まった。

 開始早々、章吾は手を上げる。


「先生。そこ、符号が逆です」


 教室に、ざわめきが起こった。


 教師が「よく気づいたね。書き間違えていた」と決まり悪そうに頭を下げた。


 その中で──アルジャーノンからの視線。

 まっすぐに、射貫くように。


「見んなよ、貴族」


 言いながら、内心はもっと騒がしい。あの目に触れるたび、心の奥がざわっと揺れる。


 アルジャーノンはほんの少し、口元を動かした。


「君のことなど、見ていない」


 そんな風に、聞こえた。


 そして視線だけが、妙に胸に残った。



 授業が終わり、章吾は中庭を歩いていた。


「あの留学生、何者だ」というざわめきの中で、声をかけてきたのは、クラスメイトのエミールだ。


「君、すごいよね。さっきの、なんで気づいたの?」

「ああ、それは……」

 章吾が説明しようとしていると、目の端にアルジャーノンが映った。


 そしてその隣には、ひとりの少年。


 ふたりの距離は、近い。


「ねぇ、アルジー。まさか本気で彼のこと、気にかけてる?」


「はは、レジー。Hiwatariはそんなんじゃないよ」


 声が届いた。


(……俺のこと?)


 足が、止まった。声は軽く笑っていたのに、胸の奥がきゅっと縮まる。


──レジー。アルジー。


 親しげな呼び名が、ひどく遠く感じた。


 その瞬間、アルジャーノンがこちらに目を向けた。少し遅れて、隣の少年も。


 レジーと呼ばれたその少年は、章吾と目が合うと、にやりと片頬を上げた。


 そのままゆっくりと視線を逸らし、アルジャーノンの肩に軽く手を添えて、踵を返す。


 アルジャーノンも、それに続くように奥へと消えていった。


(……誰だよ、あいつ)


 胸の奥で、ひとつ音がした。ぱきりと、ヒビが入るような音。


 「章吾?」


 クラスメイトのエミールにも、返事ができない。


 笑うふりはできた。でも、気持ちは笑ってなんかいなかった。


 ──あんな顔、俺には向けたことなかったくせに。


 あの目、あの笑い声、あの距離。


(……何なんだよ、お前)


 ざわつく心をごまかすように、章吾は足早に歩き出した。あの光景だけが、脳裏にこびりついて離れなかった。



 夜。ペンを走らせながら、ふと顔を上げる。


──向こうのベッドから、アルジャーノンが見ていた。


 目が合って、すぐに逸らされる。


「……なに、見てた?」

「君が先に見ていた」

「は? いや、そっちが先に──」 

「証拠は?」


 ムカついて、思わず笑ってしまう。アルジャーノンもふ、と目元を緩めた。


 敵でも、ただのルームメイトでもない──気づけば、あの目を追ってしまう。


(これって──?)


 章吾は、ランプの明かりをそっと落とした。暗闇の中で、鼓動だけが熱を持っていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?