朝。寄宿舎には目覚ましよりも早く、不機嫌な舌打ちが響いた。
──アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルの声だった。
「おい、起きろ」
肩をぐいと揺さぶられて、章吾は反射的に呟いた。
「……ママぁ……」
その瞬間、意識が一気に冴える。
「ふむ、Hiwatariはママと同室か」
「ち、ちが……っ!」
章吾は慌てて布団に潜り込んだ。耳の奥までじんわりと熱くなる。
ふと、空気が止まった気がした。布団越しに、彼の視線を感じる。
(……見てる?)
笑ったのか、呆れたのか。──それとも。
「起きろ、Hiwatari。私はママではない」
その言葉の優しさに、胸がどきりと高鳴った。
*
章吾にとって、初めての授業が始まった。
開始早々、章吾は手を上げる。
「先生。そこ、符号が逆です」
教室に、ざわめきが起こった。
教師が「よく気づいたね。書き間違えていた」と決まり悪そうに頭を下げた。
その中で──アルジャーノンからの視線。
まっすぐに、射貫くように。
「見んなよ、貴族」
言いながら、内心はもっと騒がしい。あの目に触れるたび、心の奥がざわっと揺れる。
アルジャーノンはほんの少し、口元を動かした。
「君のことなど、見ていない」
そんな風に、聞こえた。
そして視線だけが、妙に胸に残った。
授業が終わり、章吾は中庭を歩いていた。
「あの留学生、何者だ」というざわめきの中で、声をかけてきたのは、クラスメイトのエミールだ。
「君、すごいよね。さっきの、なんで気づいたの?」
「ああ、それは……」
章吾が説明しようとしていると、目の端にアルジャーノンが映った。
そしてその隣には、ひとりの少年。
ふたりの距離は、近い。
「ねぇ、アルジー。まさか本気で彼のこと、気にかけてる?」
「はは、レジー。Hiwatariはそんなんじゃないよ」
声が届いた。
(……俺のこと?)
足が、止まった。声は軽く笑っていたのに、胸の奥がきゅっと縮まる。
──レジー。アルジー。
親しげな呼び名が、ひどく遠く感じた。
その瞬間、アルジャーノンがこちらに目を向けた。少し遅れて、隣の少年も。
レジーと呼ばれたその少年は、章吾と目が合うと、にやりと片頬を上げた。
そのままゆっくりと視線を逸らし、アルジャーノンの肩に軽く手を添えて、踵を返す。
アルジャーノンも、それに続くように奥へと消えていった。
(……誰だよ、あいつ)
胸の奥で、ひとつ音がした。ぱきりと、ヒビが入るような音。
「章吾?」
クラスメイトのエミールにも、返事ができない。
笑うふりはできた。でも、気持ちは笑ってなんかいなかった。
──あんな顔、俺には向けたことなかったくせに。
あの目、あの笑い声、あの距離。
(……何なんだよ、お前)
ざわつく心をごまかすように、章吾は足早に歩き出した。あの光景だけが、脳裏にこびりついて離れなかった。
*
夜。ペンを走らせながら、ふと顔を上げる。
──向こうのベッドから、アルジャーノンが見ていた。
目が合って、すぐに逸らされる。
「……なに、見てた?」
「君が先に見ていた」
「は? いや、そっちが先に──」
「証拠は?」
ムカついて、思わず笑ってしまう。アルジャーノンもふ、と目元を緩めた。
敵でも、ただのルームメイトでもない──気づけば、あの目を追ってしまう。
(これって──?)
章吾は、ランプの明かりをそっと落とした。暗闇の中で、鼓動だけが熱を持っていた。