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第3話 君のことを家柄で測るつもりはない

「……なあ、俺のこと、見てるよな?」


 朝の食堂。カップを手にしたまま、章吾がふいに言った。


 アルジャーノンはスプーンをじゃりと鳴らしながら、顔を上げる。


「何の話だ」

「いや、最近……視線、感じるっていうか」

「君の『自意識過剰』ではないか?」

「マジで言ってんの?」

章吾は目を細めて、訝しげに相手を見返す。


「っていうかさ。お前、角砂糖入れすぎだろ」

「……君には関係ない。五個だけだ」

 アルジャーノンは、いかにも当然という口ぶりだった。


「甘すぎんだろそれ」

「甘さは、心の余白だ」

 どこか誇らしげな態度に、章吾は吹き出した。


「君は甘さを避ける。だから、人生もほろ苦い」

「……はいはい、お貴族様」

 そう返しながらも、頬のあたりが自然と緩んでいた。


 ……ただの、くだらない朝の会話。

 なのに、そんなやりとりが少しだけ心地よかった。


 ふと、脳裏をよぎった。


(案外、ルームシェアも悪くないかもな)


 ──だが。日常なんて、いつだって崩れるものだ。




「さて、今日は『貴族制の変遷』について」


 静かに始まった授業で、チョークが黒板を走る。


「British Peerage System」


 白い文字の向こうで、章吾の喉が、かすかに鳴った。


(……嫌なテーマきた)


 ひやりと背筋が凍る。


「日本は、戦後に華族制度が廃止されましたね」


 教授の目が、ふいにこちらを向いた。


「Hiwatari君。君の家は?」


 ……一瞬、空気が止まった。


「元・男爵家のひ孫です」


 そう答えると、何人かがくすっと笑った。冗談めいた空気の中に「棘」があった。


 アルジャーノンが、何かを言いかけた気がした。章吾はそれを断ち切るように、ペンを動かし続けた。


(……こっちじゃ、笑い話なんだよ。いくら日本で『日渡家』が有名でも)


 黒板に並ぶ「Duke」「Earl」「Marquess」。 目の前の貴族たちと、自分との隔たり。それが胸に刺さって、抜けなかった。



 授業後。廊下で、章吾はアルジャーノンとすれ違おうとした。そのとき。


「……君のことを、家柄で測るつもりはない」

 その声は、穏やかで、あたりまえのように優しかった。


 章吾の肩が、ぴくりと動く。


「そういうとこが、ムカつくんだよ」


 真っ直ぐすぎる目。なんでだろう、それが少しだけ腹立たしかった。


 わかったような顔をするなよ。わかってないくせに。


「お前には、わかんねぇだろ」


 アルジャーノンの瞳が、わずかに揺れた。不意に、胸の奥に沈めていた記憶が顔を出す。



「章吾。おうちのこと、誇っていいのよ」


 ──母の声だった。


 優しくて、やわらかくて。でももう、どこにも届かない声。家が壊れたあの日、誇りも、安心も、全部なくなった。


 だから今は、自分で守らなきゃいけない。プライドも、居場所も、誰にも任せられない。


「わかろうとしている。君が思っている以上に」


 アルジャーノンの声が、低く、静かに響いた。


 章吾は机の縁を握りしめた。


「だったら──俺の劣等感、イメージできるのかよ」


 喉の奥がつまって、声が震えた。 


 アルジャーノンは、目を伏せて、ぽつりと呟く。


「……わからないことはある。しかし、君を一人にすることはできない」


「勝手にすれば」


 章吾は立ち上がる。椅子を引く音だけが、教室に残った。

 アルジャーノンはただ、黙ってその背中を見送った。



(感情は、言葉にするものではない)


 アルジャーノンは、そう教えられてきた。喜びも怒りも、愛さえも──静かに、沈黙の中に封じ込めるものだと。


 それなのに、その沈黙は──あまりにも、届かなかった。


(もし、言葉で届くのなら)


 胸の奥で、何かがつかえていた。その先を言葉にしようとするのに、どうしても声にならなかった。


 ふたりのあいだに、また沈黙が落ちる。それは深く、重く、そして、痛かった。


 同時に、その沈黙の向こうにあるものを──もう少しだけ知りたくなっていた。


 なぜなら、あの背中が、どうしようもなく、放っておけなかったからだ。

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