「……なあ、俺のこと、見てるよな?」
朝の食堂。カップを手にしたまま、章吾がふいに言った。
アルジャーノンはスプーンをじゃりと鳴らしながら、顔を上げる。
「何の話だ」
「いや、最近……視線、感じるっていうか」
「君の『自意識過剰』ではないか?」
「マジで言ってんの?」
章吾は目を細めて、訝しげに相手を見返す。
「っていうかさ。お前、角砂糖入れすぎだろ」
「……君には関係ない。五個だけだ」
アルジャーノンは、いかにも当然という口ぶりだった。
「甘すぎんだろそれ」
「甘さは、心の余白だ」
どこか誇らしげな態度に、章吾は吹き出した。
「君は甘さを避ける。だから、人生もほろ苦い」
「……はいはい、お貴族様」
そう返しながらも、頬のあたりが自然と緩んでいた。
……ただの、くだらない朝の会話。
なのに、そんなやりとりが少しだけ心地よかった。
ふと、脳裏をよぎった。
(案外、ルームシェアも悪くないかもな)
──だが。日常なんて、いつだって崩れるものだ。
*
「さて、今日は『貴族制の変遷』について」
静かに始まった授業で、チョークが黒板を走る。
「British Peerage System」
白い文字の向こうで、章吾の喉が、かすかに鳴った。
(……嫌なテーマきた)
ひやりと背筋が凍る。
「日本は、戦後に華族制度が廃止されましたね」
教授の目が、ふいにこちらを向いた。
「Hiwatari君。君の家は?」
……一瞬、空気が止まった。
「元・男爵家のひ孫です」
そう答えると、何人かがくすっと笑った。冗談めいた空気の中に「棘」があった。
アルジャーノンが、何かを言いかけた気がした。章吾はそれを断ち切るように、ペンを動かし続けた。
(……こっちじゃ、笑い話なんだよ。いくら日本で『日渡家』が有名でも)
黒板に並ぶ「Duke」「Earl」「Marquess」。 目の前の貴族たちと、自分との隔たり。それが胸に刺さって、抜けなかった。
授業後。廊下で、章吾はアルジャーノンとすれ違おうとした。そのとき。
「……君のことを、家柄で測るつもりはない」
その声は、穏やかで、あたりまえのように優しかった。
章吾の肩が、ぴくりと動く。
「そういうとこが、ムカつくんだよ」
真っ直ぐすぎる目。なんでだろう、それが少しだけ腹立たしかった。
わかったような顔をするなよ。わかってないくせに。
「お前には、わかんねぇだろ」
アルジャーノンの瞳が、わずかに揺れた。不意に、胸の奥に沈めていた記憶が顔を出す。
「章吾。おうちのこと、誇っていいのよ」
──母の声だった。
優しくて、やわらかくて。でももう、どこにも届かない声。家が壊れたあの日、誇りも、安心も、全部なくなった。
だから今は、自分で守らなきゃいけない。プライドも、居場所も、誰にも任せられない。
「わかろうとしている。君が思っている以上に」
アルジャーノンの声が、低く、静かに響いた。
章吾は机の縁を握りしめた。
「だったら──俺の劣等感、イメージできるのかよ」
喉の奥がつまって、声が震えた。
アルジャーノンは、目を伏せて、ぽつりと呟く。
「……わからないことはある。しかし、君を一人にすることはできない」
「勝手にすれば」
章吾は立ち上がる。椅子を引く音だけが、教室に残った。
アルジャーノンはただ、黙ってその背中を見送った。
*
(感情は、言葉にするものではない)
アルジャーノンは、そう教えられてきた。喜びも怒りも、愛さえも──静かに、沈黙の中に封じ込めるものだと。
それなのに、その沈黙は──あまりにも、届かなかった。
(もし、言葉で届くのなら)
胸の奥で、何かがつかえていた。その先を言葉にしようとするのに、どうしても声にならなかった。
ふたりのあいだに、また沈黙が落ちる。それは深く、重く、そして、痛かった。
同時に、その沈黙の向こうにあるものを──もう少しだけ知りたくなっていた。
なぜなら、あの背中が、どうしようもなく、放っておけなかったからだ。