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第4話 かわいいな、君は

 ──まだ、好きじゃない。

 でも、もう「どうでもいい相手」には戻れなかった。



 その日の放課後。図書室はしんと静まり返っていた。


 人影はまばらで、窓から差し込む西日が床に淡い縞模様を落としている。


 章吾はソファに身を沈め、本を開いたまま、そっと目を閉じた。


 ふと父の声が頭の奥で響く。


「一流のリーダーには、一流の学び舎を。世界に通じる場所で鍛えてくるように」


 その言葉が、今も心に残っていた。


 昼の講義、慣れない英語、気の張る異国の空気。疲れがピークに達したとき、眠気がそっと忍び込んできた。


 まぶたの裏に、じんわりと温かさがにじむ。

 そのとき──背後に気配を感じた。



 誰かが見ている気がした。

 でも、目は開けなかった。開けたくなかった。


 ぱたん、と本を閉じる音がする。

 静かな音なのに、妙に心の奥まで届いた。


(……あいつ、いるのか)


 さっきまで、口論めいたやりとりをしたばかりだ。それなのに、ここに来て──しかも、自分のほうを見ているなんて。


 なんだか、ひとり腹を立てている自分がばかみたいだった。



 夜。共用ラウンジには紅茶の湯気と、やさしい甘い香りが漂っていた。


 章吾は、何も言わずにマグカップを差し出す。取っ手は、右側に向けて。


「さっき、図書室にいただろ。……これ、いらなかったら、俺が飲む」


 照れ隠しのような声だった。目は合わせられず、手だけが近づいていく。


 カップを受け取ろうとしたアルジャーノンの指先と、自分の指が触れた。


「……っ、わ、悪い……」


 反射的に肩が跳ね、そっぽを向いた。耳のあたりが、じんじんと熱い。こんなの、いつぶりだろう。


「ありがとう、Hiwatari」

「……お、おう」


 思いがけない感謝の言葉に、じんと熱が滲んでいく。こんなふうに、さりげなく距離を詰めてくるから──気づけば、また目で追ってしまっていた。


 消灯前。


「……電気、消していいか?」


「……うん」


 たったそれだけの会話なのに、なぜだか胸が落ち着かない。声が少しだけ掠れていたのを、自分でも自覚していた。


 ぱちん。スイッチの音とともに、世界が闇に沈む。


「……っ」


 思わず、布団の端を握りしめる。


「……君、暗闇が怖いのか?」


 アルジャーノンの声が、驚きもからかいもなく、ただやわらかかった。その声音だけで、少し呼吸が楽になる。


 返事はできなかった。


 やがて、隣のベッドがわずかに軋む。気配が、すぐ近くまで来て──何かが、布団越しに触れた。


 あたたかい手だった。重ねるのではなく、触れているだけの距離。


「大丈夫だ。すぐ隣にいる」


「なんだよ、子ども扱いして……」


 精一杯の反発だったけれど、声は少し震えていた。それでも、手は離れず──ふたりの距離は重なったままだった。


 そのとき、耳元で。


「……かわいい」


 小さな声が、ぽつりと零れた。


「な……っ」


 章吾は思わず布団を頭までかぶった。肩が小さく揺れるが、逃げなかった。


 それだけで、何かが、少しだけ変わった気がした。



 ふと、夜中に目が覚めた。喉が渇いて毛布を押しのけ、そっと体を起こす。


 寄宿舎は静まり返っている。床が軋まないように気をつけながらドアへ向かいかけた──そのとき。


 ──視界の端に、月明かりを拾った髪が見えた。


 金糸のような髪。アルジャーノンの寝顔だった。


 眠っているはずなのに、妙に静かで、どこか目が離せなかった。


(……なに見てんだよ、俺)


 視線を逸らそうとして、できなかった。


 そのとき、視界の端で光が反射した。机の上のフォトフレーム。母と並んで写る、幼い自分。


「……ママ」


 思わず漏れた声が、夜の空気に滲んでいった。


 被災した日から、これだけはずっと守ってきた。この写真がなければ、自分の場所がなくなる気がしていた。


(でも今は……)


 視線を戻す。隣には、眠る誰かがいる。その呼吸が、静かに部屋の空気を満たしていた。


(あいつ……なんなんだよ)


 ムカつく。なのに、気づけば思い出してしまう。


 そっとベッドに戻ったとき、気配が変わった気がした。


 ……寝息が、止まった?


 いや、気のせいかもしれない。だけど、あいつが眠ったふりをしていたら──それはそれで、なんだか腹が立つような、妙な気持ちだった。


 ──そして、朝。


 まぶたを開けて最初に感じたのは、違和感だった。


 腹にかかる見覚えのない毛布。

 指先に触れる、あたたかさ。

 耳元で聞こえる、誰かの寝息。


 ……寝息?


 ゆっくりと視線を落とす。そこには、金色の髪。


「……なっ……」


 声が喉で詰まり、瞬時に跳ね起きた。毛布ごと後ろに飛びのいて、頬が熱くなる。


「なんで俺のベッドに……!」


 真っ赤になって叫んだ声に、アルジャーノンも目を開ける。少しだけ伏せた視線の奥、髪をかきあげながら呟くように言った。


「……昨夜、君が眠れないようだったから」

「そ、そんな理由で!」


 反論しようとして、言葉が出ない。むしろ心臓のほうが、うるさくて。


(まさか……ずっと、隣にいてくれたのか)


 布団越しに感じたぬくもり。触れかけた自分の指。


 ふたりの間に落ちた沈黙。それは気まずさではなく、名もない何かのはじまりだった。


 もう、元には戻れない。それだけは、確かに分かっていた。

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