──まだ、好きじゃない。
でも、もう「どうでもいい相手」には戻れなかった。
*
その日の放課後。図書室はしんと静まり返っていた。
人影はまばらで、窓から差し込む西日が床に淡い縞模様を落としている。
章吾はソファに身を沈め、本を開いたまま、そっと目を閉じた。
ふと父の声が頭の奥で響く。
「一流のリーダーには、一流の学び舎を。世界に通じる場所で鍛えてくるように」
その言葉が、今も心に残っていた。
昼の講義、慣れない英語、気の張る異国の空気。疲れがピークに達したとき、眠気がそっと忍び込んできた。
まぶたの裏に、じんわりと温かさがにじむ。
そのとき──背後に気配を感じた。
誰かが見ている気がした。
でも、目は開けなかった。開けたくなかった。
ぱたん、と本を閉じる音がする。
静かな音なのに、妙に心の奥まで届いた。
(……あいつ、いるのか)
さっきまで、口論めいたやりとりをしたばかりだ。それなのに、ここに来て──しかも、自分のほうを見ているなんて。
なんだか、ひとり腹を立てている自分がばかみたいだった。
*
夜。共用ラウンジには紅茶の湯気と、やさしい甘い香りが漂っていた。
章吾は、何も言わずにマグカップを差し出す。取っ手は、右側に向けて。
「さっき、図書室にいただろ。……これ、いらなかったら、俺が飲む」
照れ隠しのような声だった。目は合わせられず、手だけが近づいていく。
カップを受け取ろうとしたアルジャーノンの指先と、自分の指が触れた。
「……っ、わ、悪い……」
反射的に肩が跳ね、そっぽを向いた。耳のあたりが、じんじんと熱い。こんなの、いつぶりだろう。
「ありがとう、Hiwatari」
「……お、おう」
思いがけない感謝の言葉に、じんと熱が滲んでいく。こんなふうに、さりげなく距離を詰めてくるから──気づけば、また目で追ってしまっていた。
消灯前。
「……電気、消していいか?」
「……うん」
たったそれだけの会話なのに、なぜだか胸が落ち着かない。声が少しだけ掠れていたのを、自分でも自覚していた。
ぱちん。スイッチの音とともに、世界が闇に沈む。
「……っ」
思わず、布団の端を握りしめる。
「……君、暗闇が怖いのか?」
アルジャーノンの声が、驚きもからかいもなく、ただやわらかかった。その声音だけで、少し呼吸が楽になる。
返事はできなかった。
やがて、隣のベッドがわずかに軋む。気配が、すぐ近くまで来て──何かが、布団越しに触れた。
あたたかい手だった。重ねるのではなく、触れているだけの距離。
「大丈夫だ。すぐ隣にいる」
「なんだよ、子ども扱いして……」
精一杯の反発だったけれど、声は少し震えていた。それでも、手は離れず──ふたりの距離は重なったままだった。
そのとき、耳元で。
「……かわいい」
小さな声が、ぽつりと零れた。
「な……っ」
章吾は思わず布団を頭までかぶった。肩が小さく揺れるが、逃げなかった。
それだけで、何かが、少しだけ変わった気がした。
ふと、夜中に目が覚めた。喉が渇いて毛布を押しのけ、そっと体を起こす。
寄宿舎は静まり返っている。床が軋まないように気をつけながらドアへ向かいかけた──そのとき。
──視界の端に、月明かりを拾った髪が見えた。
金糸のような髪。アルジャーノンの寝顔だった。
眠っているはずなのに、妙に静かで、どこか目が離せなかった。
(……なに見てんだよ、俺)
視線を逸らそうとして、できなかった。
そのとき、視界の端で光が反射した。机の上のフォトフレーム。母と並んで写る、幼い自分。
「……ママ」
思わず漏れた声が、夜の空気に滲んでいった。
被災した日から、これだけはずっと守ってきた。この写真がなければ、自分の場所がなくなる気がしていた。
(でも今は……)
視線を戻す。隣には、眠る誰かがいる。その呼吸が、静かに部屋の空気を満たしていた。
(あいつ……なんなんだよ)
ムカつく。なのに、気づけば思い出してしまう。
そっとベッドに戻ったとき、気配が変わった気がした。
……寝息が、止まった?
いや、気のせいかもしれない。だけど、あいつが眠ったふりをしていたら──それはそれで、なんだか腹が立つような、妙な気持ちだった。
──そして、朝。
まぶたを開けて最初に感じたのは、違和感だった。
腹にかかる見覚えのない毛布。
指先に触れる、あたたかさ。
耳元で聞こえる、誰かの寝息。
……寝息?
ゆっくりと視線を落とす。そこには、金色の髪。
「……なっ……」
声が喉で詰まり、瞬時に跳ね起きた。毛布ごと後ろに飛びのいて、頬が熱くなる。
「なんで俺のベッドに……!」
真っ赤になって叫んだ声に、アルジャーノンも目を開ける。少しだけ伏せた視線の奥、髪をかきあげながら呟くように言った。
「……昨夜、君が眠れないようだったから」
「そ、そんな理由で!」
反論しようとして、言葉が出ない。むしろ心臓のほうが、うるさくて。
(まさか……ずっと、隣にいてくれたのか)
布団越しに感じたぬくもり。触れかけた自分の指。
ふたりの間に落ちた沈黙。それは気まずさではなく、名もない何かのはじまりだった。
もう、元には戻れない。それだけは、確かに分かっていた。