──その日、空は嘘をついていた。
降らないふりをして、ふたりを、傘の下へ押し込めるために。
「午後からガーデンパーティ開催だってさ!」
チャドが、朝食のソーセージをもぐもぐしながら叫んだ。
「ふーん」と章吾が他人事のように流していると、アルジャーノンが当然のように付け加えた。
「伝統行事だからな。参加は必須だ」
紅茶の香りがふわりと立った。
英国の伝統行事。紅茶。古城の庭園。悪くない。
少なくとも、日本では体験できなかった空気が、そこにはある。
「当然だが、君も私と同伴だ」
「は?」
「別々に動いても、我々『ルームシェア中』だろう。目立つからな」
「……めんどくさ」とは言いつつも、章吾は断らなかった。
結局、今日もまた、「ふたりきり」の時間を過ごすことになる。
灰色の、重たい雲が空を覆っていた。
*
ガーデンパーティが始まったのは、昼を少し過ぎたころだった。
「さっきから、やたら視線感じるんだけど」
章吾がぼそっと呟いた。アルジャーノンは、腕を組んだまま視線を巡らせる。
「当然だ。我々は異色の組み合わせだからな。君が日本人で、私が王室奨学生。目立つのは仕方がない」
「それにしたって、ジロジロ見すぎだろ……」
「君が不用意に目立つからだ」
「俺のせいかよ」
そんなくだらない言い合いをしているときだった。
「あの……!」
背後から、控えめな声が聞こえた。声をかけてきたのは、近隣の女子校の生徒だった。栗色の髪を編み込んだ、小柄な少女。
「これ、落としました……」
彼女が差し出したのは、章吾のスケジュール帳だった。どうやらポケットから落ちたららしい。
「あー、サンキュ。助かった」
受け取って、軽く頭を下げる。少女は、少し顔を赤らめた。
「もしかして、日本人の方ですか?遠い国なのにすごいなあって……」
「え?」
章吾は素で戸惑った。それを──横で見ていたアルジャーノンは、内心をざわつかせていた。
(……何を、当然のように話しかけている)
視線が無意識に鋭くなるのを、自分でも止められなかった。
少女はそれに気づいたのか、きゅっと身をすくめた。
「あ……す、すみません!邪魔してごめんなさい!」
言うなり、彼女は足早に立ち去っていった。
取り残された章吾が、苦笑まじりに肩をすくめる。
「なんか、悪いことしたかな」
「……知らん」
冷たく答えた自分自身に、アルジャーノンは顔をしかめた。
君は、私の隣にいるべきだ──そんな言葉が、喉の奥まで上ってきた。だが、それを口に出すことは、できなかった。
*
ぽつ、ぽつ、と。空から、冷たい粒が落ちてきた。
「……来たな」
章吾がぼそっと呟く。
曇っていた空は、ついに限界を迎えたらしい。あっという間に、細かい霧雨が庭全体を包み始めた。
生徒たちは、ざわめきながらテントや校舎へと走り始める。
章吾は上着のポケットをまさぐった。が、傘なんて持っていない。
「おい、おまえは?」
「当然だ。英国紳士たるもの、備えは怠らん」
そう言うと、アルジャーノンは背筋を伸ばして、優雅な仕草で小さめの黒い傘を広げた。
ぱさり、と開いた傘は、章吾ひとり分の体をぎりぎり覆えるかどうか、というサイズだった。
「……ちっさくね?」
「紳士用は本来これが標準だ。むしろ合理的だろう」
「合理性とかいらねぇから。びっちょびちょだろ」
「文句を言う暇があるなら、早く入れ」
「はいはい」
章吾はため息まじりにアルジャーノンの隣に滑り込んだ。当然、距離は近い。
肩がわずかに触れる。互いの体温が、じわりと傘の内側にこもる。
「近すぎだろ……」
「この傘の半径では、これが最適解だ。文句を言うなら濡れるがいい」
「言い方がムカつくな」
「それは君の心が未熟だからだ」
そんなやり取りをしていても、章吾はふと、アルジャーノンの横顔に目を奪われていた。
少し濡れた金髪。まっすぐな鼻筋。光をたたえた青い瞳。
……雨のせいだ。こんなに綺麗に見えるのは、たぶん、雨のせいだ。
自分にそう言い聞かせながら、章吾は視線をそらした。
(これ以上、距離を詰めたら……)
何か、決定的に変わってしまいそうで。でも、傘の中のこの狭い世界から、出ていく勇気もなかった。
「走るぞ」
アルジャーノンが短く告げた。
「え、いや、この傘で走るとか無理だろ」
章吾の抗議を待たず、アルジャーノンはぐいと腕を引いた。片手で傘を支え、もう片方の手で章吾を引っ張る。雨脚はどんどん強くなり、すでに足元はぬかるんでいる。
「うわっ、すべっ──」
その瞬間だった。章吾の足元がぬかり、バランスを崩す。倒れる、と思ったとき──
バランスを崩した章吾の身体が傾く。反射的に伸びた腕が、彼の腰を掴んだ。
手のひら越しに、湿った制服の下から伝わる熱。それは自分の体温ではない。彼のものだった。
「……大丈夫か」
耳元に落ちた声は、妙に近くて、妙に熱かった。章吾は、小さく息を呑む。
すぐに身を引いたつもりだった。なのに傘の下は狭すぎて、肩が離れない。
目が合う。近すぎる距離。呼吸が、混ざりそうだった。
「……っ」
雨の音だけが、ふたりを包み込んでいた。章吾は一歩、後ろへ。
顔を少しでも動かせば、触れてしまいそうだった。
「……」
「……」
言葉は出なかった。代わりに、呼吸だけがやけにうるさく響く。
アルジャーノンが、肩越しに視線を逸らす。吸い込んだ息が、浅い。
校舎へ向かうあいだ、ふたりはほとんど話さなかった。濡れた芝を踏む足音と、傘の内側で交わる呼吸だけが、静かに続いていた。
章吾がふと隣を見ると、いつもより少しだけ、気を抜いた顔。
(……やばい)
こんなに近くて、まだ「ただのルームメイト」でいられるのか。いや──きっと、彼も。
「……すまなかった」
ふいに、アルジャーノンが低く言った。
「は?」
「君を、無理に引っ張った。軽率だった」
章吾は肩をすくめる。
「……別に、ケガしてねぇし」
「それでも……傷つけたくはない」
空気が、変わった。
章吾は一瞬、言葉を失い、苦し紛れに笑ってみせる。
「……貴族様ってやつは、責任感バカ高ぇな」
「黙れ」
ふたり同時に笑って、また黙った。
傘の内側は狭い。どこまでが自分の鼓動で、どこまでが相手のものか、もうわからない。
雨音も、ざわめきも、遠ざかる。
──こんな時間が、また来たらいい。きっと隣の彼も、同じことを思っていた。