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第6話 感謝されても、嬉しくなどない

 夜の寄宿舎は、昼間とは別の顔を見せていた。外にはまだ雨の名残があり、遠く森からフクロウの声がほうほうと響く。


 章吾は、ベッドに寝転がりながら天井をぼんやり見つめていた。隣では、アルジャーノンがデスクで本を読んでいる。


 夜の空気は、いつもよりほんの少しだけ違っていた。


 さっきの、傘の下での距離感。あの、触れたら壊れそうだった沈黙。


(……なんなんだよ、あれ)


 考えたって答えは出ない。章吾はごろりと寝返りを打った。その音に、アルジャーノンがちらりと視線を寄越す。


「……眠れないのか」

「うるせぇ。起きてるだけだ」

「どちらも同じだろう」


 投げ合う言葉は、いつも通り。なのに、不思議と胸の奥がくすぐったかった。


 章吾は、ふと窓の外に目を向けた。星はまだ見えない。

 雨雲は遠ざかりつつあるのに、空はまだ重たかった。


「なあ」


 自然と口を開いていた。


「日本って、こういうとき星が見えるんだよ。晴れたら、な」

「そうか」


 アルジャーノンは本から目を上げなかったが、指先はページをめくるのをやめていた。


 静かな夜。まだ遠い星空。


「……君は、星を見るのが好きなのか」


 アルジャーノンがぽつりと尋ねた。視線は窓の外、晴れない夜空のまま。


 章吾は、毛布を軽く握った。


「別に。好きとか考えたことねぇよ」

「なら、なぜ今、そんな話を?」

「……さあな」


 ぼそりと返し、毛布に顔を半分埋める。本当は、言葉にできなかっただけだった。


 静かな夜空に、隣に誰かがいてくれたらいい。そんな景色を、ただ思い浮かべたかった。


(なに考えてんだ、俺)


 頭を振っても、胸のざわつきは消えなかった。

 アルジャーノンは静かに本を閉じ、椅子に背を預ける。


「私も星を見る習慣はない。……だが、君となら、少しは見てみたいと思った」


 章吾は、思わず喉を鳴らした。


(おまえ……)


 そんな顔で、そんな言葉を言うな。普通、言わねぇだろう。


「恥ずかしいこと、さらっと言うよな」

「事実を述べただけだ」


 アルジャーノンは淡々と答えた。だが、その耳たぶはうっすら赤く染まっていた。


 章吾は小さく笑い、毛布を引き寄せる。


 窓の外に、まだ星はない。でも、胸の奥に小さな光が、そっとまたたいた気がした。誰にも見えない、ふたりだけの夜に。


 ごそごそと毛布を引き寄せた章吾は、それを無言でアルジャーノンに放った。


「……使えよ」


 ぶっきらぼうな声。目も合わせない。

 アルジャーノンは驚いた顔をしながら、毛布を拾い上げた。

 ふわりと漂う、章吾の微かな体温。


「私は、問題ない」

「知ってる。でも、おまえ、前に俺にかけてくれただろ」


 毛布にくるまったまま、章吾はぽつりと続けた。


「……サンキュな」


 その一言に、アルジャーノンの指先がぴくりと震えた。


(……ありがとう、だと?)


 心臓が暴れるように脈打つ。章吾が、素直に礼を言うなんて。


「当然のことだ」


 かすれた声を必死に整える。


「そういうとこ、けっこういいやつだよな、おまえ」

「……黙れ」


 滲んだ照れを、章吾が気づいたかはわからない。ただ、その傍らにいる存在だけが、アルジャーノンの世界を確かに変えつつあった。


(夜は、まだ終わらないでほしい)


 そんな願いを、誰にも知られないように胸に隠した。


 時間は、ゆっくりと流れていった。

 章吾は体を起こし、無意識のうちにアルジャーノンを見た。ちょうどそのとき、アルジャーノンも章吾を見た。


──目が、合った。


「……」


「……」


 どちらも、すぐには目をそらせなかった。まるで、何かを確かめるように。


 胸が、ひどくうるさく鳴った。


 章吾は小さく息を吐き、アルジャーノンも、ほんの少しだけまぶたを伏せた。


 そして、何も言わずに視線を外した。


 ただ、それだけ。だけど──


(……もう、前みたいには戻れねぇな)


 そんなことを思いながら、章吾は再び毛布に顔をうずめた。


 静かに、優しく、夜が更けていった。


 朝、寄宿舎に差し込む光はまだ淡く、窓の外には、ようやく雨上がりの青空がのぞいていた。


「晴れた、か」


 寝ぼけた頭でぼんやりと考える。隣のデスクでは、アルジャーノンが制服を整えていた。


 その仕草を、自然に目で追う。


 昨日までと何も変わらない。……はずなのに、少しだけ変わっていた。


「ぼさっとするな。遅刻するぞ」


「わかってる」


短く返事をして、章吾はベッドを出た。


 朝の喧騒の中に、アルジャーノンの澄んだ声が混ざっていた。それは昨日よりほんの少しだけ、やわらかい音だった。


「……悪くねぇな」


 誰にも聞こえないように、ぼそりと呟いた。

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