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第7話 私は怒ってなど、いない

 昼休みの校庭には、春の日差しがやわらかく降り注いでいた。


 章吾はチャドと並んで、校舎脇のベンチに腰を下ろし、黙々とサンドイッチをかじっていた。


「Hiwatari君」


 背後から名前を呼ばれ、振り返ると、整えすぎた制服を着た少年が立っていた。


 ──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。アルジャーノンの幼馴染だという。


 第一印象は、やけに整っていて、どこか冷たい。涼しい目元の奥に、かすかな棘が光るのを章吾は見逃さなかった。


「よかったら、午後の空き時間、一緒に勉強しない?」

「……は?」


 思わず視線だけで返す。


(なに、こいつ)


 口調は柔らかいくせに、妙に圧がある。誘いの裏に、何か含まれている。


 ふと目をやると、校庭の向こう、ベンチで本を読んでいる金髪が視界に入った。

 ──アルジャーノンだ。


「悪い。用事ある」


 サンドイッチの包み紙をくしゃっと握りしめて、立ち上がる。そのとき、レジナルドがぽつりと呟いた。


「君には、似合わないと思うけどね」


 視線は、まっすぐアルジャーノンに向けられていた。

 章吾は言葉を返さず、そのまま歩き出す。だけど、胸の奥に、ひとつだけ残っている想い。


(あいつの隣に、行きたい)


 そう、それだけだった。



 中庭のベンチには、まだアルジャーノンがいた。本を読みながら、章吾のほうをちらりと見たように思えたけれど、確信はない。


 まっすぐ視線を向けることができず、章吾は一度だけ深呼吸した。


「……隣、いいか?」

「好きにしろ」


 ぶっきらぼうな返事。いつもと変わらないはずなのに、どこか棘があった。


 章吾は黙って腰を下ろした。拳ひとつぶんの距離が、今日は妙に遠く感じられる。


 沈黙のまま、数秒が過ぎた。やがて、アルジャーノンが本のページを閉じ、低く問いかけた。


「──レジナルドと、何を話していた?」


 章吾は一瞬、返事に詰まった。


「勉強に誘われた。試験前だし、手伝ってやるってさ」

「そうか」


 それきり、アルジャーノンは沈黙した。その指先がわずかに本の表紙を撫でる仕草が、どこかぎこちなく見えた。


 章吾は、少し躊躇ってから口を開いた。


「おまえと、あいつって仲いいんだろ?」

「……ああ」


 アルジャーノンは、ためらわずに答えた。その声は、いつもよりわずかに低かった。


「家族ぐるみの付き合いだ。幼い頃から、特別な存在だった」


 言葉は整っているが、顔はこわばっていた。


 本を握る手が、ほんの少し強くなる。章吾は、その横顔をまっすぐ見ることができなかった。


(……特別、か)


 胸のどこかが、きゅっと締めつけられるようだった。


「おまえ、機嫌悪い?」


「そんなことはない」


 返ってきたのは即答だったが、言葉の端がやけに尖っていた。


 章吾は眉をひそめた。朝までは、もっと自然に話せていたのに。


「……なら、いいけど」


 それ以上、踏み込めなかった。拳を握ったまま、ただ隣にいることしかできない。


 横目でそっと見ると、案の定、目が合った。深い青。アルジャーノンの瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。


「……っ」


 慌てて視線を逸らす。

 あの目は、何を見ていたんだろう。



 放課後。古びた渡り廊下を歩きながら、章吾は首をひねる。


(……あれ、スケジュール帳、どこやったっけ)


 教室に置いたか、それとも昼のベンチか──そんなことを考えていたところで、背後から声がかかった。


「Hiwatari」


 振り返ると、制服姿のアルジャーノンが立っていた。手には、探していたあのスケジュール帳。


「……君のものか?」


「あ、悪い。気づかなかった」


 受け取った瞬間、指先に触れた水気に気づいた。彼の手が濡れている。


(……俺のこと、探してくれたのか)


 思わず胸が熱くなる。不機嫌なんかじゃなかった。あいつは、ずっと、変わらずそこにいたんだ。


「……サンキュ」


 ぽつりと漏らした声に、アルジャーノンがほんの少しだけ目を細めたように見えた。


「礼には及ばない」


 短い沈黙が落ちる。


 ──そして、


「……君が隣にいないと、多少、調子が狂うな」


 一瞬、章吾の呼吸が止まった。何も言えずにいると、アルジャーノンがふっと口元をゆるめた。


「気にするな。貴族のくせに、私は精神が脆弱なのだ」

「……は?」


 思わず吹き出しそうになりながら、肩を軽く小突く。


「おまえ、ほんとめんどくせぇな」

「自覚している」


 どちらも目を合わせなかったけれど、少しだけ笑っていた。

 ふたりの距離は、またひとつ近づいていた。

 寄宿舎の石畳を、春の風がそっとすり抜けていく。


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