目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第9話 私は、どうかしている

 夜、寄宿舎。


 章吾はベッドに寝転び、天井を睨んでいた。


 毛布をかぶっても、閉じた瞼の裏にまで、昼間の光景が焼きついて離れない。


 ──お似合い……?

 ──我々の関係は──ただのルームメイトだ。


 アルジャーノンの、あの冷静な台詞。


(……俺も同意すればよかった)


(なのに)


 あの声が、あの視線が、脳裏に焼きついて、離れない。


 なんなんだよ、これ。小さく寝返りを打つ。


 隣のデスクに目を向ける。すると、薄暗いスタンドライトの下、本を読むアルジャーノンの姿があった。


 顔を上げた、その瞬間──目が、合った。


(……)


(……)


 ふたりとも、声を出せなかった。……だが、先に目をそらしたのは、アルジャーノンだった。



 夜半。


 寄宿舎には、静寂が満ちていた。


 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、デスクに肘をついたまま、目を閉じていた。眠れなかったのだ。


 こんなことは、珍しかった。秩序を重んじる自分が、感情に振り回されるなど、本来あり得ないはずだった。


 それなのに──あの視線。あの沈黙。たったそれだけで、胸の奥にどうしようもない波紋が広がる。


 ベッドを見やると、章吾は毛布に顔をうずめたまま、静かに寝息を立てていた。


 小柄な体。硬さを隠した寝顔。

 どうして、こんなにも愛おしいと思ってしまうのか。


(……馬鹿げている)


 私は、妻を娶り、家を継ぐ身だ。誰かに感情を預けるなど。ましてや、男に──あり得るはずがない。


 アルジャーノンは、きつく目を閉じた。


 だが、なぜだ。

 胸の奥から湧き上がる、たったひとつの願い。

 ──守りたい。


 理由などいらない。立場も、未来も、すべてを横に置いて。ただ、この存在を、守りたいと。

 そんな自分が、ひどく怖かった。


「私は、どうかしている」


 静かな夜のなかで、アルジャーノンは、ひとり、自分自身に抗い続けた。



 夜明け前。

 章吾は、浅い眠りの中でふと目を覚ました。


 部屋の空気はひんやりとして、窓の外にはまだ闇が残っている。


 寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。


 あたたかいものが、すぐそばにある気がした。


 目を凝らすと、暗闇の中──アルジャーノンが、自分のベッドのほうへ歩み寄っていた。


 章吾は、声を出せなかった。出したくなかった。胸の奥が、きゅうっと鳴った。


 なんで、そこにいるだけで、こんなにも安心するんだろう。

 何も言わない。何もしていない。ただ、そばにいるだけ。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。


(バカか、俺)


 毛布を引き寄せて、顔を隠す。


 眠ったふりをする。起きていることが、知られたくなかった。だって、目が合ったら、あふれてしまうから。


 静かな夜。小さな、あたたかい距離。


 章吾は、目を閉じながら、ぽつりと呟いた。


「……ずっと、こうしていられたらいいのに」



 朝。


 窓の外は、うっすら霧が立ち込めていた。


 章吾は、毛布にくるまったまま、ゆっくりと目を開けた。


 デスクの前。アルジャーノンが、いつも通り制服を整えている。


 ネクタイを締める手。

 カフスボタンを留める仕草。すべてが整然としていた。──なのに。


(ぜんっぜん、ふつうじゃねぇ)


 夜中、あいつが傍にいたことを、章吾は知っている。


 アルジャーノンは、知らないふりをしている。

 章吾も、知らないふりをするしかなかった。


「……おはよう」

「……ああ」


 章吾は、わざとぶっきらぼうに続けた。


「……今日、天気悪そうだな」

「霧が出ている。だが、すぐに晴れるだろう」

「ふーん」


 何でもない言葉を交わす。何も変わっていないふりをする。


本当は、言葉の隙間から、すぐに心が覗きそうだった。



 夕方。


 寄宿舎への帰り道。ふたりは、肩を並べて歩いていた。

 寮へ続く石畳の小道。冷たい風に、制服の裾がはためく。


 会話はなかった。それでも、不自然な沈黙ではなかった。


 ただ隣にいる。それだけで、十分だと──思いたかった。


(でも……触れたい)


 歩幅を合わせながら、そんな衝動が胸をかすめた。


 肩に、指先に、どこでもいい。ほんの少しだけでいい。確かめたかった。


(でも、ダメだ)


(あいつは、男だ)


(それに──)


 ちらりと視線を向ける。アルジャーノンは、前を向いたまま歩いていた。凛として、孤独で、美しく。


 いつもの姿。──のはずだった。


 ふと、スカーフが肩から滑りかけるのに気づく。


 章吾は、思わず手を伸ばしかけて──ぐっと、こらえた。


(……だめだ)


(これ以上、近づいたら)


 自分が、どうなるかわからなかった。

 章吾は、拳をぎゅっと握りしめる。


 同じように、アルジャーノンもまた、ポケットの中で指先を固く絡めた。


 ふたりは、並んで歩いた。触れずに。声もかけずに。


 心だけは、必死で叫んでいた。


 君に、触れたい。


 その想いは夕暮れの空に溶けて、音もなく消えていった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?