夜、寄宿舎。
章吾はベッドに寝転び、天井を睨んでいた。
毛布をかぶっても、閉じた瞼の裏にまで、昼間の光景が焼きついて離れない。
──お似合い……?
──我々の関係は──ただのルームメイトだ。
アルジャーノンの、あの冷静な台詞。
(……俺も同意すればよかった)
(なのに)
あの声が、あの視線が、脳裏に焼きついて、離れない。
なんなんだよ、これ。小さく寝返りを打つ。
隣のデスクに目を向ける。すると、薄暗いスタンドライトの下、本を読むアルジャーノンの姿があった。
顔を上げた、その瞬間──目が、合った。
(……)
(……)
ふたりとも、声を出せなかった。……だが、先に目をそらしたのは、アルジャーノンだった。
*
夜半。
寄宿舎には、静寂が満ちていた。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、デスクに肘をついたまま、目を閉じていた。眠れなかったのだ。
こんなことは、珍しかった。秩序を重んじる自分が、感情に振り回されるなど、本来あり得ないはずだった。
それなのに──あの視線。あの沈黙。たったそれだけで、胸の奥にどうしようもない波紋が広がる。
ベッドを見やると、章吾は毛布に顔をうずめたまま、静かに寝息を立てていた。
小柄な体。硬さを隠した寝顔。
どうして、こんなにも愛おしいと思ってしまうのか。
(……馬鹿げている)
私は、妻を娶り、家を継ぐ身だ。誰かに感情を預けるなど。ましてや、男に──あり得るはずがない。
アルジャーノンは、きつく目を閉じた。
だが、なぜだ。
胸の奥から湧き上がる、たったひとつの願い。
──守りたい。
理由などいらない。立場も、未来も、すべてを横に置いて。ただ、この存在を、守りたいと。
そんな自分が、ひどく怖かった。
「私は、どうかしている」
静かな夜のなかで、アルジャーノンは、ひとり、自分自身に抗い続けた。
*
夜明け前。
章吾は、浅い眠りの中でふと目を覚ました。
部屋の空気はひんやりとして、窓の外にはまだ闇が残っている。
寝返りを打とうとして、違和感に気づいた。
あたたかいものが、すぐそばにある気がした。
目を凝らすと、暗闇の中──アルジャーノンが、自分のベッドのほうへ歩み寄っていた。
章吾は、声を出せなかった。出したくなかった。胸の奥が、きゅうっと鳴った。
なんで、そこにいるだけで、こんなにも安心するんだろう。
何も言わない。何もしていない。ただ、そばにいるだけ。それだけで、胸がじんわりと温かくなる。
(バカか、俺)
毛布を引き寄せて、顔を隠す。
眠ったふりをする。起きていることが、知られたくなかった。だって、目が合ったら、あふれてしまうから。
静かな夜。小さな、あたたかい距離。
章吾は、目を閉じながら、ぽつりと呟いた。
「……ずっと、こうしていられたらいいのに」
*
朝。
窓の外は、うっすら霧が立ち込めていた。
章吾は、毛布にくるまったまま、ゆっくりと目を開けた。
デスクの前。アルジャーノンが、いつも通り制服を整えている。
ネクタイを締める手。
カフスボタンを留める仕草。すべてが整然としていた。──なのに。
(ぜんっぜん、ふつうじゃねぇ)
夜中、あいつが傍にいたことを、章吾は知っている。
アルジャーノンは、知らないふりをしている。
章吾も、知らないふりをするしかなかった。
「……おはよう」
「……ああ」
章吾は、わざとぶっきらぼうに続けた。
「……今日、天気悪そうだな」
「霧が出ている。だが、すぐに晴れるだろう」
「ふーん」
何でもない言葉を交わす。何も変わっていないふりをする。
本当は、言葉の隙間から、すぐに心が覗きそうだった。
*
夕方。
寄宿舎への帰り道。ふたりは、肩を並べて歩いていた。
寮へ続く石畳の小道。冷たい風に、制服の裾がはためく。
会話はなかった。それでも、不自然な沈黙ではなかった。
ただ隣にいる。それだけで、十分だと──思いたかった。
(でも……触れたい)
歩幅を合わせながら、そんな衝動が胸をかすめた。
肩に、指先に、どこでもいい。ほんの少しだけでいい。確かめたかった。
(でも、ダメだ)
(あいつは、男だ)
(それに──)
ちらりと視線を向ける。アルジャーノンは、前を向いたまま歩いていた。凛として、孤独で、美しく。
いつもの姿。──のはずだった。
ふと、スカーフが肩から滑りかけるのに気づく。
章吾は、思わず手を伸ばしかけて──ぐっと、こらえた。
(……だめだ)
(これ以上、近づいたら)
自分が、どうなるかわからなかった。
章吾は、拳をぎゅっと握りしめる。
同じように、アルジャーノンもまた、ポケットの中で指先を固く絡めた。
ふたりは、並んで歩いた。触れずに。声もかけずに。
心だけは、必死で叫んでいた。
君に、触れたい。
その想いは夕暮れの空に溶けて、音もなく消えていった。