寮の談話室。章吾はソファに沈み込んでいた。窓の外では、アイビーの葉が風に揺れている。
手元の携帯電話が、低く震えた。【父親】。周囲に誰もいないことを確認してから、通話ボタンを押した。
「──もしもし」
受話器の向こうから、張りつめたような父の声が聞こえた。
『章吾。様子はどうだ?成績は?』
「──まぁ、普通だよ」
無駄のない問いかけ。そして、父が思い出したように言った。
『留学先には、馴染めたか?』
章吾は少し黙り、ぽつりと口を開いた。
「いまは、馴染めてる。『友達』のおかげだ」
『そうか』
父の声は、一瞬だけ柔らかくなった気がした。
『世界を導く者は、支え合う術も覚えねばならん』
それだけ言って、あっさりと通話は切れた。章吾は、スマホを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……友達、か」
ぽつりと呟く。
部屋で、教室で、ボートの上で。
何度も、何度も、笑って、ぶつかって、それでも並んで立ってきた顔が浮かぶ。そして、胸の奥がざわめいた。
(……あいつも、友達、だよな)
だけど、どうして。アルジャーノンの顔だけ、こんなにも鮮やかに浮かぶんだろう。
その答えは、もうとっくに知っていた。
友達なんかじゃない。俺はあいつのことが──
「Hiwatari」
心臓がひとつ跳ねて、振り返る。いつも通りの微笑を浮かべた、アルジャーノンが立っていた。
「電話?」
「あ、ああ」
章吾は目を泳がせた。そのぎこちない視線に、アルジャーノンは眉をひそめた。
「どうした?」
「……なんでもない」
「何かあったか?言ってみろ。友達じゃないか」
そのとき、「友達」という二文字が──刃物のように章吾を刺した。それがほしかった言葉なのに、それじゃ足りないことに、気づいてしまった。
「……お前はもう、俺の『友達』じゃない」
章吾は、スマホを握りしめる。
言いながら、自分の心が小さくひび割れていくのがわかった。
どこかで、期待してた。ほんの少しでいいから──こいつだけは、わかってくれるんじゃないかって。
だけど、アルジャーノンの目は揺れたままで。何も気づいていない、みたいで。それが、なんだか腹立たしくて。
(なんで、こいつ、こんなに鈍いんだ)
(俺が、どれだけ──)
気づけば、アルジャーノンが章吾の腕にそっと手を伸ばしていた。
「意味が分からない、説明し──」
その瞬間、章吾は手を振り払った。乾いた音がして、アルジャーノンの手が宙を泳いだ。空気が裂けた。
「──っ!」
「俺の気持ちなんて、知らないくせに……!」
言葉にしたら、かえって苦しくなった。こみあげるものを飲み込む喉が、ひりついた。
アルジャーノンは、少しだけ後ずさる。「Hiwatari……」と呼びかける声が、遠くに聞こえた。
沈黙の中で、たしかに何かが、壊れた。ふたりの間に積み重なっていた、やわらかくて大切なものが──二度と元には戻らない音で、砕け散った。