日没前の中庭。
西日が斜めに差し込むなか、章吾はベンチの端で本を読んでいた。ページをめくる手はゆるやかで、文字の内容は頭に入ってこなかった。
「SHOGO!!」
いきなり声が響き、顔を上げる。
チャドだった。息を切らし、砂利を蹴りながら一直線にこちらへ駆けてくる。
「……なんだよ、騒がしいな」
眉をひそめる章吾に、チャドはまるで弾丸のように言った。
「ちょっと、マジでヤバい。聞いてくれ。オレ、聞いちまったんだよ。アルジャーノンの……縁談の話」
その言葉に、指先がぴたりと止まった。
「……縁談?」
喉の奥で、何かがぎりっと軋む。
チャドは一気にまくしたてる。
「カレッジの個室でさ、たまたま通りかかって。『私が、縁談を、ですか』って……そんなふうに言ってた。たぶん、卒業後に決められた相手と結婚させられるって話だった」
章吾は手の中の本を、強く握りしめた。ページの端が、くしゃりと折れる。
「……別に、関係ねぇよ」
かすれた声だった。チャドの顔色が変わる。
「本当に、そう思ってんのか?」
答えようとしたが、言葉が出なかった。胸の奥で、何かがぐらりと傾いていた。
チャドは、ふっと笑った。
「……俺、アメリカの高校で、好きだった子がいたんだ。先輩で、笑うとすげー可愛くてさ」
章吾は、黙って聞いていた。
「結局、なにも言えなかった。付き合ってもなかったし、タイミング逃して……そしたら、そのまま卒業して、すぐに結婚したんだよ」
その声には、普段の軽さはなかった。
「たったひと言、言ってたら、何か変わってたかもって、今でも思う。フラれてもよかったのに」
章吾は視線を落としたまま、小さく舌打ちをした。
「知らねぇよ……人の恋愛なんて、関係ねぇだろ」
立ち上がった足が、思わず前へ踏み出す。その一歩が、逃げだということは、痛いほど分かっていた。
「……関係ねぇくせに、なんでそんなに苦しそうなんだよ」
チャドの声は追いかけてこなかった。その言葉だけが、背中に残った。
章吾は歩く速度を上げた。足音が、やけに大きく響いた。
背後から、かすかな声が聞こえた気がした。
「……頑張れよ、バカ」
なぜかその言葉だけが、妙に胸に染みた。
*
夜。寄宿舎の廊下を、章吾はひとり歩いていた。ローファーの音が、やけに響く。
(俺には、関係ない)
何度そう唱えても、足元が揺れるような感覚は消えなかった。
図書室の前を通りかかる。開け放たれた扉の向こうに、金色の髪が見えた。
アルジャーノン。机に向かい、本を読んでいる。白いシャツの襟、すっと伸びた背筋、静かな横顔。
胸が、きゅっと鳴った。
この空気も、この光景も、やがて手の届かないものになる。
章吾は扉から目をそらし、足早に背を向けた。
「……くそ」
低く吐き捨てた声は、自分に向かっていた。
わかっていた。もう惹かれている。どうしようもなく。
夜の風が廊下に吹き込み、章吾は肩をすくめて目を閉じた。
*
同じころ。
アルジャーノンは、自室の窓辺に立っていた。手には、母から届いた手紙。差し出された縁談と、卒業後の予定。
目を閉じる。
(選ぶ自由など、最初からなかった)
家の名を継ぐ者として、誇りを守ること。ただ、それだけを信じてきた。
(私情など、許されるはずがない)
それでも、浮かんでしまう。
無邪気な笑顔。ふいに振り払われた手の感触。
(Hiwatari。君は──)
(君は、私の誇りを揺らす)
(君は、私に「望んではいけないもの」を、望ませる)
窓の外では、霧が石壁を這っていた。
ペンを握り、返事を書こうとした。でも、紙には、一文字も浮かばなかった。
「……馬鹿な」
自嘲のように漏らす。
(それでも、君に、触れたかった)
沈んでいく想い。夜は深く、ふたりの心を、静かにすれ違わせた。