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第26話 私が、縁談を、ですか

 日没前の中庭。


 西日が斜めに差し込むなか、章吾はベンチの端で本を読んでいた。ページをめくる手はゆるやかで、文字の内容は頭に入ってこなかった。


「SHOGO!!」


 いきなり声が響き、顔を上げる。


 チャドだった。息を切らし、砂利を蹴りながら一直線にこちらへ駆けてくる。


「……なんだよ、騒がしいな」


 眉をひそめる章吾に、チャドはまるで弾丸のように言った。


「ちょっと、マジでヤバい。聞いてくれ。オレ、聞いちまったんだよ。アルジャーノンの……縁談の話」


 その言葉に、指先がぴたりと止まった。


「……縁談?」


 喉の奥で、何かがぎりっと軋む。


 チャドは一気にまくしたてる。


「カレッジの個室でさ、たまたま通りかかって。『私が、縁談を、ですか』って……そんなふうに言ってた。たぶん、卒業後に決められた相手と結婚させられるって話だった」


 章吾は手の中の本を、強く握りしめた。ページの端が、くしゃりと折れる。


「……別に、関係ねぇよ」


 かすれた声だった。チャドの顔色が変わる。


「本当に、そう思ってんのか?」


 答えようとしたが、言葉が出なかった。胸の奥で、何かがぐらりと傾いていた。


 チャドは、ふっと笑った。


「……俺、アメリカの高校で、好きだった子がいたんだ。先輩で、笑うとすげー可愛くてさ」


 章吾は、黙って聞いていた。


「結局、なにも言えなかった。付き合ってもなかったし、タイミング逃して……そしたら、そのまま卒業して、すぐに結婚したんだよ」


 その声には、普段の軽さはなかった。


「たったひと言、言ってたら、何か変わってたかもって、今でも思う。フラれてもよかったのに」


 章吾は視線を落としたまま、小さく舌打ちをした。


「知らねぇよ……人の恋愛なんて、関係ねぇだろ」


 立ち上がった足が、思わず前へ踏み出す。その一歩が、逃げだということは、痛いほど分かっていた。


「……関係ねぇくせに、なんでそんなに苦しそうなんだよ」


 チャドの声は追いかけてこなかった。その言葉だけが、背中に残った。


 章吾は歩く速度を上げた。足音が、やけに大きく響いた。


 背後から、かすかな声が聞こえた気がした。


「……頑張れよ、バカ」


 なぜかその言葉だけが、妙に胸に染みた。



 夜。寄宿舎の廊下を、章吾はひとり歩いていた。ローファーの音が、やけに響く。


(俺には、関係ない)


 何度そう唱えても、足元が揺れるような感覚は消えなかった。


 図書室の前を通りかかる。開け放たれた扉の向こうに、金色の髪が見えた。


 アルジャーノン。机に向かい、本を読んでいる。白いシャツの襟、すっと伸びた背筋、静かな横顔。


 胸が、きゅっと鳴った。


 この空気も、この光景も、やがて手の届かないものになる。


 章吾は扉から目をそらし、足早に背を向けた。


「……くそ」


 低く吐き捨てた声は、自分に向かっていた。


 わかっていた。もう惹かれている。どうしようもなく。


 夜の風が廊下に吹き込み、章吾は肩をすくめて目を閉じた。



 同じころ。


 アルジャーノンは、自室の窓辺に立っていた。手には、母から届いた手紙。差し出された縁談と、卒業後の予定。


 目を閉じる。


(選ぶ自由など、最初からなかった)


 家の名を継ぐ者として、誇りを守ること。ただ、それだけを信じてきた。


(私情など、許されるはずがない)


 それでも、浮かんでしまう。


 無邪気な笑顔。ふいに振り払われた手の感触。


(Hiwatari。君は──)


(君は、私の誇りを揺らす)


(君は、私に「望んではいけないもの」を、望ませる)


 窓の外では、霧が石壁を這っていた。


 ペンを握り、返事を書こうとした。でも、紙には、一文字も浮かばなかった。


「……馬鹿な」


 自嘲のように漏らす。


(それでも、君に、触れたかった)


 沈んでいく想い。夜は深く、ふたりの心を、静かにすれ違わせた。


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