放課後、寄宿舎の裏庭。いつもは静かなこの場所に、今日は妙な熱気が漂っていた。
向かい合うのは、章吾とレジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
普段はろくに話しもしないふたりが、今、まるで一触即発の空気をまとって立っていた。
「……で?」
壁にもたれながら章吾は睨みつける。
レジナルドは珍しく真剣な顔だった。
「アルジャーノンの縁談の件、知っているよね」
「まあな」
冷たく返したが、心の奥はざわついていた。
レジナルドはゆっくり手を組み、
「私は、彼が不幸になるのを見たくない」と言った。
「君も、同じでしょ?」
一瞬、答えに詰まった。でも、嘘はつけなかった。
「……ああ」
かすれた声で応じると、レジナルドはふっと微笑んだ。どこか諦めを孕んだ笑みだった。
「なら、共闘しようよ」
「は?」
思わず聞き返す。
「君も私も、立場は違えど想いは同じ。彼を守りたい。なら、手を組むべきだよ」
ビジネスの交渉みたいな口調に、章吾は苦笑したくなった。だが、この提案だけは無視できなかった。
静かに頷く。
「……わかった。共闘、してやるよ」
レジナルドは心底嬉しそうに笑った。
「決まりだ、Hiwatari君」
風が吹き抜け、新しい戦いの幕が静かに上がった。
*
寄宿舎の談話室。夕暮れの光が古びた机に斜めに落ちている。
章吾はノートパソコンを開き、隣には腕を組んだレジナルド。緊張気味の彼を横目に、章吾は涼しい顔で黙々とキーを叩いた。
画面には、令嬢のSNSアカウント。レジナルドが見つけたものだった。
パーティー写真のバックに映る金色のモザイク壁画を見つけた章吾は、すぐに画像検索にかける。
数秒後、高級クラブ『The Golden Ivy』──ロンドン中心部、未成年立ち入り禁止エリアがヒットする。
「……ここだな」
低く呟き、投稿時間に目を走らせる。夜の2時過ぎ。明らかに未成年がいる時間ではない。
「まずいな、これは」
レジナルドがぽつりと言った。
さらに章吾は、写真に映る男のタトゥーに目を留めた。この模様、どこかで──。
「『ダンディ・ライオンズFC』の選手?いや、まて──」
章吾は顎に手を置いて、考え込んだ。
「まさか……いや違うか……」
「ちょっと待って。この画像、反転してる」
レジナルドが、気づく。
「そうか。もう1回、画像検索だ」
章吾は、伏し目がちに画面を見つめた。
結果──その模様は、選手の熱狂的なサポーター、ロックバンドのボーカル「Tomy」のものだった。
絶句するレジナルドをよそに、章吾は画面を閉じた。
「証拠は揃った。この女、アルジャーノンにはふさわしくねぇ」
冷たく言い放つと、レジナルドは血の気の引いた顔で呟いた。
「……君、思ったより恐ろしいね」
章吾は肩をすくめた。
「別に……必要だったから、やっただけだ」
口にした瞬間、自分がひどく薄汚れているような気がした。
──お前を、こんな奴になんか、渡すもんか。
*
夕暮れの寄宿舎、談話室の隅。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、椅子に座っていた。
目の前には、章吾とレジナルドが並び立ち、無言でタブレットを差し出す。
画面に映る、令嬢の素行を示す決定的な証拠。アルジャーノンは、眉ひとつ動かさず、静かに画面を閉じた。
「……私の家に、泥を塗ったつもりか?」
静かな、冷えた声。
章吾は一瞬目を伏せた。
──今、言わなきゃ。あいつは、あの女と一生……
しかし、喉が絞まるようで、声が出ない。それを見たレジナルドは、不適な笑みを浮かべた。
「章吾が見つけたんだ。僕は、少し心配だっただけ」
レジナルドの声は滑らかだったが、手が震えている。
(こいつ……!)
章吾の額に、一筋の汗がつたった。
蒼い目が、章吾を捉える。
重い沈黙。時計の針の音だけが、響いていた。
それから、彼は何も言わず──ふたりを残して去っていった。
レジナルドは、その場にへたり込んで、肩を震わせた。
「……アルジー、怒ってた。どうしよう」
「お前、なぁ……」
「……嫌われた、もう生きていけない、僕の全て……僕の初恋」
独り言のように繰り返すレジナルド。章吾の声はまるで聴こえていないようだった。
(……嫌われた、か)
章吾の手足は、芯から冷たくなっていく。
こんなこと、自分だってしたくなかった。だけど、こうするしか、なかったんだ。
自分のなかに、黒い霧が立ち込めていた。
*
その日の夜。
章吾の部屋に、ノックの音が響く。
あいつだ。章吾の心は知っていた。
心臓の鼓動が早くなる。
(……あいつは、俺に何て言うかな)
汗ばんだ手で、慎重にドアを開く。
──そこには、アルジャーノンが立っていた。
「Hiwatari」
「……レジナルドに頼まれて、あんな事をしたのだろう」
瞬間、章吾は目を見開いた。
(俺のことを、信じている)
胸が熱い。苦しい。
「レジナルドは、そういう奴だと知っている。でも、なぜだ。なぜ、君は力を貸した」
アルジャーノンの声には、怒りよりも、困惑の色が滲んでいた。
「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」
かすれた声で、絞り出すように言った。
「Hiwatari、それはどういう──」
言葉を遮るように、章吾は力任せにドアを閉める。冷たい隙間風が、ふたりの背中をなぞった。
小刻みに揺れるドアの前、アルジャーノンは、立ち尽くしていた。
音を失った世界の中。アルジャーノンは思う。
まさか。あれは──好きだと、そういう意味だったのか。
頬がかっと熱くなった。馬鹿な。ありえない。ありえないはずなのに、止まらない。
ぐしゃぐしゃに顔を歪め、椅子の背もたれを握りしめた。
(Hiwatari──君はこの扉の向こうで、一体何を考えている。私は、どうしたらいい)
答えは、どこにもなかった。
*
深夜、寄宿舎の個室。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、ベッドの上で天井を見つめたまま、身動きもせずにいた。
胸の奥だけが、どうしようもなく、うるさかった。
(Hiwatari)
あのときの声が耳にこびりついて離れない。
『お前に結婚なんてしてほしくない』
たったそれだけなのに、どうしてこんなにも。
ぎゅうっと胸が締め付けられる。息ができない。気づけば唇が勝手に動いていた。
かすれた声で、
「Shogo……」
呼んでしまった。
瞬間、全身に信じられないほどの熱が広がった。
跳ね起き、毛布を蹴散らし、頬まで真っ赤になっているのがわかる。
「……な、なにを。私はいったい──」
もだえるように枕を抱きしめる。胸の中では、名前だけが、何度も何度もこだました。
Shogo──
(……馬鹿だ。私は、もう……取り返しがつかない)
(父に知られたら──否、知れても構わない。私の想いは、もう……)
震える手で毛布をぎゅっと掴む。
夜の静けさの中、ただひとり、アルジャーノンは自分の鼓動に翻弄され続けていた。