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第28話 私は馬鹿だ

 放課後、寄宿舎の裏庭。いつもは静かなこの場所に、今日は妙な熱気が漂っていた。


 向かい合うのは、章吾とレジナルド・フェアファクス=アシュコーム。


 普段はろくに話しもしないふたりが、今、まるで一触即発の空気をまとって立っていた。


「……で?」

 壁にもたれながら章吾は睨みつける。


 レジナルドは珍しく真剣な顔だった。

「アルジャーノンの縁談の件、知っているよね」


「まあな」

 冷たく返したが、心の奥はざわついていた。


 レジナルドはゆっくり手を組み、

「私は、彼が不幸になるのを見たくない」と言った。


「君も、同じでしょ?」


 一瞬、答えに詰まった。でも、嘘はつけなかった。

「……ああ」


 かすれた声で応じると、レジナルドはふっと微笑んだ。どこか諦めを孕んだ笑みだった。


「なら、共闘しようよ」

「は?」

 思わず聞き返す。


「君も私も、立場は違えど想いは同じ。彼を守りたい。なら、手を組むべきだよ」

 ビジネスの交渉みたいな口調に、章吾は苦笑したくなった。だが、この提案だけは無視できなかった。


 静かに頷く。

「……わかった。共闘、してやるよ」


 レジナルドは心底嬉しそうに笑った。

「決まりだ、Hiwatari君」


 風が吹き抜け、新しい戦いの幕が静かに上がった。



 寄宿舎の談話室。夕暮れの光が古びた机に斜めに落ちている。


 章吾はノートパソコンを開き、隣には腕を組んだレジナルド。緊張気味の彼を横目に、章吾は涼しい顔で黙々とキーを叩いた。


 画面には、令嬢のSNSアカウント。レジナルドが見つけたものだった。


 パーティー写真のバックに映る金色のモザイク壁画を見つけた章吾は、すぐに画像検索にかける。

 数秒後、高級クラブ『The Golden Ivy』──ロンドン中心部、未成年立ち入り禁止エリアがヒットする。


「……ここだな」

 低く呟き、投稿時間に目を走らせる。夜の2時過ぎ。明らかに未成年がいる時間ではない。


「まずいな、これは」

 レジナルドがぽつりと言った。


 さらに章吾は、写真に映る男のタトゥーに目を留めた。この模様、どこかで──。


「『ダンディ・ライオンズFC』の選手?いや、まて──」

 章吾は顎に手を置いて、考え込んだ。

「まさか……いや違うか……」


「ちょっと待って。この画像、反転してる」

 レジナルドが、気づく。


「そうか。もう1回、画像検索だ」


 章吾は、伏し目がちに画面を見つめた。


 結果──その模様は、選手の熱狂的なサポーター、ロックバンドのボーカル「Tomy」のものだった。


 絶句するレジナルドをよそに、章吾は画面を閉じた。


「証拠は揃った。この女、アルジャーノンにはふさわしくねぇ」

 冷たく言い放つと、レジナルドは血の気の引いた顔で呟いた。

「……君、思ったより恐ろしいね」


 章吾は肩をすくめた。

「別に……必要だったから、やっただけだ」

 口にした瞬間、自分がひどく薄汚れているような気がした。


 ──お前を、こんな奴になんか、渡すもんか。



 夕暮れの寄宿舎、談話室の隅。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、椅子に座っていた。


 目の前には、章吾とレジナルドが並び立ち、無言でタブレットを差し出す。


 画面に映る、令嬢の素行を示す決定的な証拠。アルジャーノンは、眉ひとつ動かさず、静かに画面を閉じた。


「……私の家に、泥を塗ったつもりか?」

 静かな、冷えた声。


 章吾は一瞬目を伏せた。

 ──今、言わなきゃ。あいつは、あの女と一生……


 しかし、喉が絞まるようで、声が出ない。それを見たレジナルドは、不適な笑みを浮かべた。


「章吾が見つけたんだ。僕は、少し心配だっただけ」

 レジナルドの声は滑らかだったが、手が震えている。


(こいつ……!)

 章吾の額に、一筋の汗がつたった。


 蒼い目が、章吾を捉える。

 重い沈黙。時計の針の音だけが、響いていた。


 それから、彼は何も言わず──ふたりを残して去っていった。




 レジナルドは、その場にへたり込んで、肩を震わせた。


「……アルジー、怒ってた。どうしよう」

「お前、なぁ……」

「……嫌われた、もう生きていけない、僕の全て……僕の初恋」


 独り言のように繰り返すレジナルド。章吾の声はまるで聴こえていないようだった。


(……嫌われた、か)


 章吾の手足は、芯から冷たくなっていく。


 こんなこと、自分だってしたくなかった。だけど、こうするしか、なかったんだ。


 自分のなかに、黒い霧が立ち込めていた。



 その日の夜。


 章吾の部屋に、ノックの音が響く。


 あいつだ。章吾の心は知っていた。 


 心臓の鼓動が早くなる。


(……あいつは、俺に何て言うかな)


 汗ばんだ手で、慎重にドアを開く。


 ──そこには、アルジャーノンが立っていた。


「Hiwatari」

「……レジナルドに頼まれて、あんな事をしたのだろう」

 瞬間、章吾は目を見開いた。


(俺のことを、信じている)


 胸が熱い。苦しい。


「レジナルドは、そういう奴だと知っている。でも、なぜだ。なぜ、君は力を貸した」

 アルジャーノンの声には、怒りよりも、困惑の色が滲んでいた。


「……お前に、結婚なんてしてほしくない。それだけだ」

 かすれた声で、絞り出すように言った。


「Hiwatari、それはどういう──」

 言葉を遮るように、章吾は力任せにドアを閉める。冷たい隙間風が、ふたりの背中をなぞった。



 小刻みに揺れるドアの前、アルジャーノンは、立ち尽くしていた。


 音を失った世界の中。アルジャーノンは思う。


 まさか。あれは──好きだと、そういう意味だったのか。


 頬がかっと熱くなった。馬鹿な。ありえない。ありえないはずなのに、止まらない。


 ぐしゃぐしゃに顔を歪め、椅子の背もたれを握りしめた。


(Hiwatari──君はこの扉の向こうで、一体何を考えている。私は、どうしたらいい)


 答えは、どこにもなかった。





 深夜、寄宿舎の個室。アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、ベッドの上で天井を見つめたまま、身動きもせずにいた。


 胸の奥だけが、どうしようもなく、うるさかった。


(Hiwatari)


 あのときの声が耳にこびりついて離れない。


『お前に結婚なんてしてほしくない』


 たったそれだけなのに、どうしてこんなにも。

ぎゅうっと胸が締め付けられる。息ができない。気づけば唇が勝手に動いていた。


 かすれた声で、

「Shogo……」


 呼んでしまった。


 瞬間、全身に信じられないほどの熱が広がった。

跳ね起き、毛布を蹴散らし、頬まで真っ赤になっているのがわかる。


「……な、なにを。私はいったい──」

 もだえるように枕を抱きしめる。胸の中では、名前だけが、何度も何度もこだました。


 Shogo──


(……馬鹿だ。私は、もう……取り返しがつかない)

(父に知られたら──否、知れても構わない。私の想いは、もう……)


 震える手で毛布をぎゅっと掴む。


 夜の静けさの中、ただひとり、アルジャーノンは自分の鼓動に翻弄され続けていた。

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