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第29話 私は、こんなことで動じない

 朝の寄宿舎。


 章吾は、ネクタイを結びながら鏡の中の自分をぼんやりと見つめていた。

 目の下の隈が、ひどく濃い。昨夜、ほとんど眠れなかった。


(……あいつ)


 思い出すたびに、胸の奥がきゅうっと軋む。昨日、口にしてしまった言葉が、耳の奥で繰り返される。


「お前に結婚なんてしてほしくない」


 言ってしまった。もう、ごまかせない。


 ネクタイの結び目を思いきり締めたせいで、喉が詰まる。それでも緩める気にはなれなかった。


 ──戻れない。そんな気がしたから。


(俺は……)


(あいつを、諦めたくない)


 それだけは、はっきりしていた。

深く息を吐いてジャケットに袖を通し、ドアを開けた。



 ロビーの隅。章吾はソファに座り、教科書をぱらぱらとめくっていた。……フリだった。内容なんて頭に入ってこない。


 原因は、目の前でコーラをちゅーちゅー吸いながら、ニヤニヤしているチャドだ。


(……なんだよ、あいつ)


 ちら、とだけ目を向ける。睨んだつもりだったが、まったく効果はない。


「……見んな」


 低く呟くと、チャドは嬉しそうに肩をすくめた。


「いやぁ~、青春っていいなって思ってさ」


「は?」


「べっつに~」


 にやぁっと笑うその顔が、ひたすらイラつく。心の中で何度も深呼吸。感情を顔に出していないはずなのに、心臓だけが勝手に暴れていた。


 金色の髪、透き通る瞳。そして──あの言葉。


『お前に結婚なんてしてほしくない』


(……言っちまったもんな)


(取り消せねぇよな)


 教科書の角を指先でぎりぎりと押し潰す。チャドのニヤニヤも、レジナルドの視線も、全部、無視したかった。


 でも、もう遅い──誰よりも、自分が一番わかっていた。

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