目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第31話 こちらの指輪を見せていただけますか

 ロンドンの夏は、思ったよりも涼しい。


 日暮れにはまだ早い午後。光を受けた建物の壁が、白く眩しく輝いている。


 そんな街角に、ひとり立ち止まる姿があった。


 アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。


 彼の視線の先には、ロイヤル・アッシュ。王侯貴族御用達の老舗宝飾店だった。


(──これなら)


 慎重に思いを込めて、アルジャーノンはショーウィンドウにそっと指を伸ばした。


 きらめく細工。控えめで上品な輝き。


(彼に、似合う)


 微かな笑みが、彼の唇をかすめた。迷いはなかった。


 この気持ちを形にするなら、これしかないと思った。


 アルジャーノンは、息を整え、店内に足を踏み入れる。


 ベルの音が軽やかに響いた。そして、静かに店員に告げる。


「──こちらの指輪を、見せていただけますか」


 まるで運命に、そっと手を伸ばすように。


 その数メートル先。


 カフェのテラス席に座っていた男が、その光景を目撃していた。


 レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。


 彼は、細めた目越しに、すべてを見ていた。


 それから……すくりと立ち上がった。

 目指すはあの日本人、Shogo Hiwatari。


 ただひとつ、冷たい策略だけが動き始めた。



 週末の午後。寄宿舎の廊下を歩いていた章吾は、角を曲がった先でふと足を止めた。


(……ん?)


 先を行く誰かの背中。金色の髪。細身の制服。


 アルジャーノン。


 でも、どこか様子が違う。彼は周囲を気にするように振り返りながら、小さな箱を抱えていた。


 光沢のある包装紙。リボンで丁寧に結ばれた、きれいな四角。


(……なにあれ?)


 章吾は、思わず柱の影に隠れてしまっていた。


 アルジャーノンは箱を胸に抱えながら、誰にも見られたくないような様子で、階段を下りていく。


(プレゼント……?)


 気づかれないようにそっと後を追ったが、途中で人の気配に紛れ、彼の姿は見えなくなった。


 ──残されたのは、自分の胸に残る、妙なざわめきだけ。


(誰に渡すんだよ、あれ)


 胸の奥で、小さな棘が疼く。確かめたくても、確かめられない。問いただす資格なんて、自分にはないから。


 ──ただのクラスメイトなら。


 ──ただの寄宿舎のルームメイトなら。


 こんなふうに、気になって仕方ないなんて、ありえない。


 章吾はそっと自分の胸を押さえた。



 夕方。

「Hiwatari君。ちょっといいかな?」


 声をかけられたとき、章吾は中庭のベンチでぼんやりしていた。


 振り返れば、そこには、見慣れたブラウンヘアの少年──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。


 柔らかな笑みの裏で、彼の目はどこか遠くを見ていた。 


「アルジーは昔から特別だった。けど、僕には彼を幸せにする力がない。だから、せめて……」


 彼はポケットに手を突っ込み、言葉を呑んだ。


「……なに?」


 章吾はそっけなく返す。


 一方、レジナルドは気にも留めず、隣に腰を下ろした。


「君、アルジーと……ずいぶん親しそうだよね」


 レジナルドの声は軽いけれど、指がポケットで震えている。


 章吾は目を細めた。何だ、この違和感。


「彼、もうすぐ婚約するらしいよ。ロイヤル・アッシュの令嬢と」


 ──時が、止まった。


「……は?」


 章吾は、反射的にレジナルドを見た。


「噂だよ。ロイヤル・アッシュ家の令嬢とね。家柄も、資産も申し分ない」


 言葉の途中で、ほんの一瞬、声が引っかかった。レジナルドの視線が、芝生に落ちる。


「さっき、ロイヤル・アッシュで何か買ってたみたいだし」


 笑顔が、貼りつけたみたいに不自然だ。章吾の胸がざわついた。


「嘘、だろ」


 掠れた声に、レジナルドが肩を小さくすくめる。


「まあ、君には関係ない話かもしれないけど」


 章吾の視界が、ゆらりと揺れた。


 ロンドンの夏の空は、まだ明るい。


 それに対し胸の奥に落ちた影は、どうしようもなく濃かった。



 それから数日。


 どこか、様子がおかしい気がしていた。


 アルジャーノンはいつも通りに話すし、表情も変わらない。


 だが──ふとしたときに視線がぶつかると、彼はほんの一瞬だけ、目を伏せる。


 章吾の脳裏に、あのときの「箱」が浮かぶ。


(あの箱……やっぱ、誰かに渡したのか?)


 まさかと思いつつも、頭の中では勝手に想像が広がっていく。


 そして甦ったのは、彼の父親への一言。


 ──「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」


 遠い日の記憶が、再び章吾の胸をえぐる。


 優しさも、笑顔も、ただの同情に見えてくる。そんなやつじゃないって、知っているのに。


(だったらもう……)


 章吾は、机に突っ伏した。何も考えたくなかった。でも、考えずにはいられない。どうして、こんなにも、目が離せないんだろう。


 頭の中では、もうずっと、あいつのことしか浮かばなかった。



 寄宿舎の裏庭にある小さなベンチ。

 章吾は、ひとりそこに腰を下ろしていた。


 低い雲がゆっくりと流れていく。


 頭の中では、何度もあの顔がよぎっていた。


 アルジャーノンの、曖昧に逸らされたまなざし。      

 笑わない唇。

 遠ざかっていく気配。


(……もう、無理なんじゃねぇか)


 そんな声が、胸のどこかで囁いていた。


 ──コトン。


 突然、冷たいものが膝の上に置かれた。

 見れば、缶のコーラ。


「ほい。Shogo、甘いの好きだったよな?」


 チャドだった。やけに軽い調子で、隣に座る。


「……何、急に」


「いや、見てらんないからさ」

 彼は肩をすくめた。


「な、Shogo。俺、イギリス来てもう半年だけど、ヘンリー・フォードの言葉だけは今でも覚えてんだ」


 章吾は、ちらと目を向ける。


 チャドはコーラを開けて、喉を鳴らしたあとで、ぽつりと口を開いた。


「“Indecision is often worse than wrong action.”

──決断しないことは、間違った行動よりタチが悪い」


「……なに、それ」


「つまりは、そういうこと。動けるうちに、動いとけって話」


 どこか他人事みたいに言って、チャドは立ち上がる。


「じゃ、俺は先帰ってるわ。……で、Shogo。あいつのこと、ほんとに好きならさ」


 振り向いたその顔は、思いのほか真剣だった。


「勝手に終わらせんなよ」


 章吾は、その背を見送ることしかできなかった。


 そして──胸の奥が、ゆっくりと、疼きはじめていた。



 チャドの背が見えなくなったあとも、章吾はしばらく動けなかった。


 手に持った缶のコーラはぬるくなり、握る指先だけが冷たかった。


(勝手に……終わらせんな、か)


 呟いた言葉が、胸のどこかで跳ね返る。


(でも……終わったのかもしれない)


 最近のアルジャーノンは、視線を逸らす。


 いつものように近づいても、どこか間がある。


 あれだけまっすぐだった目が、どこか戸惑っていた。


 ──まるで、自分の気持ちが重荷になったみたいに。


(……それでも、俺、好きなんだよ)


 ふいに、記憶がよみがえる。中庭で見かけた、あの姿。


 箱を抱え、誰にも見られないように歩いていた後ろ姿。


(……なあ、あれって)


 ひとつの可能性が、静かに胸を打つ。


(だったら)


 章吾は、缶を芝の上にそっと置いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。


 胸の奥で、まだぐらぐらと何かが揺れている。でも、それでも。


(走って、ぶつける。怖くても、伝える)


 ──そう決めた瞬間、足が自然と前へと動き出していた。



 回廊の角を曲がった瞬間、視界の端で金色の光が揺れた。


 アルジャーノン。彼もまた、ひとりで歩いていた。肩越しに差し込む光に、髪がふわりと透けていた。


「……Hiwatari?」


 声が届いた瞬間には、もう、止まれなかった。


 章吾はそのまま、正面から歩み寄る。胸の奥で、何かがごうごうと燃えている。


(止まんなくていい。もう、止まりたくない)


 言葉にすれば、何かが壊れるかもしれない。


 でも、言わなければ──本当に、何も手に入らない気がして。


 章吾は、一歩、踏み出した。


「おい、アルジャーノン」


 呼びかけた声が、自分のものじゃないみたいだった。でも、もう引き返せなかった。


「……お前、本気で、それでいいのかよ」


 静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。一瞬、アルジャーノンの瞳が揺れる。


「……何のことを──」


「ロイヤル・アッシュの婚約話だよ!」


 ぶつけるように叫んだ。声が裏返って、自分でも驚いた。


「そんなの……絶対に、嫌だ」


 心臓が暴れている。何をどこまで伝えたくて叫んでるのか、自分でももうよく分からなかった。


 ただ、言わなきゃいけないことが、確かにあった。


 拳を握り、唇を噛む。


 消えない想いが、胸の奥から、溢れ出した。


「俺……」


 言葉が、つっかえて出てこない。喉が焼けるように熱いのに、声だけが遠かった。


「俺、お前がいないと、ダメなんだよ……」


 やっとの思いで吐き出した声は、涙の味がした。声も、手も、足元も震えてる。


 それでも、伝えたかった。


「好きだって、言ってんだよ」


 絞るような声だった。情けないくらいに、弱くて、不器用で、まっすぐな言葉。


 アルジャーノンの顔が、揺れていた。


 何かを言いかけて、言葉を呑み込むような目をしていた。


 沈黙が、重くのしかかる。


「……もういい。言ったから、それでいい」


 そう言い捨てて、章吾は背を向けた。

 逃げたかった。自分の感情からも、あの目の意味からも。


 背を向け、走り出す。目の奥が熱かった。泣きたくなんかないのに、顔がどうしようもなく歪んでいた。


 廊下に、足音が響く。


「Hiwatari!」


 寮の自室まで一気に駆け上がり、扉を閉める。肩で息をしながら、鍵をかけ、背中でドアを支えた。


 ノブが揺れる。


「……Hiwatari。話を……」


「帰れ!」


 叫んでしまった。


 しばらくして、足音が遠ざかる。


 部屋に残されたのは、呼吸の音と、ひとり分の鼓動だけだった。


(バカだな、俺……)


 ぽつりとこぼれた声は、誰にも届かないまま、薄暗い部屋に落ちていった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?