ロンドンの夏は、思ったよりも涼しい。
日暮れにはまだ早い午後。光を受けた建物の壁が、白く眩しく輝いている。
そんな街角に、ひとり立ち止まる姿があった。
アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル。
彼の視線の先には、ロイヤル・アッシュ。王侯貴族御用達の老舗宝飾店だった。
(──これなら)
慎重に思いを込めて、アルジャーノンはショーウィンドウにそっと指を伸ばした。
きらめく細工。控えめで上品な輝き。
(彼に、似合う)
微かな笑みが、彼の唇をかすめた。迷いはなかった。
この気持ちを形にするなら、これしかないと思った。
アルジャーノンは、息を整え、店内に足を踏み入れる。
ベルの音が軽やかに響いた。そして、静かに店員に告げる。
「──こちらの指輪を、見せていただけますか」
まるで運命に、そっと手を伸ばすように。
その数メートル先。
カフェのテラス席に座っていた男が、その光景を目撃していた。
レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
彼は、細めた目越しに、すべてを見ていた。
それから……すくりと立ち上がった。
目指すはあの日本人、Shogo Hiwatari。
ただひとつ、冷たい策略だけが動き始めた。
*
週末の午後。寄宿舎の廊下を歩いていた章吾は、角を曲がった先でふと足を止めた。
(……ん?)
先を行く誰かの背中。金色の髪。細身の制服。
アルジャーノン。
でも、どこか様子が違う。彼は周囲を気にするように振り返りながら、小さな箱を抱えていた。
光沢のある包装紙。リボンで丁寧に結ばれた、きれいな四角。
(……なにあれ?)
章吾は、思わず柱の影に隠れてしまっていた。
アルジャーノンは箱を胸に抱えながら、誰にも見られたくないような様子で、階段を下りていく。
(プレゼント……?)
気づかれないようにそっと後を追ったが、途中で人の気配に紛れ、彼の姿は見えなくなった。
──残されたのは、自分の胸に残る、妙なざわめきだけ。
(誰に渡すんだよ、あれ)
胸の奥で、小さな棘が疼く。確かめたくても、確かめられない。問いただす資格なんて、自分にはないから。
──ただのクラスメイトなら。
──ただの寄宿舎のルームメイトなら。
こんなふうに、気になって仕方ないなんて、ありえない。
章吾はそっと自分の胸を押さえた。
*
夕方。
「Hiwatari君。ちょっといいかな?」
声をかけられたとき、章吾は中庭のベンチでぼんやりしていた。
振り返れば、そこには、見慣れたブラウンヘアの少年──レジナルド・フェアファクス=アシュコーム。
柔らかな笑みの裏で、彼の目はどこか遠くを見ていた。
「アルジーは昔から特別だった。けど、僕には彼を幸せにする力がない。だから、せめて……」
彼はポケットに手を突っ込み、言葉を呑んだ。
「……なに?」
章吾はそっけなく返す。
一方、レジナルドは気にも留めず、隣に腰を下ろした。
「君、アルジーと……ずいぶん親しそうだよね」
レジナルドの声は軽いけれど、指がポケットで震えている。
章吾は目を細めた。何だ、この違和感。
「彼、もうすぐ婚約するらしいよ。ロイヤル・アッシュの令嬢と」
──時が、止まった。
「……は?」
章吾は、反射的にレジナルドを見た。
「噂だよ。ロイヤル・アッシュ家の令嬢とね。家柄も、資産も申し分ない」
言葉の途中で、ほんの一瞬、声が引っかかった。レジナルドの視線が、芝生に落ちる。
「さっき、ロイヤル・アッシュで何か買ってたみたいだし」
笑顔が、貼りつけたみたいに不自然だ。章吾の胸がざわついた。
「嘘、だろ」
掠れた声に、レジナルドが肩を小さくすくめる。
「まあ、君には関係ない話かもしれないけど」
章吾の視界が、ゆらりと揺れた。
ロンドンの夏の空は、まだ明るい。
それに対し胸の奥に落ちた影は、どうしようもなく濃かった。
*
それから数日。
どこか、様子がおかしい気がしていた。
アルジャーノンはいつも通りに話すし、表情も変わらない。
だが──ふとしたときに視線がぶつかると、彼はほんの一瞬だけ、目を伏せる。
章吾の脳裏に、あのときの「箱」が浮かぶ。
(あの箱……やっぱ、誰かに渡したのか?)
まさかと思いつつも、頭の中では勝手に想像が広がっていく。
そして甦ったのは、彼の父親への一言。
──「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしました」
遠い日の記憶が、再び章吾の胸をえぐる。
優しさも、笑顔も、ただの同情に見えてくる。そんなやつじゃないって、知っているのに。
(だったらもう……)
章吾は、机に突っ伏した。何も考えたくなかった。でも、考えずにはいられない。どうして、こんなにも、目が離せないんだろう。
頭の中では、もうずっと、あいつのことしか浮かばなかった。
*
寄宿舎の裏庭にある小さなベンチ。
章吾は、ひとりそこに腰を下ろしていた。
低い雲がゆっくりと流れていく。
頭の中では、何度もあの顔がよぎっていた。
アルジャーノンの、曖昧に逸らされたまなざし。
笑わない唇。
遠ざかっていく気配。
(……もう、無理なんじゃねぇか)
そんな声が、胸のどこかで囁いていた。
──コトン。
突然、冷たいものが膝の上に置かれた。
見れば、缶のコーラ。
「ほい。Shogo、甘いの好きだったよな?」
チャドだった。やけに軽い調子で、隣に座る。
「……何、急に」
「いや、見てらんないからさ」
彼は肩をすくめた。
「な、Shogo。俺、イギリス来てもう半年だけど、ヘンリー・フォードの言葉だけは今でも覚えてんだ」
章吾は、ちらと目を向ける。
チャドはコーラを開けて、喉を鳴らしたあとで、ぽつりと口を開いた。
「“Indecision is often worse than wrong action.”
──決断しないことは、間違った行動よりタチが悪い」
「……なに、それ」
「つまりは、そういうこと。動けるうちに、動いとけって話」
どこか他人事みたいに言って、チャドは立ち上がる。
「じゃ、俺は先帰ってるわ。……で、Shogo。あいつのこと、ほんとに好きならさ」
振り向いたその顔は、思いのほか真剣だった。
「勝手に終わらせんなよ」
章吾は、その背を見送ることしかできなかった。
そして──胸の奥が、ゆっくりと、疼きはじめていた。
チャドの背が見えなくなったあとも、章吾はしばらく動けなかった。
手に持った缶のコーラはぬるくなり、握る指先だけが冷たかった。
(勝手に……終わらせんな、か)
呟いた言葉が、胸のどこかで跳ね返る。
(でも……終わったのかもしれない)
最近のアルジャーノンは、視線を逸らす。
いつものように近づいても、どこか間がある。
あれだけまっすぐだった目が、どこか戸惑っていた。
──まるで、自分の気持ちが重荷になったみたいに。
(……それでも、俺、好きなんだよ)
ふいに、記憶がよみがえる。中庭で見かけた、あの姿。
箱を抱え、誰にも見られないように歩いていた後ろ姿。
(……なあ、あれって)
ひとつの可能性が、静かに胸を打つ。
(だったら)
章吾は、缶を芝の上にそっと置いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
胸の奥で、まだぐらぐらと何かが揺れている。でも、それでも。
(走って、ぶつける。怖くても、伝える)
──そう決めた瞬間、足が自然と前へと動き出していた。
*
回廊の角を曲がった瞬間、視界の端で金色の光が揺れた。
アルジャーノン。彼もまた、ひとりで歩いていた。肩越しに差し込む光に、髪がふわりと透けていた。
「……Hiwatari?」
声が届いた瞬間には、もう、止まれなかった。
章吾はそのまま、正面から歩み寄る。胸の奥で、何かがごうごうと燃えている。
(止まんなくていい。もう、止まりたくない)
言葉にすれば、何かが壊れるかもしれない。
でも、言わなければ──本当に、何も手に入らない気がして。
章吾は、一歩、踏み出した。
「おい、アルジャーノン」
呼びかけた声が、自分のものじゃないみたいだった。でも、もう引き返せなかった。
「……お前、本気で、それでいいのかよ」
静かな部屋に、その言葉だけが落ちた。一瞬、アルジャーノンの瞳が揺れる。
「……何のことを──」
「ロイヤル・アッシュの婚約話だよ!」
ぶつけるように叫んだ。声が裏返って、自分でも驚いた。
「そんなの……絶対に、嫌だ」
心臓が暴れている。何をどこまで伝えたくて叫んでるのか、自分でももうよく分からなかった。
ただ、言わなきゃいけないことが、確かにあった。
拳を握り、唇を噛む。
消えない想いが、胸の奥から、溢れ出した。
「俺……」
言葉が、つっかえて出てこない。喉が焼けるように熱いのに、声だけが遠かった。
「俺、お前がいないと、ダメなんだよ……」
やっとの思いで吐き出した声は、涙の味がした。声も、手も、足元も震えてる。
それでも、伝えたかった。
「好きだって、言ってんだよ」
絞るような声だった。情けないくらいに、弱くて、不器用で、まっすぐな言葉。
アルジャーノンの顔が、揺れていた。
何かを言いかけて、言葉を呑み込むような目をしていた。
沈黙が、重くのしかかる。
「……もういい。言ったから、それでいい」
そう言い捨てて、章吾は背を向けた。
逃げたかった。自分の感情からも、あの目の意味からも。
背を向け、走り出す。目の奥が熱かった。泣きたくなんかないのに、顔がどうしようもなく歪んでいた。
廊下に、足音が響く。
「Hiwatari!」
寮の自室まで一気に駆け上がり、扉を閉める。肩で息をしながら、鍵をかけ、背中でドアを支えた。
ノブが揺れる。
「……Hiwatari。話を……」
「帰れ!」
叫んでしまった。
しばらくして、足音が遠ざかる。
部屋に残されたのは、呼吸の音と、ひとり分の鼓動だけだった。
(バカだな、俺……)
ぽつりとこぼれた声は、誰にも届かないまま、薄暗い部屋に落ちていった。