目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第32話 君は、私の初めてを奪った

 夜。


 談話室の空気は、日中の熱気をわずかに残しながらも、どこか冷たかった。


 章吾は、革張りのソファに沈みこみ、天井をぼんやり見上げていた。


 照明の灯りもまばらで、薄暗い空間には、置きっぱなしの雑誌や空き缶だけが散らばっていた。


(……バカみてぇだ)


 喉の奥で笑って、傍らのテーブルに手を伸ばす。


──“CIDER”


 ラベルの涼しげな色彩。深く考えずにプルタブを引いた。

 シュッと空気が抜ける。


 ごくり、ごくり。

 炭酸が喉を滑り落ちていく。


(……ちょっと、苦い)


 そう思ったけれど、構わずもう一口。

 何もかも、どうでもよかった。

 誰にも求められていない気がして。 


 ふと、視界が傾いた。頭がぼうっと熱い。足元がふらつく。


(……あれ?)


 手にした缶を見つめる。


 ──“CIDER”


 イギリスでは、それは立派なアルコールだと、思い出すにはもう遅かった。


 ソファに崩れるように体を預ける。顔が熱い。心臓が、うるさい。


(……だっせぇ)


 かすかに笑った。どうしてこんなことになったのか。きっと、ぜんぶ、あいつのせいだ。


「……Hiwatari?」


 背後から聞こえた声。ゆっくり顔を向けると、淡い金髪を揺らすアルジャーノンがいた。


「あー……アルジー?」


 口調は緩く、舌が回っていなかった。


「君……酔っているのか?」

「サイダー……飲んだ」


 章吾は、にへらと笑う。笑いながら、そのまま寄りかかる。

 アルジャーノンの胸元に、額が触れる。


「おい、しっかりしろ」

「うるさい……」


 章吾は、ふらりと手を伸ばし──

 制服の胸元を掴んで、引き寄せた。


 そのまま、頬へと唇を寄せる。


 一瞬、世界が止まった。

 炭酸の残り香と、柔らかな感触。


 触れた、というより、ぶつけた。理性も、言葉も、全部、放り投げて。


「……すき、だったのに」


 ぼそりと落ちた一言が、アルジャーノンの心臓を凍らせた。呼吸が止まる。


「Hiwatari……っ」


 反射的に、章吾を突き放した。


 章吾は尻もちをつき、床にへたりこんだ。見上げる視線が、酔いで濡れていた。


 その中には、かすかに「わかっていた」諦めがあった。


「……な、にをするんだ」


 掠れた声。


 アルジャーノンは震える手を見つめる。何かを叫びそうになって、喉を閉ざした。


「君は……君は、何を……」


 言いかけて、言葉が崩れた。額に浮いた汗が、一滴、床に落ちる。


 拳が宙に浮かぶ。章吾は目を閉じた。


(殴られる)


 そのとき──


「……っ!」


 手のひらが打たれたのは、アルジャーノン自身の頬だった。


 パチン。乾いた音。


「落ち着け、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイル」


 名を名乗ったその声は、震えていた。


「君には、怒っていない……」


 そして、踵を返す。章吾を振り返らずに、扉を開けて出ていく。閉じた音が、冷たく部屋に響いた。


 章吾は、床に座り込んでいた。

 目の奥が熱く、泣くに泣けなかった。


(……叩かれたわけでもないのに)

(どうして、こんなに痛いんだ)


 自分からぶつけたくせに、予想通りの拒絶に、心が空になっていく。




 そして──そのすべてを見ていた、ひとりの影が。


 レジナルド。暖炉の火の前で、ただ静かに目を閉じていた。


「……アルジー」


 声にならない呼びかけ。


「君が誰を見ていても、構わない。でも」


「僕は、ずっと君を見ていたんだ」


 静かに揺らぐ炎は、彼の心をなだめていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?