朝。
空には、黒い雲が低く垂れこめていた。風は生ぬるく、雨をはらんだ空気が寄宿舎の廊下にまで重くのしかかっている。
──カツン、カツン。
水気を含んだ石造りの床を、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、迷いのない足取りで歩いていた。
足元に反射する光がゆらぎ、彼の姿も、歩みの影も少しだけ歪んでいた。
右手には、小さな黒い箱。
掌の中に、ずっと隠し持ってきたもの。
長く温めて、言葉にできずにいた想いを封じた、それは──
(……本当は、昨夜、渡すつもりだったのだ)
けれど、あの言葉。あの口づけ。
酔いに任せた行為だとしても、あまりに幼く、痛々しくて。突き放してしまった自分が、今も胸の奥で鈍く疼いていた。
(……あんな真似をされても)
(それでも、私は──)
怒ってなどいなかった。
触れられた頬に、まだ微かな温度が残っている気がして、アルジャーノンは無意識に足を速めた。
指先に伝わる箱の重みが、心臓の鼓動と重なり合う。
「ずっと、伝えたかったのだ」
迷いは、ない。
たとえ、彼がどんな顔をしようとも。たとえ、傷つけられた昨日が、すぐには癒えなかったとしても。
この箱に込めたものだけは──渡さなければならない。
「君が必要だ」と伝えるために。
それは贈り物ではなかった。未来を預けるための、小さな鍵だった。
──そんなとき。
廊下の向こうから、章吾が現れた。ぼさぼさの寝癖のまま、片手にバッグを引きずりながら。
二人の視線が、ぶつかった。
その瞬間、章吾の顔色がさっと変わった。
アルジャーノンが持つ箱に、視線が釘付けになる。
「……それ、誰に渡すんだよ」
章吾の声は、低く、震えていた。
アルジャーノンが、言おうとした次の瞬間──
章吾は、アルジャーノンの手から、乱暴に箱を奪い取った。
「おい、Hiwatari ──!」
驚きに声を上げたときには、章吾はもう、駆け出していた。
雨の匂いが濃くなる中、章吾は、奪った箱を胸に抱えて、石畳の向こうへと消えていった。
「返せ、Hiwatari !!」
怒声が、雷鳴とともに廊下に響き渡った。アルジャーノンは、何も迷わず、彼のあとを追った。
雨が、石畳に打ち付ける。
夏のロンドンに、とうとう嵐が降り始めた。
章吾は、ずぶ濡れになりながら走った。
ポケットの中の箱を、力いっぱい握りしめて。
(くそっ、くそ!)
(俺にじゃない。……あの、お嬢様に渡すための──)
思考はぐしゃぐしゃで、目の前も、雨でぐしゃぐしゃに滲んで見えた。
こんなこと、したくないのに。止まれなかった。
雷が頭上で轟いた。
ゴロゴロゴロ──ドンッ!
一瞬、昼間みたいに空が白く光る。
「──Hiwatari !」
後ろから追いかける声。それでも、章吾は止まらなかった。
怖かった。
これ以上、向き合うのが。
(お前の言葉を聞いたら、もう二度と引き返せねぇ気がして──)
「返せ!」
叫ぶ声が、すぐ背後まで迫る。息を切らして走るアルジャーノンが、必死に手を伸ばしてくるのが分かった。
章吾は、ようやく歩みを緩めた。息が切れて、喉が焼けるほど痛かった。
振り返った。
そこにいたのは、金髪がぐっしょりと濡れ、蒼い目が怒りと悲しみに揺れている、アルジャーノンだった。
「……なんで逃げるんだ、君は!」
雨に負けない声で、アルジャーノンが叫ぶ。
「俺のことなんか──ただの友達なんだろ!」
章吾もまた、怒鳴り返した。
「貴族のお坊ちゃんらしく、ちゃんとふさわしい相手に指輪渡して、立派な結婚でもしてくれよ!」
雷が、また空を裂いた。だが、その音よりも、
アルジャーノンの怒りに震える声が、鮮烈に響いた。
「君は──君は、何もわかっていない!!」
ずぶ濡れのふたり。
交差する視線。
雷雨の中、ついに、ふたりの心が正面からぶつかろうとしていた。
「……わかってねぇよ、俺は!」
章吾は、箱を胸に押しつけながら叫んだ。
「ロイヤル・アッシュ家のご令嬢なんか、俺に勝ち目ねぇしよ!」
髪をぐしゃぐしゃに濡らしながら、アルジャーノンが一歩、近づいてきた。
「なぜだ、Hiwatari 。なぜ君だけが、そんなにも、自分を低く見る?」
その声は、今にも泣きそうだった。
「だって、俺は庶民だし、背ぇ低いし、口わりぃし……っ!」
「……お前なんかに──」
喉まで出かけた言葉を、拳で口元に押し当てて、噛み殺す。
その目は真っ赤に濡れていた。
「でも、それでも、俺は……っ!──お前が、好きなんだよ!!」
怒鳴るように叫んだその瞬間、身体からすべての力が抜けた。
章吾は膝をつき、地面に崩れ落ちた。
ポケットから滑り落ちた箱が、カラン、と音を立てて、地面を転がる。
雷が空を引き裂いた。
閃光のなか、アルジャーノンの目が、見開かれたまま震えていた。
彼は一歩、また一歩と、章吾に近づいていく。
その目には、怒りでも戸惑いでもない、ひたすらに焼けるような痛みが滲んでいた。
そして、地面に転がった箱を拾い上げると、しゃがみ込み、章吾と同じ目線に膝を落とした。
「君は……馬鹿だ」
低く、震える声。
「なぜ君は、そんなにも、自分を踏みつけてまで、私を愛そうとするんだ……」
章吾は泣いていた。涙が雨と混じり、区別もつかなかった。
「ロイヤル・アッシュの婚約? あれは父の望みだった。私が選んだのは、最初から君だけだ」
アルジャーノンの声は震えていた。
「その箱は、君に渡すつもりだった」
章吾が顔を上げた。涙が、雨と混じる。
「最初から、ずっとだ」
そう言ったアルジャーノンの頬にも、涙が流れていた。
雷鳴が遠ざかる。
ゆっくりと、箱を開く。
中には、小さな銀の指輪。
雨粒を受けても、その輝きは失われなかった。
章吾は、ぽかんと箱を見つめた。
「……俺に?」
「……君にしか、渡すつもりはない。この指輪は君との未来を誓うものだ」
アルジャーノンは、まっすぐに章吾の目を見た。
「最初から、ずっとだ。婚約話など……すべて断ってある」
章吾は、ぐしゃぐしゃに濡れた顔で、やっと、やっと、小さく笑った。
「……ほんと、バカだな、俺」
泣き笑いしながら、そっと手を伸ばす。
震える指で、指輪を摘み上げる。
そして、自分の薬指に、そっとはめた。
「これで……絶対、離れねぇ」
雨音のなか、章吾の声は小さくても、誰より強かった。
「私も、永遠に離さない」
雨は、容赦なく降り続いていた。制服も、髪も、指先もびしょ濡れだったけれど。
それでも、章吾の心だけは、少しずつ温かくなっていった。
アルジャーノンは、静かに手を伸ばした。
指輪をはめた章吾の手を、まるで壊れものを扱うように、そっと包み込む。
「これからも──」
低く、震える声でアルジャーノンが言った。
「何があっても、君を信じる」
章吾の胸は、ぎゅっと締めつけられた。この手を、もう二度と離したくない。
この気持ちを、絶対に裏切りたくない。だから、章吾も、必死で声を絞り出した。
「……俺も、信じる」
「お前が俺を好きでいてくれるってこと──信じる」
アルジャーノンが、ふっと微笑んだ。
雨の中でも、その微笑みは、確かに光って見えた。
ふたりは、ゆっくりと距離を詰めた。
どちらからともなく、腕を伸ばす。そして、互いの体を、ぎゅっと抱きしめた。
ずぶ濡れのまま、冷たくなった指先も、濡れた背中も、全部、力いっぱい抱き寄せた。
「……ごめん」
章吾が、肩に顔を押しつけながら、震える声で呟いた。
「……ごめん、アルジャーノン」
彼は初めて、彼の名前を呼んだ。
「謝るな。……私も、臆病だった」
頭上では、また雷が轟いた。もはやふたりを遮るものは何もなかった。
雨音に包まれながら、ふたりはただ、ひたすらに、互いの体温を確かめ合った。
どれだけ冷たい雨に打たれても。この想いだけは、絶対に冷めないと、強く、強く誓った。
*
雨は、いつの間にか小降りになっていた。雷も遠ざかり、空の向こうに淡い光が滲んでいた。
石畳に打ちつけていた雨粒も、今は静かに染み込んでいく音しか聞こえない。ふたりは、まだ抱きしめ合っていた。
「……大好きだ、アルジャーノン」
冷たかったはずの体温は、今ではお互いのぬくもりで満ちている。
「Shogo」
アルジャーノンが、低い声で名前を呼んだ。
章吾は、顔を上げた。
目が赤く腫れているのも、ずぶ濡れの髪も、全部お互い様だった。
「これから先、どんなに遠く離れる日が来ても」
アルジャーノンは、濡れた指先で、章吾の頬をそっとなぞった。
「私は、必ず君のもとへ戻る」
章吾は目を見開き、そして、ぎゅっとアルジャーノンの制服を掴んだ。
「……離れねぇよ。お前がどこに行っても、俺が迎えに行く。雨の日も、雷の日も」
アルジャーノンの胸元に、章吾の拳が小さく震えていた。
彼の蒼い瞳が、揺れた。
「雷には気をつけろ、Shogo」
「打たれないように?」
「ああ。でも、雷には感謝している」
「俺たちは雷で結ばれた──ってな」
互いに、笑った。
ぼろぼろで、みっともなくて、それでも一番、本物の笑顔だった。
ふたりは、静かに指を絡ませた。
雨がやんだ空に、ほんの少し、虹のような光が滲んでいた。
「約束だな。ずっと一緒だ」
「……ああ、約束だ」
雨に濡れた石畳の上で、ふたりは未来へと誓いを交わす。
それは、「雷の日に始まった物語」の、終わりではなく──続きだった。
指先の指輪が、閃光できらりと輝いた。
遠ざかる雷鳴が、ふたりの誓いに静かに応えた。