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第33話 君を離さない

 朝。


 空には、黒い雲が低く垂れこめていた。風は生ぬるく、雨をはらんだ空気が寄宿舎の廊下にまで重くのしかかっている。


 ──カツン、カツン。 


 水気を含んだ石造りの床を、アルジャーノン・フォーセット=レイヴンズデイルは、迷いのない足取りで歩いていた。


 足元に反射する光がゆらぎ、彼の姿も、歩みの影も少しだけ歪んでいた。


 右手には、小さな黒い箱。

 掌の中に、ずっと隠し持ってきたもの。


 長く温めて、言葉にできずにいた想いを封じた、それは──


(……本当は、昨夜、渡すつもりだったのだ)


 けれど、あの言葉。あの口づけ。


 酔いに任せた行為だとしても、あまりに幼く、痛々しくて。突き放してしまった自分が、今も胸の奥で鈍く疼いていた。


(……あんな真似をされても)


(それでも、私は──)


 怒ってなどいなかった。


 触れられた頬に、まだ微かな温度が残っている気がして、アルジャーノンは無意識に足を速めた。


 指先に伝わる箱の重みが、心臓の鼓動と重なり合う。


「ずっと、伝えたかったのだ」


 迷いは、ない。


 たとえ、彼がどんな顔をしようとも。たとえ、傷つけられた昨日が、すぐには癒えなかったとしても。


 この箱に込めたものだけは──渡さなければならない。


 「君が必要だ」と伝えるために。


 それは贈り物ではなかった。未来を預けるための、小さな鍵だった。


 ──そんなとき。


 廊下の向こうから、章吾が現れた。ぼさぼさの寝癖のまま、片手にバッグを引きずりながら。


 二人の視線が、ぶつかった。


 その瞬間、章吾の顔色がさっと変わった。


 アルジャーノンが持つ箱に、視線が釘付けになる。


「……それ、誰に渡すんだよ」


 章吾の声は、低く、震えていた。

 アルジャーノンが、言おうとした次の瞬間──


 章吾は、アルジャーノンの手から、乱暴に箱を奪い取った。


「おい、Hiwatari ──!」


 驚きに声を上げたときには、章吾はもう、駆け出していた。


 雨の匂いが濃くなる中、章吾は、奪った箱を胸に抱えて、石畳の向こうへと消えていった。


「返せ、Hiwatari !!」


 怒声が、雷鳴とともに廊下に響き渡った。アルジャーノンは、何も迷わず、彼のあとを追った。


 雨が、石畳に打ち付ける。


 夏のロンドンに、とうとう嵐が降り始めた。


 章吾は、ずぶ濡れになりながら走った。


 ポケットの中の箱を、力いっぱい握りしめて。


(くそっ、くそ!)


(俺にじゃない。……あの、お嬢様に渡すための──)


 思考はぐしゃぐしゃで、目の前も、雨でぐしゃぐしゃに滲んで見えた。


 こんなこと、したくないのに。止まれなかった。


 雷が頭上で轟いた。


 ゴロゴロゴロ──ドンッ!


 一瞬、昼間みたいに空が白く光る。


「──Hiwatari !」


 後ろから追いかける声。それでも、章吾は止まらなかった。


 怖かった。

 これ以上、向き合うのが。


(お前の言葉を聞いたら、もう二度と引き返せねぇ気がして──)


「返せ!」


 叫ぶ声が、すぐ背後まで迫る。息を切らして走るアルジャーノンが、必死に手を伸ばしてくるのが分かった。


 章吾は、ようやく歩みを緩めた。息が切れて、喉が焼けるほど痛かった。


 振り返った。


 そこにいたのは、金髪がぐっしょりと濡れ、蒼い目が怒りと悲しみに揺れている、アルジャーノンだった。


「……なんで逃げるんだ、君は!」


 雨に負けない声で、アルジャーノンが叫ぶ。


「俺のことなんか──ただの友達なんだろ!」


 章吾もまた、怒鳴り返した。


「貴族のお坊ちゃんらしく、ちゃんとふさわしい相手に指輪渡して、立派な結婚でもしてくれよ!」


 雷が、また空を裂いた。だが、その音よりも、

アルジャーノンの怒りに震える声が、鮮烈に響いた。


「君は──君は、何もわかっていない!!」


 ずぶ濡れのふたり。

 交差する視線。


 雷雨の中、ついに、ふたりの心が正面からぶつかろうとしていた。


「……わかってねぇよ、俺は!」


 章吾は、箱を胸に押しつけながら叫んだ。


「ロイヤル・アッシュ家のご令嬢なんか、俺に勝ち目ねぇしよ!」


 髪をぐしゃぐしゃに濡らしながら、アルジャーノンが一歩、近づいてきた。


「なぜだ、Hiwatari 。なぜ君だけが、そんなにも、自分を低く見る?」


 その声は、今にも泣きそうだった。


「だって、俺は庶民だし、背ぇ低いし、口わりぃし……っ!」

「……お前なんかに──」


 喉まで出かけた言葉を、拳で口元に押し当てて、噛み殺す。


 その目は真っ赤に濡れていた。


「でも、それでも、俺は……っ!──お前が、好きなんだよ!!」


 怒鳴るように叫んだその瞬間、身体からすべての力が抜けた。


 章吾は膝をつき、地面に崩れ落ちた。


 ポケットから滑り落ちた箱が、カラン、と音を立てて、地面を転がる。


 雷が空を引き裂いた。


 閃光のなか、アルジャーノンの目が、見開かれたまま震えていた。


 彼は一歩、また一歩と、章吾に近づいていく。


 その目には、怒りでも戸惑いでもない、ひたすらに焼けるような痛みが滲んでいた。


 そして、地面に転がった箱を拾い上げると、しゃがみ込み、章吾と同じ目線に膝を落とした。


「君は……馬鹿だ」

 低く、震える声。


「なぜ君は、そんなにも、自分を踏みつけてまで、私を愛そうとするんだ……」


 章吾は泣いていた。涙が雨と混じり、区別もつかなかった。


「ロイヤル・アッシュの婚約? あれは父の望みだった。私が選んだのは、最初から君だけだ」


 アルジャーノンの声は震えていた。


「その箱は、君に渡すつもりだった」


 章吾が顔を上げた。涙が、雨と混じる。


「最初から、ずっとだ」


 そう言ったアルジャーノンの頬にも、涙が流れていた。


 雷鳴が遠ざかる。


 ゆっくりと、箱を開く。


 中には、小さな銀の指輪。

 雨粒を受けても、その輝きは失われなかった。


 章吾は、ぽかんと箱を見つめた。


「……俺に?」


「……君にしか、渡すつもりはない。この指輪は君との未来を誓うものだ」


 アルジャーノンは、まっすぐに章吾の目を見た。


「最初から、ずっとだ。婚約話など……すべて断ってある」


 章吾は、ぐしゃぐしゃに濡れた顔で、やっと、やっと、小さく笑った。


「……ほんと、バカだな、俺」


 泣き笑いしながら、そっと手を伸ばす。

 震える指で、指輪を摘み上げる。


 そして、自分の薬指に、そっとはめた。


「これで……絶対、離れねぇ」


 雨音のなか、章吾の声は小さくても、誰より強かった。


「私も、永遠に離さない」




 雨は、容赦なく降り続いていた。制服も、髪も、指先もびしょ濡れだったけれど。


 それでも、章吾の心だけは、少しずつ温かくなっていった。


 アルジャーノンは、静かに手を伸ばした。


 指輪をはめた章吾の手を、まるで壊れものを扱うように、そっと包み込む。


「これからも──」


 低く、震える声でアルジャーノンが言った。


「何があっても、君を信じる」


 章吾の胸は、ぎゅっと締めつけられた。この手を、もう二度と離したくない。


 この気持ちを、絶対に裏切りたくない。だから、章吾も、必死で声を絞り出した。


「……俺も、信じる」


「お前が俺を好きでいてくれるってこと──信じる」


 アルジャーノンが、ふっと微笑んだ。 


 雨の中でも、その微笑みは、確かに光って見えた。




 ふたりは、ゆっくりと距離を詰めた。

 どちらからともなく、腕を伸ばす。そして、互いの体を、ぎゅっと抱きしめた。

 ずぶ濡れのまま、冷たくなった指先も、濡れた背中も、全部、力いっぱい抱き寄せた。


「……ごめん」


 章吾が、肩に顔を押しつけながら、震える声で呟いた。


「……ごめん、アルジャーノン」


 彼は初めて、彼の名前を呼んだ。


「謝るな。……私も、臆病だった」


 頭上では、また雷が轟いた。もはやふたりを遮るものは何もなかった。


 雨音に包まれながら、ふたりはただ、ひたすらに、互いの体温を確かめ合った。


 どれだけ冷たい雨に打たれても。この想いだけは、絶対に冷めないと、強く、強く誓った。




 雨は、いつの間にか小降りになっていた。雷も遠ざかり、空の向こうに淡い光が滲んでいた。


 石畳に打ちつけていた雨粒も、今は静かに染み込んでいく音しか聞こえない。ふたりは、まだ抱きしめ合っていた。


「……大好きだ、アルジャーノン」


 冷たかったはずの体温は、今ではお互いのぬくもりで満ちている。


「Shogo」


 アルジャーノンが、低い声で名前を呼んだ。

 章吾は、顔を上げた。


 目が赤く腫れているのも、ずぶ濡れの髪も、全部お互い様だった。


「これから先、どんなに遠く離れる日が来ても」


 アルジャーノンは、濡れた指先で、章吾の頬をそっとなぞった。


「私は、必ず君のもとへ戻る」


 章吾は目を見開き、そして、ぎゅっとアルジャーノンの制服を掴んだ。


「……離れねぇよ。お前がどこに行っても、俺が迎えに行く。雨の日も、雷の日も」


 アルジャーノンの胸元に、章吾の拳が小さく震えていた。


 彼の蒼い瞳が、揺れた。


「雷には気をつけろ、Shogo」


「打たれないように?」


「ああ。でも、雷には感謝している」


「俺たちは雷で結ばれた──ってな」


 互いに、笑った。


 ぼろぼろで、みっともなくて、それでも一番、本物の笑顔だった。


 ふたりは、静かに指を絡ませた。


 雨がやんだ空に、ほんの少し、虹のような光が滲んでいた。



「約束だな。ずっと一緒だ」


「……ああ、約束だ」


 雨に濡れた石畳の上で、ふたりは未来へと誓いを交わす。


 それは、「雷の日に始まった物語」の、終わりではなく──続きだった。


 指先の指輪が、閃光できらりと輝いた。

 遠ざかる雷鳴が、ふたりの誓いに静かに応えた。


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