レイはロッカーで消毒済みの白衣を着ると、ロッカールームの隣にあるマルキオン・ゼミ第一研究室のドアを開けた。研究室のデスクの上には調合台とデータ入力用の補助機が載っており、学生たちがすでに何名か座って、調合台を睨みつけていた。研究室の奥の方に見慣れないスーツ姿の男性と、魔法医学科のサルベルト教授も立っており、フォルトンが先ほど言っていた厄介な検証案件を持ってきたのはこの二人か……とレイは思った。
「おはようございます」
研究室の奥の方に座っているマルキオン教授とフォルトンに挨拶をした。マルキオン教授は若くして魔法薬科の栄誉教授となった男で、魔法薬学会の第一人者だ。日々研究だの学会だのと、一か所にいてくれることが少ないので、レイも会ったのは約2か月ぶりだった。通信魔法で雑に「あれやっといて、送っといたから」なんてことさえしてこなければ、非常に尊敬できる教授である。そして、この研究室で唯一レイの体質をきちんと把握している人でもあった。正直、魔力量が少なくて魔術師になれない人など、世の中にはごまんといる。その中で、「魔力量もあるし知識も実力もあるけど、体質のせいで魔術師にはなれない人」というのは、軋轢が生まれやすい。「魔力量が少ないせいで枯渇してよくぶっ倒れる魔法オタク」という噂をあえて否定していないのはそういった理由もあった。
マルキオン教授とフォルトンはレイの方に向き直り、挨拶を返してくれる。
「おはよう。昨日はありがとうね。体調は?」
「はい、眠いです」
「素直でよろしい。レイ君、紹介するよ。国安保のマーベック氏だ」
マルキオン教授はスーツ姿の男性を示した。マーベックと紹介された男性は立ち上がって、レイに握手を求めてくる。国家安全保険機構、通称・国安保。魔法薬に関わる人間としては魔法薬の認可を行う機関というイメージが強いが、魔法治療・非魔法治療すべての分野における国民の安全を監視するための機関だ。出勤時間前のお役人が研究室に足を運ぶなんていうことは、正直、ただ事じゃない。レイはマーベック氏が差し出した手を握り返しながら、いよいよ逃げたくなってきた。
「トム・マーベックです」
「レイ・ヴェルノットです。よろしくお願いいたします」
レイが名乗ると、マーベック氏は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその表情は引っ込んでしまった。家名をきちんと理解した行政関係者は、大体こういう反応をする。マーベック氏の手を握る力が強くなった。
「『伝説の魔術師』の血筋にお会いできるとは、光栄です」
「やめてください。俺――私自身の功績はありませんから」
レイがそう言うと、やっとマーベック氏は手を離した。今の会話を聞きながらマルキオン教授は肩をすくめたが、サルベルト教授が一歩前に出て口を開いた。
「君がマルキオン教授の助手か」
「いえ、院生です」
そう言うと、マーベック氏とサルベルト教授は驚愕してマルキオン教授を見た。サルベルト教授に関してはマルキオン教授に軽蔑に近い表情を見せている。
「学生を使う気か!? 正気の沙汰じゃないぞ! 最悪、責任問題になりかねん!」
サルベルト教授の発言に、レイは、この教授は何をさせるつもりなのかと背中に冷や汗をかいた。しかし、問い詰められるマルキオン教授は柔和な態度を崩さない。
「だって、速くて正確だよ? マーベック、今朝渡した検証データ、2つあったでしょ? 一つは僕の、もう一つは彼の。その検証依頼を彼にしたの、昨日の昼」
マルキオン教授の言葉に、マーベック氏は手に持っていたトランクケースを机の上に置いて手をかざした。フォンッという音とともに魔法陣が側面に浮かびあがり、トランクケースの開錠音が聞こえる。中から書類を取り出してマーベック氏が二つの書類を見比べていく。
「この量を、そんな短時間で」
「ま、品質保証検査のみの検証だからっていうのもあるけどね」
「だとしてもロット数が半端ないですよ!?」
「不正はないよ。現に僕のデータはさっきまでザルハディア王国に出張してた僕が持ってたんだから」
なるほど、だから依頼日がだいぶ前だったのかとレイは思った。マルキオン教授は調合と研究においては非常にまじめに取り組むが、こういった依頼などを割と雑に取り扱いがちなので、今回もそれの一種だと思っていた。いい経験にはなったが、そういうことは早めに言っておいてもらいたい。毎度毎度、心臓と魔力回路に悪い。
「最近認可されたばかりの魔法薬用試薬だから念押しが欲しいってさ、税関がこっちに投げてくるの、いい加減やめてほしいんだけど?」
マルキオン教授の笑顔と一緒に放たれた言葉に、マーベック氏は苦い顔をした。それに構わずマルキオン教授は尚も続ける。
「今回までは協力するけど、もう次は無理だよ。いいね?」
「……善処します」
マーベック氏の言葉に口を曲げながらマルキオン教授は両手を広げて魔力を練り上げた。発動した魔法はその場にいた5人を包み込み、防音・盗聴防止の結界を張る。
「――いきなりするな、心臓に悪い」
サルベルト教授がマルキオン教授に毒ついた。いきなり魔法を発動されると、身構えるのは訓練された者の性だ。現にサルベルト教授の体には薄い被膜の防御魔法が展開されていた。
「ごめんごめん。レイ君もとっさにできて偉い偉い。」
レイもとっさに、フォルトンとともに収まる程度の盾型初級防御魔法を展開しており、言われたので解除した。魔力回路が少し熱を持ち、体が熱い。レイは鞄から小さなケースを取り出し、開錠魔法をかけてケースを開いた。中に乱雑に入っている錠剤を1錠つまんで口の中に放り込み、かみ砕く。
「それ、噛んでいいもの?」
フォルトンがジト目でレイを見る。レイは頷きながらケースに施錠魔法をかけた。
「見た目はあれだけど、魔法薬ですよ。大丈夫なように設計されてます」
「ならよし」
魔法薬は塗布する場合を除き液状のものが多いので、フォルトンの疑問も当然といえば当然だ。錠剤にすると即効性が少し落ちる。人の魔力に作用するものなので、単純な人のイメージによるものだろうという説が今のところ有力だ。それでも非魔法薬と比べれば段違いに即効性はあり、現にレイの魔力回路は少し熱を抑え始めた。
「よく聞いてね」
マルキオン教授がレイ達の方を見ながらにこやかに言った。レイとフォルトンは小さく「はい」と答えて背筋を伸ばした。マルキオン教授がマーベック氏に視線を移して話を促し、マーベック氏は咳払いをしてから話し始めた。
「大変申し訳ありませんが、今回のことは、箝口令が出ている案件となります。皆様、先に『宣誓』をお願いします」
レイはぞっとした。「宣誓」とは、自戒の魔法だ。解く場合には、宣誓時に使用する自戒内容を記した宣誓書を回収し、宣誓した者が破棄することでやっと解除することができる。
マーベック氏がマルキオン教授から順に宣誓書を渡し始める。レイはマルキオン教授を見た。マルキオン教授もレイに視線をくれたので、レイは目で訴えかけた。――帰っていいですか。マルキオン教授はにっこりと笑みを浮かべ、目で返答する。――だめです。
マルキオン教授が宣誓書に手をかざし、宣誓魔法を行使した。かざされた掌から赤紫色の魔法陣が宣誓書に落ちていく。その魔法陣は宣誓書にしみこんで、マルキオン教授の名が刻印された。サルベルト教授も、同様に宣誓魔法を行使する。残されたのはフォルトンとレイだ。マーベック氏が口を開く。
「君たち、将来国安保で働く気ない?」
「あります!」
フォルトンが答えて即座に宣誓魔法を行使した。レイは呆れながらフォルトンを見た。こんな買収の仕方があっていいのか。貴族位を持たないフォルトンのことを考えると、確かに正しい道なのかもしれない。レイはため息をつき、断るためにマーベック氏を見た。
「国安保に興味はないです」
「レイ君。向う一年間の課題免除しようか?」
「やります」
マルキオン教授の言葉にレイは意欲的に宣誓魔法を行使すると、サルベルト教授がただ深いため息をついているのが視界に入った。マーベック氏が全員の宣誓書を回収し、トランクケースに入れて施錠魔法をかけ、口を開く。
「今回お願いしたいのが、ザルハディア王国へ輸出している『呪いの浄化薬』についてのことです」
マーベック氏のその一言に、レイは自分の神経がぴりついたのを感じた。――「呪いの浄化薬」つまり、魔力の呪いの一時的な洗浄剤のことだ。魔力の呪いとは、魔力が汚染されることを言う。汚染された魔力を使用すると、行使した魔法が発動されなかったり、発動時に痛みや発熱を伴ったり、魔力回路の破壊や内臓機能損傷などを引き起こし、最悪死に至る。一時的な洗浄を行っても、根本的な呪いの元を断たない限り、永続的に発生する。呪いは、他者から掛けられる場合がほとんどだが、悪魔との契約や禁忌とされている魔法の使用により術者に発生することもある。もちろん、他者に呪いをかける行為自体も禁忌魔法のうちの一つだ。病に様々なものがある通り、呪いにも多種多様あり、それらすべての完全な治療薬はまだ開発されていない。現在確認されている呪いも、全ては痛みの緩和や破壊された魔力回路の治療を行うなどの対処療法に過ぎない。レイが先ほど飲んだ魔力回路の過熱を抑える薬も、呪いに起因する魔力回路の治療法をもとに作られたものだ。そして、件の呪いの浄化薬は、一時的な魔力の洗浄に現在最も効果があるとされているもの。謂わば、呪われた魔法使いが生き延びるための必需品だ。
「先日、呪いの浄化薬の生成を行った術者が――呪われていたことが分かりました」
マーベック氏は苦々しい面持ちで続ける。
「原因は他者からの呪いのようで、現在呪いをかけた本人が死亡したことにより本人の根治は済んでいるんですが、問題は汚染された魔力で作られてしまった浄化薬です。それが輸出分に混ざってしまったとのこと。今回の件はザルハディア王国からの大量注文により、製造元が多忙を極めたことで起こった人的ミスです。国安保としては直ちに業務改善命令を発令しましたが、これは我がオルディアス王国の品位を損なう一大事です。迅速かつ秘密裏に処理しなければいけない案件となります」
「ロット番号で弾けないの?」
マルキオン教授が至極まっとうな意見を言う。マーベック氏は深いため息とともに首を横に振った。
「今回の輸出量、本当に多いんです。分割交渉を試みましたが、ザルハディア王国からは難しいの一点張り。新しいものは迅速に作ってはいますが、可能性のあるロットごと抜くと、確実に数量が不足します」
「……メンツの問題か。要は怪しいものを全部抜くと足りなくなる。だから、ヤバいのだけ選別して入れ替えたい。そういうことだね?」
マーベック氏が頷くと、マルキオン教授はやれやれと背もたれに体を預けた。
「品質管理部門は? 機能してないんですか?」
フォルトンが口をはさむ。その言葉で、マーベック氏の眉間の皺がより深いものとなった。
「『出すに足る最低条件は、クリアしていた』と」
「――読めたぞ。呪われていることをわかった上で作らせたな? クソが。取りつぶしてしまえ、そんなところ。製作元の領地の開示を求める」
サルベルト教授が口汚く批判した。レイも正直それに強く賛同した。サルベルト教授の言を受けて、マーベック氏は目を伏せ、口ごもる。
「……マーベックとしては、申し上げかねます」
その一言で、事態を察したマルキオン教授とサルベルト教授が顔を見合わせ、レイは眼鏡を外して目頭を押さえた。
マーベック家は伯爵位を持つ家だ。そこが家名を出して言えないとなると、それよりも上の侯爵、公爵位が関わる問題となる。ザルハディア王国の大量発注にしろ、これはかなりきな臭い話になってきた。
マーベック氏が机の上に小さな装置を置いた。よく見るとそれは、簡易転移装置だった。どうやら、ここにいる人を全員、件の浄化薬が置いてある所へ転移させる気らしい。
「とにかく時間がありません。マルキオン教授およびレイ君は問題のロットの品質検査をお願いします! サルベルト教授とフォルトンくんはその補助を! 教授は学生とペアを組んでください! 行きますよ!」
そう言いながらマーベック氏が簡易転移装置に魔力を注ぎ込んだ。簡易転移装置が発動し、視界がゆがんで地に足がついていないような感覚に襲われる中、レイは転移先の検査量を考え、頭を抱えて魔力回路のオーバーヒートを覚悟した。